田村正和 追悼:テレビ界の大スターとしての栄光の奥に秘められた映画俳優としての素養
俳優の田村正和が2021年4月3日、77歳で亡くなりました。
無声映画時代から戦後まで活躍した時代劇のレジェンド名優“バンツマ”こと阪東妻三郎の三男で、長男・田村高廣、四男・田村亮の俳優“田村三兄弟”のひとりとしても知られる彼。
「眠狂四郎」シリーズや「乾いて候」シリーズなどの時代劇や「古畑任三郎」シリーズなどの現代劇で人気を博し続けたテレビ界の大スターでした。
では映画においてはどのような活動をしてきたのか、少し振り返ってみたいと思います。
木下惠介監督のメガホンで
本格映画デビュー
田村正和は1943年8月1日、東京都の生まれ。9歳のときに(1953年)に父、阪東妻三郎が亡くなり、60年に兄・田村高広が出演する映画の撮影現場を見学に行ったところを見初められて端役で出演したのをきっかけに松竹と契約し、1961年の木下惠介監督作品『永遠の人』で本格デビューを果たします。木下惠介は阪東妻三郎の戦後の代表作『破れ太鼓』(49)の、田村高廣のデビュー作『女の園』(54)の監督でもありました。
バンツマもその息子たちも皆揃って正統派の二枚目として知られていますが、映画における美意識にこだわり続けていた木下監督はそういった彼らの存在を大いに認めるとともに、かつてバンツマの魅力を『破れ太鼓』で引き出したように、その息子たちも一流の俳優として育て上げたいという意欲があったものと思われます。
『永遠の人』は愛する男(佐田啓二)から無理やり自分を引き離した夫(仲代達矢)を四半世紀にわたって憎み続ける妻(高峰秀子)の復讐劇。
田村正和はその愛憎の悲劇をこうむりながら成長した長男・栄一役で、当時(17歳)の甘く幼い風情の中から既にその後の彼独特の存在感の萌芽がうかがえます。
続いて木下監督は『今年の恋』(62)でも田村正和を起用。
こちらは一変して、互いに成績が良くない弟たちの兄(吉田輝雄)と姉(岡田茉莉子)が織り成す明朗快活なラブ・コメディ。
田村正和は吉田輝雄の弟・光役ですが、これがなかなか生意気で口が悪く、お手伝いさんとのやりとりなど楽しく、若々しくも陽性の田村正和を見られる愉しさがあります。
こうして田村正和は松竹の若手スターとして台頭するようになり、65年には初主演映画『この声なき叫び』も作られました。
さまざまな名匠たちと
あいまみえた成長期
1960年代後半も続々と映画出演を続けていく田村正和ですが、その大半は制作期間の短いプログラムピクチュアで、中にはシナリオもできてないのに出演を決めなければいけないものもあったとのことで、それは後々完璧主義で知られることにもなる彼にとってかなりのストレスだったようです。1966年からはフリーとなって、各社の映画やテレビドラマに出演するようになります。
映画に着目すると、主演作品として『空いっぱいの涙』(66)『雨の中の二人』(66)『記録なき青春』(67)『怪談残酷物語』(68)『東シナ海』(68)など多数。
ただしこの時期の彼の資質は、むしろ助演のほうで活かされていたようにも思えてなりません。
『かあちゃんと11人の子ども』(66/五所平之助監督)『痴人の愛』(67/増村保造監督)『無理心中日本の夏』(67/大島渚監督)『女の一生』(67/野村芳太郎監督)『男ならふりむくな』(67/野村芳太郎監督)『女と味噌汁』(68/五所平之助監督)『黒薔薇の館』(69/深作欣二監督)『風林火山』(69/稲垣浩監督)『超高層のあけぼの』(69/関川秀雄監督)『眠狂四郎卍斬り』(69/池広一夫監督)『秘録おんな藏』(68)/森一生監督)『現代やくざ 与太者仁義』(69/降旗康男監督)『おんな極悪帖』(70/池広一夫監督)『やくざ絶唱』(70/増村保造監督)などなど、実はかなりの名匠たちの作品に出演し続けており、これが彼の俳優としての修業期間であり成長期でもあったのかもしれません。
中でも注目すべきは大島渚監督の『無理心中日本の夏』で、ここで彼はライフルを撃ってみたくて仕方がない青年を演じていますが、その美少年ぶり(銃口を向けられたときの倒錯した笑顔!)は大島監督の遺作となった『御法度』の松田龍平ともどこかで相応する耽美なエロティシズムまでも内包していて、このオーラは深作欣二監督『黒薔薇の館』などにも継承され、ひいては1970年代に入ってTVで一世を風靡する「眠狂四郎」(72~73)へ行き着いたとする見方もできそうです。
実際、田村正和の魅力を全面開花させたのは映画ではなくテレビであり、そのきっかけも木下惠介でした。
60年代後半よりいち早くテレビに活路を見出そうとしていた木下惠介が企画・監修したTBS“木下惠介・人間の歌シリーズ”第1作「冬の旅」(70)で主人公の義兄役に抜擢されて、これが好評を博し、以後、徐々に彼はテレビドラマを中心にした活動へ舵を切っていくことになるのです。
テレビ活動の中から
久々の映画出演
1970年代以降の田村正和は「眠狂四郎」や「鳴門秘帖」(77)「赤穂浪士」(79)「乾いて候」シリーズ(83~93)などのテレビ時代劇で大いに脚光を浴び、その美貌とニヒリズムの融合が多くの女性たちを虜にし、「憂愁の貴公子」「日本のアラン・ドロン」などとも称されるようになっていきました。それは父・阪東妻三郎とは異なる、時代劇スターとしての新たな魅力の発散だったようにも思えます。
一方で映画は1979年の降旗康男監督作品『日本の黒幕(フィクサー)』の後、パタッと止まってしまいます。
ここでの彼は政界の黒幕たる主人公(佐分利信)の娘(松尾嘉代)と内縁の関係にもある書生・今泉役でしたが、映画全体が同性異性を問わずのセクシュアルな雰囲気に支配されている異様な空気感の作品でもありました(もともとは大島渚監督のメガホンで企画されていた作品でもあります)。
既にTVで新たな魅力をどんどん開拓しているのに、映画は彼の妖艶さを強調した役のオファーばかりくることにも、彼は限界を感じていたのかもしれません。
また80年代の「乾いて候」シリーズは田村三兄弟の共演も話題になりましたが(それ以前に1969年「魔像・十七の首」でも共演)、なぜこうした企画が映画で成されないのか? などと忸怩たる想いに囚われていた時代劇映画ファンも多かったように記憶しています。
聞くところによると80年代以降も多くの映画出演のオファーが彼にはあったそうですが、ことごとく断り続けていった田村正和が、ようやく重い腰を上げて久々に取り組んだ映画が時代劇『子連れ狼 その小さき手に』(93/井上昭監督)でした。
これは「乾いて候」の原作者でもある小池一夫の要請に応えたものだったようですが、それまでの映画版やテレビ版とは異なる親子の情愛にスポットを当てるという企画意図に賛同しての出演だったようです。
またテレビでは数々の時代劇の代表作をものにし続けてきた彼が、ここらで父親と同じように映画でも時代劇の代表作を残したいという意欲がわいたのかもしれません。
そして『子連れ狼』を撮り終えた彼は、ここでひとまず映画に対する目標を果たし終えたかのような満足感とともに、翌1994年から始まる「古畑任三郎」シリーズに突入していくのでした。
ただ、やはり出来得ることならこれを遺作にするのではなく、もう1本、銀幕で花開く彼の雄姿を見てみたかったなというのも偽らざるところではあります。
一方で、彼の60年代から70年代にかけての俳優としての成長期にあたる映画を見直す機会があれば、もしかしたら映画スターとしての彼の再評価も図れるのではないか?
今、目の前のモニターで久々に『無理心中日本の夏』を再見しつつ、そんな想いを馳せたりもしているところです。
(文:増當竜也)
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