俳優・映画人コラム
オードリー・ヘップバーンは、なぜ不朽のヒロインなのか?
オードリー・ヘップバーンは、なぜ不朽のヒロインなのか?
映画を映画にするものは何か。日本映画の父、牧野省三の言葉を拝借すれば「スジ、ヌケ、ドウサ」。ストーリーテリングの巧さ、画面の構図、そして演者の動き。大方この三つでまとめられるわけだ。
しかし、それよりももっと表層的かつ簡潔に映画を観たとき、そこに映し出される演者の、というよりも美しい女優の、より魅力的な姿には多くの人が心を奪われるに違いない。これまで120年以上の映画史において、数え切れないほど魅力的なヒロインが作り出されてきた。それこそが、映画を完成させるひとつの要因なのではないだろうか。
<〜映画は女優で作られる〜vol.1:永遠に輝く不朽のヒロイン、オードリー・ヘップバーンin『ローマの休日』>
基本的に役者や作家はラストネームで呼んでしまうものだけれど、「ヘップバーン」と彼女を呼称することはほとんどない。最近は「ヘプバーン」と表記が統一され始めているが、そうなればなるほど尚更に、キャサリン・ヘプバーンとごっちゃになってしまう。だから、「ヘプバーン」といえば、キャサリンのことであり、オードリー・ヘップバーンは「オードリー」と呼ぶのが自然だ。
そんな余談はさておき、彼女の大出世作とも言えるのがこのウィリアム・ワイラー監督の1953年作品『ローマの休日』。最近、脚本家ドルトン・トランボの伝記映画で少しだけフィーチャーされたが、本作は最も女優オードリー・ヘップバーンの魅力を全開にさせた究極のヒロイン映画といっても過言ではない。
もともと他の監督・女優コンビで進められていたプロジェクトを、ワイラーが引き継いだことで、女優の見直しが行われ、そのオーディションにオードリーが訪れたのがすべての始まりだと言われている。
カメラテストの緊張した佇まいから解放された瞬間に放った、屈託のない自然な笑顔によって、彼女はこの〝アン王女〟という大役を射止めたのである。
当時まだ20代前半だった新人女優オードリーの持ち前の愛嬌を余すことなく引き出そうとする作り手の演出が、随所に見受けられる。
最初に相手役のグレゴリー・ペックの部屋にやってくる酔っ払った場面で、彼の背中にもたれるところから始まり、手を繋いだまま階段の下を進んで行ってしまうという、なんともハリウッド黄金期のロマンティック映画にありがちなユーモラスな一幕。これは新人女優が演じるからこそ好意的に見えるのだろう。
そして、ローマの街に飛び出した彼女が真っ先に髪を切る場面で、彼女の虜にならずにはいられないだろう。ひとつの映画の中でイメージチェンジを遂げるヒロイン。それまでの野暮ったい雰囲気から一転して、明るく活発なイメージを勝ち取るというのは、この後数多く作られるシンデレラストーリーでは定番となるわけだ。
さらに極め付けは、〝真実の口〟の場面。ワイラーとペックの策略によって、まるでドッキリのように彼女の驚く表情を捕らえたというのは有名な話だ。
もっとも、オードリーの表情の多様さは、そんな荒技を使わずとも、この〝アン王女〟というキャラクター設定だけで映画全体を独占している。
序盤の舞踏会の場面での退屈そうな表情に始まり(ここでの靴を脱ぐ足元のショットというのが彼女のキャラクター性を表す見事な部分だ)、翌日のスケジュールを確認されながら「Thank you」と「No Thank you」を繰り返す機械的な応対からの感情の爆発。そこから一転して、ペック演じる記者との出会いによってローマの街を満喫する姿の陽気さ。極め付けは大使館に戻ってからの堂々とした立ち振る舞いだ。
演出から脚本の段階も含め、あらゆる面で〝アン王女〟というキャラクターとオードリー、両方の魅力を見せつける。果たしてこの映画は、オードリーでなくても成立していたかどうか、今となってはこれほど無意味なタラレバはないだろう。この愛すべきキャラクターに、愛すべき女優オードリー・ヘップバーンが当てられたのは、運命という言葉以外では形容できない完璧な組み合わせなのだ。
おそらく、今の時代に民放のゴールデンタイムで放送されても、唯一違和感無く受け入れられる白黒映画は本作だけだろう(現に、地上波デジタル放送が導入されて以降放送されたのは本作ぐらいしかないのではないだろうか)
それだけ日本でも愛されているのは作品の魅力もさることながら、オードリーという存在によるものが大きい。日本人好みする控えめなルックスと、嫌味のない愛嬌たっぷりの表情の数々。彼女のような女優は、なかなか現れるものではない。
(文:久保田和馬)
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