音楽

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2016年12月31日

乃木坂46はいかにしてアイドルになったか?

乃木坂46はいかにしてアイドルになったか?

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(C)2015「DOCUMENTARY of 乃木坂46」製作委員会



今となっては謝りたいことなのだが、結成当初の乃木坂46はアイドルではないと思っていた。

アイドルには「物語」がいる。いや、誤解を恐れず言う。アイドルには「冷ややかな目」で見られた経験がいる。自意識の強さを冷笑され、大人の思惑を見透かされ、不毛な努力に背を向けられるような経験がいる。そこから物語が始まる。大逆転が始まる。それがアイドルの醍醐味だ、と個人的には思っていたからだ。

AKB48にしろ、ももいろクローバー(Z)にしろ、モーニング娘。(‘16)にしろ、テイストは違えども、それぞれに物語を背負って始まっているし、今でも物語とともにある。そんな中にあって乃木坂46はスタートからすべてが用意されていた。いきなりのデビュー、ノウハウを持ったスタッフたち、十分なプロモーション、そして何より本人たちにもその用意されているものが見えていたはずだ。

彼女たちのデビュー時のコンセプトは「AKB48の公式ライバル」であった。まだデビューもしていない彼女たちが天下のAKB48の公式ライバルとしてその品質を担保された。つまり、アイドル界でこれ以上ない「下駄」を履いてデビューしたのだ。

集められたメンバーもすでに洗練されていて都会的で(それは良くも悪くもアイドルらしい伸びしろのなさを感じさせ)、女の子の「それでもアイドルになりたい」という気持ちが放つ特有の魅力的な悲哀はなく、きっとアイドルでなくてもモデルでも女優でも女子アナでも、陽の当たる場所であればいいのではないかと失礼にも勘繰ってしまうほどに「女性タレント」としてのクオリティは最初から高かった。だから、私はアイドルではないと思っていたのだ。

しかし、その後、そんな彼女たちであるからこその意外な「物語」が始まった。

恵まれたスタートを切った乃木坂46ではあったが、それでも「アイドル」というビジネスの中にいる以上、競争相手はアイドルであり、ターゲットはアイドルを応援する人たちである。いくらメンバーのタレント性が高くても、いきなりアイドル的表現で勝負しては絶対に勝てない。事実、歴戦のアイドルたちが多く出演するイベントなどに出ると地肩の強さという意味では当然見劣りをした。

ただ、乃木坂46(スタッフを含む)はそんなことは分かっていたのだと思う。ターニングポイントとなった4枚目のシングル「制服のマネキン」で新しいアイドルの価値観を見せつけてきたからだ。

そこまでの彼女たちはたしかに「アイドルのマネキン」であった。当然本人たちは一生懸命だっただろうけれども、微笑んだり、照れたり、つまり「こういうものか」という感じで歌い踊っていたように見えた。まさにマネキンのそれだった。

だが、そこにこそ「物語」の芽があったのだ。前述の「制服のマネキン」はそこを逆手にとって彼女たちの素、つまり「マネキンの素」を表現した。圧巻だった。微笑まない、照れないどころか、強さも悲しさも表現しない。つまり口だけがパクパクと動き、体だけがマリオネットのように動く。もう歌っている、踊っているということですらない。表現というもの自体が暑苦しいものだと言わんばかりの、ある意味ではとても清潔なものに感じられた。

しかしそうなると、もともと彼女たちに備わっていた洗練された都会的なルックスが一気に光り輝いたのである。むしろ彼女たちでなければ「何もしないマネキンでいる」ということなど怖くてできない。乃木坂46はそれを成立させた。ここに乃木坂46のオリジナリティが完成した。

その後の乃木坂46はその路線をひた走った。中でも「君の名は希望」「世界で一番 孤独なLover」「何度目の青空か?」「命は美しい」などは今までのアイドルが表現しきれなかったものを表現していたと思う。

それは「圧倒的にチヤホヤされる女の子たちだけが持つ孤独」だ。

昨今のアイドルは「ある基本的な素質」を蚊帳の外にして語られることが多く、それが当たり前になっていた。その基本的な素質とは「圧倒的に可愛い」ということだ。最近のアイドルはその素質が邪魔であるかのように全力で汗をかき、顔をクシャクシャにして、時には涙を流している。そうすることの方がアイドルとして正しいことであるかのように振る舞っている。

しかし、本来は「圧倒的に可愛い」というその基本的な、マネキン的な素質にも「アイドルの物語」があるのだ。彼女たちには、きっと周りには理解してもらえなかったはずだけれども、チヤホヤされるという「冷ややかな目」で見られた経験があるはずなのだ。その経験は誤解を招きやすいが故に押し殺されてきたけれど、その分、とても耽美的でもある。乃木坂46はその「耽美的な孤独」を表現できる稀有なグループになったと言えるのではないだろうか。

つまり、先ほど乃木坂46は「これ以上ない下駄」を履いてデビューしたと書いたが、そのことも実は「恵まれたスタート」に対する苦労と努力という意味で、彼女たちに背負わされた「物語」としてリンクしてくるのである。

昨年公開された彼女たちのドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方 DOCUMENTARY of 乃木坂46」ではそんな彼女たちにさらに踏み込んでいる。

悲しみの忘れ方 DOCUMENTARY of 乃木坂46 ポスター


(C)2015「DOCUMENTARY of 乃木坂46」製作委員会




人から羨ましいなと言われる中で、羨ましいなと言われる舞台で、自分の本当の実力と向き合って孤独に努力を続けることの難しさ。乃木坂46はそんな嫉妬と羨望という名の困難を乗り越えてきてアイドルになったグループなのだ。

そして今そんな魅力をまとった彼女たちは、気がつけば結成時に掲げられた高すぎる目標「AKB48の公式ライバル」としてふさわしい、AKB48とは違うオリジナリティを手に入れた。

最新シングル「サヨナラの意味」でも彼女たちは相変わらず強さも悲しさもわざわざ大袈裟に表現することはしない。そのような従来のアイドル的表現ではなく、一瞬の動作に、一瞬の視線に、強さと悲しさがすでに表現されている。それはもはや彼女たちの専売特許だ。

私はアイドルには「物語」がいると再三書いてきたけれども、それは必ずしも長々とした物語ではなくてもいいのかもしれない。まるで詩的表現のように一瞬に輝く今の彼女たちを見ているとそう思う。短い詩の美しさに、儚さに、心を掴まれることだってあるのだから。

(文:オオツカヒサオ)

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