大女優・山田五十鈴の娘として生き、逝った嵯峨三智子

写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたちvol.30

現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が、本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大な信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。

瑳峨 三智子さん

嵯峨三智子は、昭和を代表する女優・山田五十鈴の娘でもあります。日本映画史にも名を連ねる大女優を母に持つ娘のプレッシャーとはいかなるものだったか、あるときはそれを突っぱね、あるときはその重荷に押しつぶされそうになりながら、彼女は戦後昭和を駆け抜けていったように思えてなりません……。

十数年ぶりに再会した母に
「山田さん」と発した娘

嵯峨美智子は1935年3月1日、京都府京都市生まれ。

父は戦前の二枚目俳優として鳴らした月田一郎、母は言わずと知れた大女優の山田五十鈴。

40年、両親が離婚し、彼女は父のもとに引き取られ、
(山田は親権をめぐって月田と裁判で争いますが、敗訴しました)
東京市世田谷区へ引っ越しますが、45年9月27日に父がメチルアルコール中毒で急死したからは父方の祖父母のもとで育てられました。

52年、父を知る映画界の人々の勧めで東映に入社し、嵯峨美智子の芸名で53年『旗本退屈男 八百八丁罷り通る』で映画デビューを飾ります。

『女間者秘聞 赤穂浪士』(53)では吉良邸に間者として入るも正体がばれ、非業の死と引き換えに赤穂浪士の本懐を遂げさせるヒロイン千代を熱演し、母親譲りの女優としての血を大いに感じさせました。

同年、東映に所属しながら他社出演の自由も獲得し、大映『続・十代の性典』(53)、新東宝『戦艦大和』(53)等に出演します。

結果として彼女はデビュー1年で15本もの映画に出演し、若手女優としての存在感を露にしていきました。

また53年、彼女は東映社員の友田一郎(のちの日活プロデューサー)と17歳の若さで結婚し、周囲を驚かせますが、55年には離婚。

実はデビュー直前、長年離れていた母・山田五十鈴の願いによって、十数年ぶりの母子の再会を果たしますが、そのとき嵯峨は母のことを「お母さん」ではなく「山田さん」と呼んだとのこと。それは親の七光りとして見られることを嫌う彼女の意思表示でもありました。一方、山田もその際には「女優という仕事は厳しいものです。華やかさに惹かれているなら大変な間違いです」と諭したと聞きます。

が、54年には『唐人お吉』で初の母子共演を果たすなど、母子としての仲が決して悪かったわけではなさそうで、同年、体調不良から心機一転、姓名判断で芸名を嵯峨三智子と改め、母と親和プロダクションを結成。こちらは翌年には解消しますが、その後も母・山田は娘に代表作を与えたいとの思いで、自身が主演での映画化を望んでいた『おしどりの間』(56)の脚本を嵯峨主演として書き直させています。

現代のレベルとは比べ物にならない
スキャンダル女優としての日々

50年代末から60年代初頭にかけては松竹京都撮影所の作品を中心に活躍しますが、徐々にスキャンダルも増えていきます。

57年には週刊誌に「21歳の超浪費家」と書かれて名誉棄損で告訴したり、58年には撮影中に左足首をねん挫したことで多数の作品への出演を棒に振ることになり、ようやく全快して主演した『昨日は昨日今日は今日』(58)が興行的に失敗。

共演者との恋の噂も絶えず、中でも松竹京都の期待の若手スター森美樹との熱愛は有名でしたが、60年12月4日、彼女から譲り受けたといわれる居宅でガス中毒死するという悲運にも見舞われます。

こういった影響でしょうか、61年は睡眠薬や精神安定剤の多量服用による副作用が表面化し、出演作品の撮影を一時中断。ついには入院して制作中止となった作品もありました。

もっとも62年になると心身ともに全快し、松竹『こつまなんきん』『湖愁』、東映『恋や恋なすな恋』、大映『江戸へ百七十里』などに出演し、女優として昂揚した年になりました。

64年にはフリーとなり、藤山寛美の肝いりで初舞台を踏み、テレビ出演も続々増えていく一方、同棲していた岡田真澄との婚約破棄を発表します。

67年には自律神経失調症で映画出演を辞退、68年には元マネージャーから給料の未払いなどで訴訟を起こされると同時に私生活の乱れも暴露され、71年にも所属事務所との金銭トラブルでマスコミに派手な話題を振りまいていきました。

この時期の彼女のスキャンダラスな状況は、現代における重箱の隅をつついたかのようなスキャンダルもどきとは比べ物にならないほど大きなもので、それは母・山田五十鈴が若い頃の“奔放”と呼ばれた生きざまとも重ね合わされていくことによって、そういった興味本位のみの芸能界への視線に耐えきれなくなった彼女は、その後引退と復帰を繰り返していきます。

新人時代の秋吉久美子と母子役で共演した『16歳の戦争』(73)は、その時期の彼女の代表作といってもいいでしょう。

結局、88年の映画『橋』出演を最後に、完全に芸能界を引退しました。

その4年後、92年8月6日、嵯峨三智子は観光で訪れたタイ・バンコックでくも膜下出血に見舞われて現地に入院し、19日に57歳の若さでこの世を去りました。

娘の死に目に会えなかった山田五十鈴は、2012年7月9日、95歳で亡くなりました。

「放浪症なんですよ。これだけは母と共通する性格なのかもしれません」と、『婦人公論』(61年6月号)の取材に応えた嵯峨三智子ですが、後にこの母子はお互いを「あんた」と呼び合うようになっていたとのことです。

なお、瀬戸内寂聴が瀬戸内晴美時代に発表した小説『女優』(64)のモデルは嵯峨三智子であるとのことです。

※「東京スポーツ」「中京スポーツ」「大阪スポーツ」は毎週月曜、「九州スポーツ」は毎週火曜発行紙面で、「生誕100年 写真家・早田雄二が撮った銀幕の名女優」を好評連載中。

(文:増當竜也

    ライタープロフィール

    増當竜也

    増當竜也

    増當竜也 Tatsuya Masutou 鹿児島県出身。映画文筆。 朝日ソノラマ『宇宙船』『獅子王』、キネマ旬報社『キネマ旬報』編集部を経て、フリーの映画文筆業に就く。 取材書に『十五人の黒澤明』(ぴあ刊)、『特撮映画美術監督・井上泰幸』(キネマ旬報社刊)など。 編集書に『40/300 その画、音、人』(佐藤勝・著)『神(ゴジラ)を放った男/映画製作者・田中友幸』(田中文雄・著)『日記』(中井貴一・著)『日記2』(中井貴一・著)『キネ旬ムック/竹中直人の小宇宙』『同/忠臣蔵映画の世界』『同/戦争映画大作戦』(以上、キネマ旬報社刊) その他、パンフレットやBD&DVDライナーノートへの寄稿、取材など多数。 ノヴェライズ執筆に『狐怪談』『君に捧げる初恋』『4400』サードシーズン(以上、竹書房刊) 現在『キネマ旬報』誌に国産アニメーション映画新作すべてのレビューをめざす『戯画日誌』、『衛星劇場プログラムガイド』誌に、毎月オンエアされる松竹映画名作群の見どころなどを紹介する『シネマde温故知新』を連載中。

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