映画コラム

REGULAR

2017年12月14日

恋愛映画として『おじいちゃん、死んじゃったって。』を観てみた。

恋愛映画として『おじいちゃん、死んじゃったって。』を観てみた。

森ガキ侑大監督作品『おじいちゃん、死んじゃったって。』は決して派手な作品ではない。田舎のとある家族が「おじいちゃん」の死をきっかけにして集まり、ぶつかる。しかし、それによって何か家族の形が大きく変わったのかと言われれば、決してそうでもなく、また日常へと帰っていく物語である。ただ、そんな数日にこめられた感情の数は、一度観ただけでは整理しきれないほどに丁寧で、家族の物語として本当に素晴らしい映画であった。

おじいちゃん、死んじゃったって。 ティザーポスター


(C)2017「おじいちゃん、死んじゃったって。」製作委員会




だが、この作品はもしかして「恋愛映画」でもあるのではないか。そう考えると、この映画はまた違った味わいを持ってくるのである。

もちろん、この映画の主題はおじいちゃんの死を家族がどう受け止めるのかである。観ている人はきっと「おじいちゃん、死んじゃったって。」と言われたとき、どんな顔をしていただろうと思い出す。これからそう言われるかもしれない人は、どんな顔するだろうと想像させる仕組みになっている。本作でも、その受け止め方に一人ひとりの人生が炙り出される。そして炙り出された感情が物語を紡いでいく。大人の、子供の、地元に残った者の、都会に出ていった者の、それぞれの事情がある。どんな受け止め方が正しいかは分からない。

ただ、岸井ゆきのさん(素晴らしかった!)演じる主人公の吉子だけは、おじいちゃんが死んだときセックスをしていたせいで、自分が本来はすべきであった受け止め方ができなかった。それを罪悪感と呼んではいるが、正しくは、そのような時にあるべき自分の姿を「突然」見失ったということだ。そして見失った自分を探して、男に、お坊さんに、親戚のおばさんに、果てはインドに答えを求めていく。



しかし、途中から吉子の抱える問題の本質は、実は「死」への戸惑いではないのではないかと思えてくる。本質はセックスをしていた、ということなのである。他の家族のようにおじいちゃんの死に対しての、面倒を見ていなかったという後悔でも、故郷を捨てて都会に行ってしまったという居心地の悪さでもない。つまり、吉子の場合は、セックスに対しての考え方が変わらない限りは解決できない悩みなのである。

「お腹が空いている人の前でご飯を食べている」みたいな罪悪感だという台詞があるが、まさにセックスとは生きるということであり、死と生が同時刻に存在していることを強烈に意識したときに、吉子は自分の「生(セックス)」にどれほどの意味があるのかという疑問を持ったのだ。要するに、とてもとても単純な恋愛の悩みである「そこに愛があったのか」という問題を抱えたヒロインなのだと読み解けるのだ。

物語は進み、いろいろなことに向き合い(向き合わされ)、後半、吉子はもう一度セックスをする。そして相手の男に対して「ありがとう」と言う。愛されていることを、実感したからである。生きていることに意味を感じたからである。生を肯定できて、初めて死を受け入れることができた。そのシーン、特に吉子の表情には鳥肌が立った。



(C)2017「おじいちゃん、死んじゃったって。」製作委員会



そう考えて観てみると、映画『おじいちゃん、死んじゃったって。』は、ぼんやりと愛に向き合っていた(新婚カップルに悪態をついていた)ヒロインが、少なからず自分の中で納得のいく、「ありがとう」と言いたくなる愛を見つけることができた恋愛映画としても楽しむことができるのだ。そして恋愛映画として観たときにさらにこの映画が素晴らしいと感じたのは、男と女のやりとりにとてもリアリティがあることだ。最初から恋愛映画であればそこにあるだろう感情の説明などがなく、ものすごく普通で、でもものすごくリアルなのだ。映画館を出たあとで、一度そう解釈してしまうと、見せ場のひとつでもある「おばあちゃんの叫び」にもよりいっそうの純粋な愛を感じて、思い出すだけでグッとくるのである。

『おじいちゃん、死んじゃったって。』は、観る立場によって違う楽しみ方ができる。たとえばいつか自分の家族の形に変化があったときにはまた観たいと思える映画だった。

最後に。長編映画デビュー作への情熱を良い意味でコントロールしながら、こんなにも丁寧な作品を撮った森ガキ侑大監督、森ガキ組の次回作に期待したい。

(文:オオツカヒサオ)

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