『希望のかなた』不滅の芸術性はヨーロッパ映画の新たな分岐点となる

■「〜幻影は映画に乗って旅をする〜」




(C)SPUTNIC OY, 2017


今年1月に開催された第67回ベルリン国際映画祭で最優秀監督賞にあたる銀熊賞を獲得した、アキ・カウリスマキ監督の最新作『希望のかなた』が、12月2日からついに日本公開される。

これまで、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した『過去のない男』をはじめ、数多の傑作を生み出し、世界中の映画ファンを心酔させてきたカウリスマキ。意外なことに世界三大映画祭の主要部門の受賞は、その『過去のない男』以来2度目なのである。

目立った賞を受賞することなく、また大ヒット作を生み出すこともなく、静かに北欧の映画界の重要なポジションに君臨しつづけているカウリスマキ。そんな彼に、近年は新進作家に贈られることが多いベルリン国際映画祭監督賞が与えられたとなれば、その受賞には何か深い意味が存在しているに違いないと考えずにはいられない。

本稿では、何故カウリスマキはベルリンの監督賞を受賞することができたのか、そして、本作に込められた現代ヨーロッパが抱える複雑な事情を紐解きながら、それでも揺るがないカウリスマキ映画の魅力について、徹底的に語っていきたい。

<〜幻影は映画に乗って旅をする〜特別篇:『希望のかなた』は不滅の芸術性はヨーロッパ映画の新たな分岐点となる>


(C)SPUTNIC OY, 2017


ヘルシンキに到着した船に積まれた石炭の中から顔を出す主人公カーリドの姿からこの物語ははじまる。まるでフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』のあの名場面を再現したかのような、不安感が漂うワンシーン目だ。

このカーリド、内戦がつづく故郷アレッポで、自宅を爆撃され、妹と2人で歩いて国境を渡り、ヨーロッパにたどり着いたシリア人難民なのである。ハンガリーで混乱に巻き込まれ、妹とはぐれてしまった彼は、フィンランドで難民申請をし、妹の捜索依頼を出しながら、申請が受け入れられることを待ち続けるのだ。

それと同時並行で、フィンランド人の中年男性の物語が流れる。衣類のセールスマンをしているヴィクストロムは、酒浸りの妻を置いて家を出て、レストランオーナーとしての新しい人生を歩もうとする。ポーカーで大当たりした彼は、その大金で念願のレストランを手に入れるが、そこの従業員たちはなんだか無気力な、個性的な面々だったのである。

この2人の物語が交錯して、ようやくその形が完成する『希望のかなた』という作品。ここ数年、ヨーロッパ社会が抱えるひとつの大きな課題である難民問題に切り込み、それでいながら今までのカウリスマキ作品が持ち合わせていた〝らしさ〟を一切緩めることはしない。

一貫した作家性の強さを、現代社会に当てはめていくそのアイデアと演出力の巧さこそが、この映画にベルリン国際映画祭監督賞という名誉を与えた理由のひとつだと、ここで断言することができるだろう。それはあくまでも、〝芸術的〟な側面に他ならない。



(C)SPUTNIC OY, 2017


そこにもうひとつ〝社会的〟な側面が大きく影響していると考えることができる。映画祭や映画賞というのは、純粋に作品だけを評価するのではなく、その時代その時代を映すという社会的意味合いを重視するものであるからだ。つまり、本作が〝難民問題〟を真っ向から扱ったというのが、何よりも大きい。

難民問題というのは、現代ヨーロッパの映画史を語る上で、すでに避けては通れないものとなっている。この10年で、社会情勢が緊張感を増しながら変わりゆくと同時に、それを扱う作品が急激に増えてきたのである。

たとえば2008年に制作されたフィリップ・リオレの『君を想って海をゆく』でっは、クルド人の少年が、フランスで難民申請を行うも却下され、恋人のいるイギリスに渡るため、ドーバー海峡を泳いで渡ろうと、競泳のプロの指導を受ける。

また2011年に制作されたイタリア映画『海と大陸』では、地中海を渡ってアフリカからヨーロッパに押し寄せる難民たちと、彼らが流れ着くシチリアの漁師の青年の物語がまざまざと描き出され、その衝撃的な実情について、世界中が目の当たりにすることになった。

そして極め付けは、2016年の第66回ベルリン国際映画祭でドキュメンタリー映画ながら最高賞に輝いたジャンフランコ・ロッシの『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』である。チュニジアにほど近い、ランペデューサ島を舞台に、そこに暮らす少年の日常と、その島に命がけで流れ着いてきた難民たちの姿をとらえた作品だ。

海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~(字幕版)



同作の背景にあるのは、まぎれもなく「欧州難民危機」である。2011年からはじまった「アラブの春」で北アフリカや中東各国で難民が急増し、ヨーロッパへ流入。2015年ごろには、その数が100万人を超えるようになった。大勢の難民が最初に押し寄せるのは、イタリアやギリシャといった、玄関口になる国々である。この国々が彼らへ正式な手続きをせずに黙認したため、EUの基本理念に大きなひずみが生じたのである。

(今回の『希望のかなた』の劇中で、カーリドが妹とはぐれてしまうのは、ハンガリーの国境だと語られる。ハンガリーもまた、大勢の難民が押し寄せる玄関口となり、国境を封鎖するという選択をとったのだ。)

この『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』の存在は、ヨーロッパ映画界に難民問題と真正面から向き合わなければならないという意識を植えつけたことは言うまでもない。社会性を備えながらも、ハッピーエンドで丸く収めてしまいかねない劇映画とは対照的に、最初から最後まで偽りない姿を見せつけたのである。

それに加えて、ベルリン国際映画祭の行われるドイツは、メルケル首相の政策によって、ヨーロッパの国々の中でも難民の受け入れを積極的に行ってきた国だ。これまでに100万人以上を受け入れている。しかし、それによって国内では様々な不安が飛び交っているのも見過ごせない事実ではある。

それでも、難民を受け入れるという姿勢は、映画という国境なき芸術に込められた根源的なマインドと結びつく。だからこそ、シリア人難民をあたたかく迎え入れるフィンランド人の姿を描き、また厳粛かつハードルの高い手続きの実情と、反発する人々の姿で、まだまだ越えなければならない壁があると示した『希望のかなた』が高く評価されたのである。

劇中には、その難民問題について数多くの興味深いシーンが登場する。たとえば序盤、駅でシャワーを浴びた主人公カーリドが(そもそも駅にシャワーがあるというのが日本人からすると意外なのだが)、駅で警察署の場所を訊ねると「正気か?」と言われる。このシーンには、カーリドが難民であると認識した駅員が、申請は通る可能性が低いことを、暗に告げているものと見える。

そして、警察署で難民申請をするカーリド。身長体重を測って、写真と指紋を取られる。その後の彼に待ち受けている入国管理局での面接のシーンもしかり、極めて緻密に現実が描かれ続けている。

また面談の場で「なぜフィンランドを選んだか?」と訊ねられたカーリドは、フィンランドがかつて内戦によって自国でも難民を生み出したことを挙げるなど、歴史の事実から目を背けない。そして現在国内で問題のひとつとなっている黒服の自警団の存在さえも描き出すのだ。

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カウリスマキは、前作『ル・アーブルの靴みがき』でも難民問題を描いている。「港町3部作」と銘打った1本目として作られた同作は、フランスの港町ル・アーブルで靴みがきをしているマルセルが、アフリカ・ガボンからの船に乗って密航してきた少年イドリッサを匿う。愛する妻が病に侵されながらも、街ぐるみでイドリッサをロンドンに送り届けようと奮闘するのである。

奇しくもその2作目となるはずだった本作が、時代の影響もあってか難民映画としての色合いが強くなり、この「港町3部作」が「難民3部作」となってしまったことを、カウリスマキはベルリン国際映画祭の会見の場で嘆いていた。

とはいえ、難民を受け入れていく人の温かさを描くという共通する部分はあれど、『ル・アーブルの靴みがき』ではクライマックスにすべてを畳み掛けるようなハッピーエンドが待ち受けている。その点では、対照的な作品ともいえるだろう。



(C)SPUTNIC OY, 2017


ここまで、本作で描かれる社会的な側面について語ってきたが、ここからは、そんな社会の情勢に影響されることなく、一貫して描かれ続けるカウリスマキ作品の美学について見ていきたい。

前述したように『ル・アーブルの靴みがき』の流れに乗った作品ではあるが、ヘルシンキに訪れた主人公が自身の過去と向き合いながら、手を差し伸べてくれる人々に心が動かされていくという様は、まるで『過去のない男』の主人公と重なる部分がある。彼に手を差し伸べたコンテナ暮らしの一家が、本作ではレストランの人々であり難民収容施設の人々にあたるのではないだろうか。

そのような過去作との単発的な共通性とはだけでなく、不動のカウリスマキ〝らしさ〟が劇中の随所に表れている。まず真っ先に、それを感じることができるのはヴィクストロムの登場する最初のシークエンスだ。たちまちに、観客は彼の家の美術に目を奪われることだろう。フィルムの色調を生かした、少し薄暗くとも鮮やかな壁面。無言で指輪を妻の前に置き、妻はそれを無言のまま灰皿に放り込む。

作家性の強い監督の作品というのは、クレジットを見なくても、どの監督の作品かわかるものだ。その中でもとりわけカウリスマキ作品というのは、他の誰でも再現することのできない画面の色味と演者の動作によって、不可思議なようで魅力的な時間が流れ続けるのである。もっぱら、そのスチール写真一枚見るだけで、カウリスマキの映画だとわかるほどだ。

さらに、オフビートなユーモアが、やんわりと登場していく。カーリドとイラク人難民のマズダックがバーを訪れ、「ビールをふたつ。大至急に」と頼むと、バーテンは「すぐにか?」と聞き返し、すっと泡の消えたビールのジョッキをふたつカウンターに置く。本作の劇中で一番笑いが込み上げてくるシーンではないだろうか。

また、レストランでのやりとりは、常にゆるい空気感が流れ、くすりとさせる品のいい笑いが展開し続ける。決して異なる民族を批判するようなこともせずに、リアルに人間同士の素朴なやり取りを描き出し、笑いを誘う。



(C)SPUTNIC OY, 2017


とりわけ日本人の観客からすれば、レストランを改装して日本風にした一連の場面は見逃せないだろう。よくある欧米の勘違い的な日本観を、勘違いしていると理解した上で作り出すという小粋さ。寿司のような食べ物を提供し、入り口では招き猫がカタカタと動く。従業員たちが一列に並んだ構図といい、実にシュールな場面で、作品を柔らかくしているのだ。

そして、もうひとつカウリスマキ作品の醍醐味を挙げるとするならば、それは画面全体に表れつづける高級感に他ならない。ヴィクストロムが乗るクラシックカーが、夜の街に映える画面であったり、彼が衣服を売りに訪れた店でコーヒーを勧められたと思いきや、次のカットでは酒を飲み交わし、ハイソサエティな会話を繰り広げる。そして老紳士たちが静かにポーカーを行う場面。

基本的に、無駄な感情表現が一切ない。感情を過剰に表出することほど、映画は派手になるが、反比例して安っぽい演出が目についてしまう。彼の映画の中では、登場人物たちの心の中にあるものが、些細な動きと会話だけで、しっかりと表現されているのである。

そういった、ありとあらゆるカウリスマキ的要素が、どんなバックグラウンドにあっても消滅しないと証明された本作は、現在60歳を迎える彼のひとつの到達点でもあり、今後の彼のフィルモグラフィに大きな影響をもたらす分岐点となることは間違いないだろう。「港町3部作」あらため「難民3部作」の最後の作品が、誰が観てもハッピーエンドを迎えることを期待するとともに、この映画を通してヨーロッパのみならず世界中の難民問題が、良き方向に転じてくれることを祈るばかりだ。



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そういえば、本作の一番最後、エンドクレジットの冒頭には、2014年に亡くなったペーター・フォン・バーグ教授への追悼文が掲載されている。フォン・バーグ教授といえば、映画史家やプロデューサーとして多彩な才能を発揮し、カウリスマキ作品の研究家として知られている。

世界中で誰よりもカウリスマキ作品を熟知していた彼が、このカウリスマキの分岐点となる作品、あるいはヨーロッパ映画史の分岐点に立ち会えなかったことは、ただただ悔やまれる。

さらに蛇足ではあるが、渋谷のユーロスペースでは公開初日から17日までの間、本作を35mmフィルムで上映されるとの情報を聞きつけた。作品の本来の姿を目撃することができる貴重な機会なだけに、足を運ぶことが可能な人は、是非ともこのタイミングに観にいってもらいたいものだ。

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(文:久保田和馬)

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