自己中心の戦国時代、関ヶ原で義に殉じた石田三成のちょっといい逸話
(C)2017「関ヶ原」製作委員会
2017年8月26日にいよいよ公開された『関ヶ原』。司馬遼太郎さん原作の同名小説を、『駆込み女と駆出し男』(2015年)や『日本のいちばん長い日』(同)など、ち密に繊細に歴史を映画に落とし込む原田眞人監督のメガホンで映画化されました。
『関ヶ原』とは1600年に勃発した、石田三成(岡田准一)と徳川家康(役所広司)が争った戦争のことです。歴史上、この戦いの勝者は徳川家康であり、その後の江戸時代に続いていくのですが、なぜ本作で敗者の石田三成が岡田准一の配役で主役なのでしょうか。それは三成が義に厚く、戦いの前から強大な権力者であった徳川家康に屈しなかった強い心の持ち主であり、徳川家康に任せては豊臣の時代が終わってしまうという時勢を見る目と豊臣家を愛する気持ちを持っていたからに他なりません。
■予告編
本稿ではそんな石田三成を愛さずにはいられなくなるエピソードを何点かご紹介します。史実・俗説にかかわらず、また映画の中で登場する・しないに関わらずご紹介するので、もし映画にこのシーンが出てきたら「ああこのことか」と、出てこなければ「こういう背景があったのか」と楽しんでみてください!
家康は豊臣の世を終わらせる存在だと気づいていた
石田三成は豊臣秀吉(滝藤賢一)の時代、例えてみれば秀吉が織田信長から継いだ「天下株式会社」の社長室長のような存在でした。そして徳川家康は「天下株式会社」でもっとも大きい子会社の社長のようなものです。
歴史を知っている私たちは徳川家康が自分の時代を作るために関ヶ原の戦いを起こしたことを知っていますが、1600年のそのとき、関ヶ原の戦いの位置づけは
・親会社を乗っ取ろうとする悪い子会社社長をやっつける(三成)
・先代社長(豊臣秀吉)亡きあとの親会社を我が物にしている社長室長を辞めさせる(家康)
という、豊臣家の内紛だったのです。秀吉の遺児・秀頼をもり立てるという名目は双方持っていましたが、三成の方は本心から、家康の方は建前で語っていたような気がしてなりません。
もし家康が豊臣家を滅亡させようと1600年時点で思っていたのであれば、家康率いる東軍に豊臣家の忠実な家臣であった福島正則(音尾琢真)や加藤清正(松角洋平)が、いくら三成嫌いだったとはいえ単純に家康に味方しているはずがありません。
この点、三成は家康の狙いを正確に見抜き、そしてその狙いを阻止しようと自ら立ち上がりました。親会社を奪おうと画策した家康に対して立ち上がったのは、歴史上彼一人だけだったのです。
(C)2017「関ヶ原」製作委員会
時代にそぐわないほどの清廉さ
言ってみれば戦国時代は「俺が俺が」の時代です。前の章で家康を、親会社を奪おうとしたと悪し様(あしざま)に書きましたが、家康の幼少期は出身地の三河ひとつとっても領主が定まらないような時代でした。そんな家康が「次は俺の番だ」と考えたとしても何もおかしくありません。
そのような時代に石田三成は義理を大切にし、清廉でした。関ヶ原の戦いの後に徳川家が検分した三成の居城・佐和山城には贅を尽くしたものがほとんど無かったそうです。
領内の統治についても、当時としては考えられないほど農民に厚く接しています。迷惑だと感じることがあったら領主に訴えられるような権利を与えたり、米が予定より多く収穫できた時には、その分は年貢として納めず農民のものにしてよい、といった文書を発行したりしています。
武士が農民をいいように扱ってきていた戦国時代にこの発想を持っていたのは驚きです
関ヶ原の戦いのあと、敗れた三成はおよそ一週間、ほぼ自分の領内で潜伏していたと言います。家康は血眼になって三成を探していたことでしょう。およそ一週間隠れ通すことが出来たのは、愛されていた領民がかくまってくれていたからだ、と考えるのは想像が飛躍しているでしょうか?
(C)2017「関ヶ原」製作委員会
知性と義の熱さを感じる逸話あれこれ
ここまでの話では、三成はただ優秀な官僚・公務員であったとしか思えないかもしれません。しかしそれだけではないのが三成の大きな魅力です。
いくつがかご紹介しましょう
三献茶
三成で有名な逸話といえば秀吉との出会いの場の逸話「三献茶」です。
琵琶湖の東側・長浜の城主となった秀吉は、領内の視察などを兼ねて鷹狩りをした帰り、喉が渇いてお寺に立ち寄りました。
その寺の小姓は、まず秀吉に大ぶりの器にぬるめのお茶を淹れました。
飲み干した秀吉がお代わりを求めたところ、その小姓は一杯目より少し熱く、少し量を少なく淹れて持ってきたと言います。
秀吉がもう一杯頼んだところ、その小姓は小ぶりな器に熱いお茶を点てて持ってきました。
喉の渇いた人に対し、まずはぬるいお茶で渇きを癒やしてもらい、その後にお茶を楽しんでもらうという気づかいが出来た人だったのです。その小姓の名前は佐吉、後の石田三成でした。このときに秀吉は召し抱えることを即決したといいます。
大谷吉継との友情
関ヶ原の戦いで三成とともに闘い壮絶に討ち死にした大谷吉継(大場泰正)は、戦いの前には三成に戦の不利を伝えます。しかし三成の気持ちに打たれ、ともに闘うことを決めました。
そんな吉継と三成の逸話。それはお茶を飲む話です。
吉継はハンセン病を患っていたと言われていました。現在では治療法も確立している病気ですが、当時は感染する病気だと恐れられていました。
戦国時代は千利休が台頭した茶の湯の時代でもあり、武将はよく茶会に出ていました。ひとつの器で回しのみをすることがあったのですが、伝染病の患者と思われていた吉継が口をつけた茶碗で飲む武将がいないなか、三成だけは平然と飲んだと言われています。
豊臣家の優秀な事務官同士であった二人は信頼も育まれていたのでしょう。
関ヶ原の戦い吉継は、戦国時代最大の寝返りと言われた小早川秀秋らの軍勢を小勢で真正面から受け止め、壮絶に討ち死にします。
おそらく闘いに同意したときから三成のために死ぬことを覚悟していたのではないでしょうか。
自分の知行の半分で島左近を家臣に
三成が秀吉から4万石という禄高をもらうようになったとき、三成はその半分の禄高をもって一人の家臣を獲得しました。それが島左近(平岳大)です。軍事に関する才能が欲しかった三成は、かつて筒井家の家老でフリーランスになっていた名将・島左近に要請します。
左近は何度か断ったらしいのですが「兄として接したい」などという熱烈な口説き文句に、ついに首を縦に振ったそうです。
戦の経験の少ない三成は、優秀な軍事担当者を口説き落とすことで石田家としての軍事力を上げたのです。そして関ヶ原の戦いの序盤、島左近が重傷を負うものの、石田軍は勇敢に戦いました。
敗者の評価は下げられる
大谷吉継にもバッサリ「人徳がない」と指摘されていた三成は、徳川の時代には不当に低い評価を受けていました。
(C)2017「関ヶ原」製作委員会
豊臣家を好きなようにしようと試みた悪人と言われていたその低い評価が昭和の時代までずっと続いていたのですが、そこに光を当てたのが司馬遼太郎さんであり、それを現代の技術で映像化したのが原田監督です。
徳川家が三成を奉った地蔵を壊しても壊しても、佐和山の人々は三成を供養し続け現代に至ったそうです。本当に悪い人間だったのであれば領民がそこまで供養し続けるはずがありません。
怜悧な政治家ではなく、義に厚く、領民に優しく、筋を通そうと頑張った男・石田三成。そんな三成の姿を映画では大注目したいものです。
(文:奥野大児)
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