『来る』は結局どんな映画? 賛否両論のレビューに鑑賞を迷っている方は必読!
©2018「来る」製作委員会
細かい内容まではよく分からないが、とにかく何だか凄そう! な感じと、トンでもない迫力が伝わってくる予告編でも話題の映画『来る』が、いよいよ12月7日から全国公開された。
一体全体、何が襲って来るのか? ホラー映画なのか、それともモンスター映画なのか?
全てが謎に包まれた状態で鑑賞に臨んだ本作だが、果たして気になるその内容とは?
ストーリー
オカルトライター野崎(岡田准一)のもとに、相談者・田原(妻夫木聡)が訪れた。最近身の回りで超常現象としか言いようのない怪異な出来事が相次いで起きているという。田原は、妻・香奈(黒木華)と幼い一人娘・知紗(志田愛珠)に危害が及ぶことを恐れていた。
野崎は、霊媒師の血を引くキャバ嬢・真琴(小松菜奈)とともに調査を始めるのだが、田原家に憑いている「何か」は、想像をはるかに超えて強力なモノだった。民俗学者・津田(青木崇高)によると、その「何か」とは、田原の故郷の民間伝承に由来する化け物「XXXX」ではないかと言う。
対抗策を探す野崎と真琴。だが、どんどんエスカレートする霊的攻撃に、死傷者が続出。真琴の姉で日本最強の霊媒師・琴子(松たか子)の呼びかけで、日本中の霊媒師が田原家に集結し、かつてない規模の「祓いの儀式」が始まろうとしていた。彼らは、“あれ”を止めることが出来るのか?
予告編
果たして、原作からの変更は成功だったのか?
第22回日本ホラー小説大賞を受賞した小説「ぼぎわんが、来る」を、豪華キャストで映像化した本作。
原作小説のタイトルに含まれている“あれ”の名前すら排除し、本当に必要最小限の情報だけで構成された映画版タイトルは、鑑賞前から観客の想像力をかき立てる効果を上げている。
映画のタイトルからは排除された“あれ”の名前に関しては、実は原作小説にはその由来がちゃんと書かれている。日本のホラー物としては意外過ぎるその由来だが、原作と違って“あれ”の姿を見せない映画版の展開を考えれば、観客に余計な先入観を与えない、実に賢明な選択だったと言えるだろう。
だが、全3章から構成される長編小説を134分の上映時間に収める上で、二人の脇役を併せて一人にしたり、主要キャラクターの設定を大幅に変えるなど、そのあまりに多い変更点や映画独自のアレンジが、原作未読で鑑賞に望んだ観客の混乱を招いているのも事実。
実際、主要キャラクターの一人であるオカルトライターの野崎などは、原作と映画では外見や性格が真逆となっており、その辺の変更が原作ファンからも不満の声として上がっているようだ。
とはいえ後述する様に、その様々な変更が今回は見事にプラスに働いている本作。これから鑑賞を予定されている方、そして鑑賞を迷っている方は、ネット上の評価や感想に惑わされること無く、まずは劇場に足を運んで頂ければと思う。
主要キャスト以上に、脇役陣の演技が素晴らしすぎる!
正体不明でいきなり襲って来る“あれ”のド迫力と暴れっぷりを、正面から受け止める出演キャスト陣の熱演・怪演でも話題となっている本作。
例えば、“あれ”の最初の犠牲者である、田原の同僚・高梨を演じた太賀の演技は、日常の笑いを誘う役柄と“あれ”に襲撃されてからの不気味さとのギャップで、観客の恐怖感を盛り上げてくれて実に見事!
しかし、本作の脇役で最も観客の記憶に残るのは、何と言っても霊能者・逢坂セツ子を演じた柴田理恵の異常なカッコ良さだろう。映画の終盤で見せる、原作小説には無かった田原との名シーンに加えて、何とラストの最終決戦にも参戦するというサプライズ!
更に見逃せないのは、物語の重要なカギとなる知紗を演じた子役、志田愛珠の可愛らしさ! 彼女の魅力があればこそ、観客の間で賛否両論を呼んだラストが、人々の記憶に強烈に残ることになるのだ。
万が一、鑑賞中にストーリーを見失った場合は、是非出演キャスト陣の見事な演技の数々を、楽しんで頂ければと思う。
原作未読で鑑賞に臨んでも、果たして大丈夫なのか?
今回、敢えて原作未読で鑑賞に臨んだ本作。個人的には映画単体として充分に楽しめたのだが、鑑賞後に原作小説を読んだおかげで、改めてこの映画版の素晴らしさを理解することが出来た。
実は映画版では、何故“あれ”に襲われるのか? の原因や、“あれ”の正体が明らかにされることは無い。その点、原作でははっきりとその原因が明かされているのだが、田原の少年時代の回想に登場する少女の描写など、残念ながら映画版では、その重要な部分がかなり曖昧に描かれてしまっている。そのため原作未読で鑑賞に臨んだ観客には、かなり全体像が把握し難い映画となってしまったのも事実。
加えて、原作小説以上に主人公たちの日常生活が多く描かれているため、そうした部分が長いと感じた方も多かった様だ。
だが映画版のこのアレンジは、実は原作小説が描こうとしたテーマを、より強調するための手法に他ならない。
何故なら、原作者自身が語っているように、本来“あれ”の恐ろしさよりも、襲われる側の人間が味わう恐怖の方を、原作小説は描こうとしているからだ。
映画版では彼らの日常生活がより詳しく描かれることで、いきなり恐怖と呪いに襲われた人間のリアクションがより強調され、小説と同様のテーマがより効果的に描かれることになるのだ。
更に、原作と最も異なる終盤のド派手な展開や、問題のラストシーンについても、実は様々な意見や感想が出ている本作。
ただ、原作をそのまま映像化した場合、普通にCGで合成した化け物対人間の除霊対決となってしまい、過去の同系統作品と同じような内容で終わってしまった可能性が高い。
それを考えれば、原作のエッセンスとテーマを残しながら、今回これだけの観客サービスに徹した映画版の素晴らしさや勇気が、分かって頂けるのではないだろうか。
今回のエンディングや内容に不満や疑問を持たれた方、そして細かい部分がよく理解できなかった方は、是非鑑賞後に原作小説を読まれることを強くオススメする。
映画と小説の双方の良さと、何故映画版がこの様な形で映像化されたのか? きっとその理由を分かって頂けるはずだ。
最後に
ここまで述べてきた様に、登場人物のキャラクターや細かい設定、更にはラストの超絶対決まで、原作からの大幅な変更を経て完成した、この映画版『来る』。
確かに、ほぼ全ての謎に説明が付けられていて、非常にスッキリ終わる原作とは違い、映画版では本来原作小説が描こうとした人間の二面性や、得体の知れない存在に襲われる側の恐怖に重点を置いて描かれている。
加えて、SNS依存や幼児虐待など、現代社会の問題点を原作以上に盛り込んで、登場人物の背景をより深く掘り下げたアレンジと、思い切った登場人物の設定変更が見事に成功した本作。
そんな中でも特に素晴らしかったのが、今回用意された映画オリジナルのエンディングだった。残念ながら、観客からは見事に賛否両論(否の方が多いようだが)となっているが、実はこれが大正解の見事なアレンジなのだ!
何故なら、原作には“あれ”が何故この家族を狙うのか、またどんな状態の人間が狙われやすいのか? その理由が明らかにされており、更には“あれ”の襲来を防ぐための行動なども描かれているからだ。その点を踏まえて今回の映画版ラストシーンを観ると、一見あまりに唐突過ぎるあの展開が、実は知紗が恐怖や不安から完全に解放されて、安全な状態にあることを表現した名シーンだと分かるはず!
人気コミックや小説の映像化作品が氾濫する現在、今後の映画製作における新たな可能性を示す作品として、全力でオススメします!
(文:滝口アキラ)
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