『向日葵の丘 1983年・夏』で描かれた 30年前の映画と自主映画製作
太田隆文監督作品『向日葵の丘 1983年・夏』は、その名の通り1983年の夏に自主映画製作を始めた3人の女子高生が、30年後に再会を果たす物語ですが、この1983年、実は当時の映画ファンにとってなかなか忘れがたいユニークな年でもありました。
というわけで、
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街vol.11》
1983年の夏を思い返してみたいと思います。
1983年・夏の映画たち
とある地方都市を舞台にした『向日葵の丘』の1983年夏のパートには、古びた映画館・島田かもめ座が登場します。建物の内外には上映中や次回上映のポスターが貼られています。
映画の冒頭を見ますと、あの夏、かもめ座では『南極物語』と『スーパーマンⅢ電子の要塞』の2本立も上映されていたようですが(文字のみのポスターに『Ⅲ』ではなく『3』と誤って書かれてあるのが、逆にリアル)、どちらも83年夏休み映画としてロードショー公開されている最中の超大作であり、正直あの時期にこういった豪華2本立なんて、夢のようだなあと、当時映画青年まっさかりだった私などは微笑ましく思ってしまいました。
83年夏休みの映画界は、『スター・ウォーズ ジェダイの復讐(のちに『ジェダイの帰還』と改題)、『スーパーマンⅢ』『007オクトパシー』と3大人気シリーズ大作が並び、さらにはMTVブームと連動した青春ダンス映画『フラッシュダンス』が大ヒット。邦画に目を向けると『南極物語』でテレビ局の本格的映画界参入が始まった年でもありました。角川映画『時をかける少女』『探偵物語』の2本立て興行も大ヒットし、薬師丸ひろ子とこれが原田知世の人気もうなぎ上りでした。
その少し前の初夏には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』が公開され、カンヌ国際映画祭では今村昌平監督の『楢山節考』がパルムドールを受賞。また小林正樹監督の4時間半にわたる長編ドキュメンタリー映画『東京裁判』も話題を集めていました。
8ミリフィルムを用いた当時の自主映画製作
もっとも、本作のヒロイン高校生3人は、そういった新作よりも、かもめ座が週末だけ名画座として上映するクラシック映画のほうに興味があったようで、多香子(芳根京子)はジーン・ケリー、みどり(藤井武美)はオードリー・ヘプバーン、エリカ(百川晴香)はヒッチコック監督作品のファン。まだビデオが普及してまもない時期(ビデオデッキが20万円前後はする時代でしたね)、TVの映画劇場も、特に地方の映画ファンにとっては貴重な存在でした。
やがて彼女たちは秋の文化祭に向けて、町の人たちまで巻き込んでの自主映画製作を始めますが、それぞれの好みが災いしてか、撮りたいジャンルもバラバラ。結局は『俺たちに明日はない』もどきのギャング映画にミュージカルや西部劇、時代劇などさまざまなジャンルがごった煮となった闇鍋映画(?)の撮影が始まります。
この時期、自主映画といえば8ミリ・フィルム。1本のフィルムで3分くらいしか撮影できず、その値段は現像代も合わせて2000円は優に超えましたか……(すみません。かなり前のことなので失念)。いずれにせよ、デジタル時代の今とは比べ物にならないほどの費用がかかったものです。
8ミリのフィルムも、当時はスーパーとシングルの大きく2種類ありました。多香子たちはかもめ座主人からスーパーのキャメラを借りたので、当然そちらを使います。
またスーパーは赤みが、シングルは青みが強く出る特徴がありましたが、クラシック映画好きな多香子たちが用いるのは、なんとモノクロ・フィルム。
正直、この映画を見るまで久しく8ミリ・フィルムにモノクロがあることも忘れていましたが、今にして思えば自分も一度くらいモノクロで自主映画を撮ってみたかったと後悔しています。
実は私自身も83年、ちょうど大学の映画サークルに入って自主映画活動をしていました。授業そっちのけで製作費稼ぎのバイトと撮影ばかりの日々でしたが、この映画の83年パートを見ていますと、何やらそういった自分自身の過去が蘇ってきます。
映画そのものはやや時代性を誇張している感もありますが、そのくらいでないとこちらも当時を思い出せないほどに、30年前は既に遠い過去になってしまったようです。
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