「な?」と微笑んだときの偉大なる映画スター三船敏郎の人間的魅力

俳優・映画人コラム

■「キネマニア共和国」

現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が、本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大な信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。

三船 敏郎さん

今回は三船敏郎です。

『七人の侍』(54)を筆頭とする黒澤明監督作品をはじめ、世界的に知られた偉大なる国際的映画スター。今なおリスペクトは収まることを知らず、その作品群は常に世界のどこかで上映されています。

今回、長文になりました。

カメラマン志望が誤って俳優の道へ

三船敏郎は1920年4月1日、中国・山東省青島生まれ。父は写真屋を営み、4歳のときに遼寧省大連に家族で引っ越し、33年に大連中学に入学した後、父が倒れてからは家業を手伝うようになります。

このキャリアが、後の大スター三船敏郎誕生のきっかけとなることに、本人すら気づくはずもありませんでした。

38年に卒業して40年に満州陸軍航空隊に入隊。本人曰く「悪夢のような」6年間を軍隊で過ごします。

終戦は熊本県で迎えますが、そのとき既に両親は死亡。死に目にも会えず、中国に戻れるはずもなく、かといって国内に頼れる親戚もなく、とにかく写真の技術を活かそうと上京したものの、東京は焼け野原で写真館どころではなく、そんな折、軍隊時代の仲間・大山年治が東宝撮影所の撮影部に在籍していることを知って、相談の上、撮影所に履歴書を出したところ、1か月後の46年6月に呼び出しがありました。

しかし、喜んで撮影所に赴いたら、それは東宝第1期ニューフェイスの面接試験でした。

何と、彼の履歴書は誤って、そちらのほうに紛れ込んでしまっていたのです。

そもそも俳優に興味もなかった彼は、試験官に「笑ってみろ」と言われて「男たるもの、そう簡単に笑えるものではありません」と憮然と答えるなど、そのふてぶてしい態度が試験官たちの顰蹙を買ったのですが、ただひとり、戦時中に大ヒット作『ハワイ・マレー沖海戦』(43)を撮り、黒澤明・本多猪四郎・谷口千吉の師匠でもある山本嘉次郎監督が彼を気に入り、ごり押しで補欠合格させました(4000人の応募者の中から男16名、女32名が合格)。

さて、この年の秋、東宝では大規模な労働争議が起こり、厳しい攻防が繰り広げられて撮影所は真っ二つに割れ、原節子や高峰秀子など大物スター10名が東宝を離れ(これが47年の新東宝発足のきっかけとなりました)、これによってスター不足を補うため、新人俳優たちを一挙起用せざるを得ない事態になってしまいました。

かくして三船敏郎も47年8月に公開された谷口千吉監督のデビュー作『銀嶺の果て』で俳優デビューを飾ります。三船の役は志村喬、小杉勇男らベテランと並ぶ三悪党のひとりで、そのふてぶてしさがリアルな不良性感度の高さへと転じて、戦後間もない時期、娯楽に飢えていた多くの日本人の目に留まり、注目されることとなりました。

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–{黒澤明との出会い そして国際スターの道へ}–

黒澤明との出会いそして国際スターの道へ

翌48年、『銀嶺の果て』の脚本を執筆していた黒澤明監督による『酔いどれ天使』に三船は起用されます。本来これは志村喬扮する酔いどれ医者が主人公だったのですが、復員崩れで肺病持ちのやくざを演じた三船のピカレスクな魅力に観客の目線は注がれていきました。

以後、黒澤明×三船敏郎による珠玉の名作群が次々と放たれていくことになり、結果として『酔いどれ天使』から『赤ひげ』(65)までの黒澤映画の中で『生きる』(52)を除くすべての作品に、三船敏郎は主演することになりました。

この中で、黒澤監督が大映で撮った『羅生門』(51)がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)およびアカデミー賞名誉賞(=外国映画賞)を受賞したことから、主演・三船敏郎の存在も世界的に伝わっていきます。

そして今では世界映画史上第1位の誉れも高き『七人の侍』(54)が同映画祭で銀獅子賞を受賞するとともに海外でも公開されるようになり、彼の人気は世界的なものと化していくのでした。

同時期、稲垣浩監督による主演時代劇『宮本武蔵』3部作のうち、第一部(54)がアカデミー賞名誉賞を受賞したことも、追い風となりました。

稲垣監督×三船敏郎コンビ作も好調で、『無法松の一生』(58)もヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞しています。

こうした黒澤、稲垣監督らの大作群の狭間を縫うかのように、東宝のプログラムピクチュアにも多数出演してはいますが、やはり黒澤作品の撮影が入ると掛け持ちは許されず、それ1本に集中しなければなりません。

そんなとき、逆にプログラムピクチュアばかりやらされてうんざり気味の若手俳優たちに、三船敏郎は「いいなあ、君たちはいろいろな映画にいっぱい出られて。俺なんか黒澤のせいで、これ1本しか出られないから、全然稼げやしない!」と、冗談を言いながら励ましていたとのことです。

若手らもまた「黒澤明のバカヤロー!」と、撮影所のあちこちで叫びながら、自分たちを笑わせ励ます三船敏郎の優しさ、および黒澤明との絆の深さを感じとっていたと聞きます。

61年、海外での評価が高まっていく三船敏郎はメキシコ映画『価値ある男』に主演し、全編スペイン語の台詞を覚えて撮影に臨みました(残念ながら完成品は吹替になってしまいましたが)。

またこの年、黒澤映画の至宝ともいえる『用心棒』で、65年の名コンビの最終作ともなった『赤ひげ』で、三船はともにヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞しました。

こういった流れの中、“世界のミフネ”の名声がますます高まっていき、ジョン・フランケンハイマー監督の『グランプリ』(67)、ジョン・ブアマン監督『太平洋の地獄』(68)、テレンス・ヤング監督『レッドサン』(71)など数多くの外国映画に出演し続けていきます。

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–{三船プロダクションの設立 80年代後半の栄誉}–

三船プロダクションの設立80年代後半の栄誉

一方では62年に三船プロダクションを立ち上げ、63年には自らの監督・主演で『五十万人の遺産』を発表。その後も岡本喜八監督『侍』『血と砂』(65)、稲垣浩監督『風林火山』(69)『待ち伏せ』(70)、沢島忠監督『新選組』(69)などを製作。石原裕次郎の石原プロと提携した熊井啓監督『黒部の太陽』(68)も大ヒットし、邦画メジャー会社の枠を超えたスターによる映画製作を成功させていきました。

もっとも、三船プロダクション社長としての立場によって、70年代以降はおいそれと海外映画に出演することが出来なくなり、それゆえに断った作品の中に『スター・ウォーズ』(77)があります。

黒澤映画ファンのジョージ・ルーカス監督は、当初オビ・ワン・ケノビの役を彼にやってもらいたかったのですが、残念ながらそのオファーを受けることは叶いませんでした。

また、同じ理由で彼が出演できなかったのが、黒澤監督がソ連に招かれて撮った『デルス・ウザーラ』(75)で、これが実現していたら、もしかしたら名コンビ復活となり、その後もなにがしかの新作が誕生していたかもしれません。

(三船敏郎は『デルス・ウザーラ』をモスクワで撮影中の黒澤監督を陣中見舞いしています)

そんな彼ですが、87年、山田洋次監督による『男はつらいよ 知床慕情』に無骨ながらも純粋な中年男の役で出演し、この年の助演男優賞を多数受賞。

さらに89年、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』で千利休を堂々たる貫録で演じ、各方面で喝采されました。

この流れで、彼は熊井監督の『深い河』(95)にも出演し、結果としてこれが彼の最後の映画出演となりました。

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–{三船敏郎を取材しての 鮮烈な記憶}–

三船敏郎を取材しての鮮烈な記憶

実は私自身、この時期、三船敏郎さんに取材させていただいたことがあります。

これから話すことは以前『オールタイム・ベスト映画遺産 日本映画男優・女優100』(キネマ旬報社・刊)にも記したことのあるエピソードですが、やはり三船敏郎というと、私にはこの思い出が鮮烈に記憶されてしまっているので、再度書いてみたいと思います……。

私が「キネマ旬報」編集部に入って間もない92年の初夏、東宝創立60周年記念特集が企画され、その中で三船敏郎さんに300字程度のコメントをもらおうということになり、何とペエペエの私が電話取材することになりました。

さっそく三船プロに電話をかけると、ご子息で社長の三船史郎さん曰く、三船敏郎さんは電話取材が嫌いなので直接来て話を聞いてほしいとのこと。

当時まだ20代後半の若造が“世界のミフネ”にじかに会えるという緊張で、もうガチガチに震えながら、私は成城の三船プロへ向かいました。

応接室で心臓をバクバクさせていると、まもなくしてご本人が中へ!

その風情は『用心棒』(61)の桑畑三十郎さながら、どこか不機嫌で苦虫を噛み潰したような、そんなオーラを全身から発散させていました。

こちらは『椿三十郎』(62)の若侍のように一気に委縮しつつも踏ん張って、まずは東宝入社のいきさつからお聞きしてみた……のですが?

「おう! あのとき撮影所に戦車が来てな!」

何と、三船さんはいきなり、あの「来なかったのは軍艦だけ」とも称された東宝争議の話を威勢よく語り始めたのです。

「当時のあなたのオーディションの話とかをしゃべってください!」などとはとても怖くて言えないままでいたら、いつのまにか三船さんの話は脱線し、ついには日露戦争がどうだのと、おかしな方向へずれていきました。

ならば、ちょっと視点を変えて、デビュー作『銀嶺の果て』(47)へと何とか話を移行させてみた……ところ?

「おう!『銀嶺の果て』の監督は千ちゃん(谷口千吉)だ。千ちゃんはな、黒澤明の友達なんだぞ……。ほら、見てみろ!」

と、三船さんはたまたまテーブルの上に置いてあった三船プロ特製パンフレットをめくりながら、その中に記載されている自身のフィルモグラフィを指差し始めたのです。

「ほら、これ(たとえば『酔いどれ天使』48を指さして)は、黒澤が監督だ。黒澤は千ちゃんと友達なんだ。これ(『ジャコ萬と鉄』49)は千ちゃんが監督だ。千ちゃんはイノさん(本多猪四郎)の友達なんだ。これ(『太平洋の鷲』53)はイノさんが監督だ。イノさんは黒澤の友達なんだ。で、これ(『蜘蛛巣城』57)は黒澤だ。黒澤は千ちゃんの……」

三船さんは延々と黒澤&谷口&本多、偉大なる三監督のタイトルを指差しては、その終わることのない友情の輪を口にし続けていくのでした。

次第に自分が三十郎の謀略にはめられていくかのような、そんな甘美な恐怖に包まれていきます……。

ならば、それを払拭すべく!

「あの、三船さんは海外の映画にもいっぱい出てらっしゃいますね?」

東宝60周年とは関係ない質問ではありましたが、実はこちらが本当に聞きたかったのは、これだった!

すると三船さん、ガバッと立ち上がり、いきなりスペイン語を1分ほど延々まくしたてた!?

(失礼ながら、そのときの彼は『独立愚連隊』(59)の発狂した将校役を彷彿させるものがありました……)

「どうだ! 俺は初めての外国映画(メキシコ映画『価値ある男』61)の台詞を全部覚えて演ったんだぞ!」

「えっへん!」とばかりに胸を張る三船さんに、どこか『七人の侍』(54)の菊千代を見出しつつも、私の頭の中は真っ白になりかけていました。

呆然としたこちらの顔をニヤニヤ眺めながら、三船さんは続いて戸棚から古いアルバムの束を取り出し、中をめくり始めました。

そこには『グラン・プリ』(67)のジェームズ・ガーナーや『太平洋の地獄』(68)のリー・マーヴィン、『レッド・サン』(71)のアラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンなどなど、これまで共演した海外スターとのプライベート・ショットや、海外の映画祭に出席した際の映画人との写真などが、山のようにファイルされていました。

これぞ“世界のミフネ”たる所以!

こちらの興奮は収まるどころか、もう眩暈すらしてきそうな中、三船さんは楽しそうに話しかけてきます。

「ほら、この人はチャップリンだ。この人はヒッチコックで、この人はヘンリー・フォンダだな……ん? お前、この美人さん、誰だかわかるか?」

「グレース・ケリーですか?」

「OH!GRACE KELLY!」

そのとき、まるでアル・ジョルソンのように両腕を大きく広げて彼女の名前を英語発音で叫んだ“エンターティナー”三船敏郎を目の当たりにして、ついに私の意識は完全にぶっ飛んでしまいました。

正直、その後の記憶はあやふやです……。

しかし三船さんは、ずっとこちらに何かを楽しく語りかけてくれた。そのことだけは覚えています。

また三船さんは、時折こちらを覗きこむように、「な?」と笑顔を向けてくれるのですが、それは『無法松の一生』(58)の主人公のようにやんちゃで可愛く、しかも男が男に惚れるとでもいったエロティシズムまで感じさせるものがありました。

……気がつくと、3時間ほど時間が経過していました。

これはもう取材どころではなく、いわばフィルムのない生の《三船敏郎映画祭》をずっと見ていたかのような、少なくともこちらは『ゲンと不動明王』(61)のゲン少年のように不可思議な体験をしたかのような感慨に包まれていました。

三船プロを後にするときも、三船さんは門の外まで出て、腕組みしながら立ち尽くし、こちらが見えなくなるまでずっと笑顔で見送ってくださいました。

最初こそ三十郎のようにおっかなく思えた偉大なる映画スターは、いつしか『赤ひげ』(65)の新出去定先生のような慈愛深い存在としてこちらの脳裏に強く焼き付けられることになりました。

ちなみにそのときのコメント原稿ですが、取材に3時間も費やしながら、私はたった300字の原稿を埋めることができず、こちらで文章を創作するという(もちろん三船プロの許可はとった上で)、恐るべき結果となったのでした……。

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–{三船敏郎を 愛してやまない人々}–

三船敏郎を愛してやまない人々

後日、この話を、当時私が「キネマ旬報」で連載を担当させていただいていた映画音楽作曲家の巨匠・佐藤勝さんにしたところ、「そりゃお前さん、からかわれたんだよ。三船ちゃんは若い奴をからかうのが昔から大好きなんだ(笑)」と大爆笑されました。

佐藤さんは三船さん主演の黒澤映画や岡本喜八監督作品はもとより、三船プロ作品も含む数多くの音楽を担当し、個人的にも深い結びつきがありました。

青柳信雄監督『ならず者』(56)では佐藤さん作曲の主題歌「山の男の歌」を三船さんが歌い、レコード化もされています。

「ところが、それを知った黒澤さんが激怒してね。役者が歌うたいの真似なんかするんじゃねえ!って。だからそれ以降、三船さんは一度も公の場で歌ってない」

やがて話は、なぜ『赤ひげ』(65)の後、黒澤映画に三船さんが出演しなくなったのかといった話になりました。

「僕が『影武者』(80)の音楽の解釈をめぐって黒澤さんと決裂した、みたいな明確な理由はあのふたりには全然ないし、そもそも黒澤さんのことを昔も今も一番心配しているのは三船さんだよ。でも、映画界にはダニがいるんだ。才能のある人間に群がってぼろ儲けしようとするあまり、仲の良い連中まで疑心暗鬼にさせながら引き離そうとする、そんなダニのような連中がね」

そのときは佐藤さん特有の辛辣な“ダニ”という言い回しの意味が今ひとつ理解しきれないところもありましたが、年を経た今となると実によくわかるような気もしています。
(しかもそれは必ずしも人とは限らず、時間の流れであったり、ちょっとした運命のいたずらであったり……)

時が経ち、1997年12月24日、三船さんは多臓器不全のため、77歳でこの世を去りました。

そのときマスコミは一斉に、晩年の彼が認知症に侵されていたことなどを面白おかしく書き立てました。

私にはそれが許せませんでした。

だからこそ「キネマ旬報」での三船敏郎追悼特集では、あくまでも偉大なる映画人として敬意を表する姿勢を貫き、それ以外のスキャンダラスなことを書いた原稿をオミットし、その2か月後、私はキネマ旬報社を退職しました。

しばらくして、日頃親しくさせていただいている沢島忠監督に招かれて赤坂の品の良い料亭の暖簾をくぐったところ、そこには沢島監督と、何と当時の東映会長・岡田茂さんが同席されていました。

またまた緊張マックス状態に陥りつつ、それでも酒が入って次第に口が滑り始めていった私は、いつのまにかお二方に追悼特集の件を話していました。

すると沢島監督が「三船の名誉を守ってくれてありがとう!」と、こちらの手を握りしめながら号泣されたのです。

60年代半ば、時代劇路線がやくざ映画路線になったことから東映京都を辞めて東京へ赴いたものの、その後なかなか時代劇映画を手掛ける機会に恵まれなかった沢島監督に『新選組』(69)の演出を任せた三船さんへの恩を、沢島監督は一時たりと忘れたことはありません。

またそのとき、沢島監督の横で無言でうなづかれた岡田さんが、どこかしら『連合艦隊司令長官・山本五十六』(68)の三船さんのように見えたのが不思議でした。
(なぜか『日本の首領・野望篇』77や『制覇』82といった東映やくざ大作映画のイメージではありませんでした)

みんな三船敏郎のことを愛しているのだ。

そう思えてなりませんでした。

自分がやったことにミスこそあったにせよ、決して間違ってはいなかったと、そのとき確信しました。

さらに時が経ち、とある場所で三船史郎さんをお見かけしました。

思い切ってお声がけして、かつて三船プロにうかがった当時のお礼(お詫び?)などを告げると、すぐに私のことを思い出していただけて、こう告げられました。

「あのとき、親父すごく喜んでましたよ。『久しぶりに若い奴をからかってやった!』って(笑)」

やはり私はからかわれていたのです!

ようやくその確証を得ることができて、長年のわだかまりが解けたかのように、思わず心浮き上がってしまいました。

今も時折、「な?」とこちらを覗きこむ三船さんの無邪気な笑顔が、脳裏をよぎることがあります。

あの素敵な笑顔を、いつまでも忘れることはないでしょう。

三船敏郎がなぜ偉大なる映画スターなのか、その本質を身をもって知ることのできた私は、真の果報者だと思っています。

※「東京スポーツ」「中京スポーツ」「大阪スポーツ」は毎週月曜、「九州スポーツ」は毎週火曜発行紙面で、「生誕100年 写真家・早田雄二が撮った銀幕の名女優」を好評連載中。

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(文:増當竜也

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