人生を学べる名画座
弘兼憲史人生を学べる名画座 Vol.14| 『危険な情事』|「ルールは知ってるだろ?」
弘兼憲史人生を学べる名画座 Vol.14| 『危険な情事』|「ルールは知ってるだろ?」
この作品は、ピカ一のホラー映画です。
『リング』(1998年)の貞子よりも、『危険な情事』に出てくるアレックス (グレン·クローズ)のほうがよっぽど怖いと思います。
妖怪や化け物なんているわけない。いるわけないから怖くない。いるのは、狂った女です。ストーカーです。
『危険な情事』という映画は非常に現実性のある話なので、世の女性はそう思わないかも知れませんが、男はみんな怖いと思うでしょう。それも、身の毛がよだつほど怖い。実際、この映画を観た後に「浮気はやめよう」と思った男は数多くいるはずです。
『危険な情事』の原題は『Fatal ATTRACTION』。ATTRACTIONという単語は、引きつける、魅力、引力、といった意味で、Fatalは、致命的な、取り返しのつかない、といった意味。まさに主人公のダン(マイケル·ダグラス)はアレックスに、致命的に引きつけられてしまったわけです。
もし、こんな女に引きつけられてしまったら......。これはもう怖いです。取り返しがつきません。特に家庭を持つ男にとっては、致命的ですね。
ダンは、アレックスが勤めはじめた出版社の顧問弁護士。二人が最初に出会うのは、彼女の出版社が主催したパーティですが、最初の出会いは何事もなく終わります。
その数日後の土曜日、出版社が巻き込まれそうな訴訟問題の会議で、二人は偶然同席する。その週末は運悪く(?)、ダンの奥さんと娘が郊外の家を下見するために、実家に泊まることになっていました。
会議が終わって会社を出ると、外はひどい風雨。ダンの傘が壊れてしまったこともあって、二人はなんとなく飲みにいく。はじめのうちの会話は世間話や仕事の話、それがだんだん、妖しい方向へ進んでいくのですね。
アレックスが「秘め事に自信ある?」なんて聞くもので、ダンはついつい「あるよ」なんて答える。そしてアレックスは悩殺的な表情で、「パーティで互いに惹かれて今夜あなたは1人 私たちは大人...」と呟くように言う。
ダンはそこで決意をして「勘定をしよう」と答えてしまうのです。
パッと画面が変わると、二人の激しいキッチンでの情事。この過激なラブシーンも、当時は話題となりました。それを観ていた僕は、「ああ、これでハマッていくんだなあ」と思ったものです。
グレン·クローズという女優は、決して美人ではありません。『ガープの世界』のお母さん役などは、色気とはほど遠いといった感じでした。ですがこの『危険な情事』では、なんともいえない色気というか、妖艶さを漂わせていましたね。
影がある、というか謎めいている。いかにも「手を出すと危ない」という感じがする。そんな彼女の危険な香りに、ダンは引きつけられてしまったのでしょう。
情事の果ての日曜の朝、アレックスが眠っているうちにダンは家に帰る。そこにまたまた運の悪いことに、奥さんからもう一泊するとの連絡が入る。ダンは強引にアレックスに呼び出されて、またもや彼女の部屋へ行ってしまうのです。これが致命的でした。
次の朝、ダンは帰り支度を始めます。全裸でベッドに寝ていたアレックスは、「帰さない!」といって彼のワイシャツを激しく剥ぎ取ろうとする。ここで初めてダンも観客も「あれ?」と思うのです。
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アレックス:こういうこと? 一晩寝て“さよなら”?
ダン:僕のことは何も隠さずに話した 分かってくれ。お互い大人で、チャンスを楽しんだだけだ 。
アレックス:楽しむ?
ダン:そうだろ?
アレックス:いえ あなたは楽しんだ私は?
ダン:ルールは知ってるだろ?
アレックス:ルール?
ダン:アレックス 君が好きだ。だが僕には妻がいるんだ。
アレックス:それで自分を正当化するの?いっそ“くたばれ” といったら。
〜一瞬、躊躇して〜
ダン:よし、くたばれ!
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ここまでしつこくされたら「くたばれ!」と言いたくなる気持ちもわからんでもありませんが、実際に言ってしまったのは軽率でした。この言葉を聞いたアレックスは「出てって!」と言って、ダンの尻の辺りにものすごい蹴りを入れるのです。
この蹴り、恐ろしいものがありましたね。知的なインテリの女だと思っていた彼女が、いきなり暴力的な行為に及ぶ。
ダンもアレックスとの情事を、この時点ですでに後悔したことでしょう。
彼がそそくさと帰ろうとすると、「優しくさよならをして」と、寝室からアレックスが泣きながら出てくる。「私ってバカね」なんて、しおらしく後悔している様子です。ダンが優しく抱きしめると、彼女の手が濡れているのを頬に感じる。「なんだ?」と思って見てみたらベットリと血がついていて......。彼女は両手首を切っていた。
これも実に怖かった。背筋が寒くなりましたね。
僕は、不倫というものを、肯定はしませんが、その不倫が誰にも迷惑をかけないものであれば、強く否定もしません。ただ、不倫をするのなら、お互いある意味で腹を括って、ルールを守るべきだと思います。アレックスは「ルール?」と聞き返しますが、ルールというのはお互いの不文律で「なにがダメ」「なにがいい」と規定するものではないのです。
浮気したダンを擁護するわけではありませんが、家庭も仕事も持っている男との恋愛なのですから、当然そこにはルールがある。相手をずっと帰さない、家庭や職場に電話をする、その挙句、家庭や職場に押しかけたりするというのは、ルール違反というよりストーカー行為です。
まあ、現実にここまでする女性はなかなかいないでしょうが、不倫がうまくいかなくなったとき「被害者だ」「騙された」と思い込む女性は少なくありません。ですが、恋愛というのは男女平等、男だけが加害者なんてことはないと思います。女性にとっては虫のいい話に聞こえるかもしれませんが「お互いに楽しんだ」のですから、そこには加害者も被害者も存在しないのです。
ですから、もし不倫をするのなら、男女ともに「ルールを守れる相手」を選ぶべきでしょう。お互いに相手を尊重する気持ち、大人の恋愛をする覚悟がなければ、その不倫はしてはいけません。
でも、相手がルールを守れるかどうかは、なかなか判断がつかない。アレックスだって最初は、「私たちは大人」なんて言っていたわけですからね。そこにすっかり、ダンは騙されてしまった。
結局は、ダンに助けを求められた刑事の台詞、「仕方がない 自分のまいた種だ」ということです。相手のことをよく知らぬまま、軽率に手を出してはいけないということでしょう。
この作品は、ヒッチコックをはじめとした恐怖映画のエッセンスを巧く取り入れていると思います。
一人の部屋の山でダンのことをひたすら想っているアレックスが、ベッドルームのランプを点けたり消したり点けたり消したりと、ただ繰り返すだけの怖さ。この場面と、ダンが家族と楽しんでいる幸せそうな場面とを交差させることで、「ああ、なにかしでかすだろうなあ」と観客に思わせるテクニックですね。
恐怖というのは、ある程度予測できるもののほうが強烈なのです。びっくり箱のようなものは「ウワッ!」という単純な驚きだけで終わるのですが、「出るかもしれない。出るかもしれない」と思わせて出すほうがよっぽど怖い。
このテクニックの代表例は、鍋の中で煮られているウサギです。家族三人が、郊外の家に帰ってくる。娘はウサギ小屋のほうへ走っていく。キッチンには、鍋が沸騰している。
奥さんが不審に思って鍋に近づく。ウサギ小屋に駆け寄る子供の足だけが映る。
この時点で観客に、「あの鍋の中にひょっとしたらウサギがいるのではないか?」と思わせるのです。そう思わせておいてから、パッと鍋を開けるとやっぱりウサギが煮えている。予想していた恐怖が実現する怖さがありました。
ストーカーと化したアレックスがダンの車に硫酸をかけるシーンでも、チラッと彼女の影を見せるとか、ラストで死んだと思ったアレックスがもう一度ガバッと起き上がってくるシーンでも、その直前に彼女の視線からの水面を映し出すことで予測させ、怖さを増幅させていました。ラストシーンは、完全にホラー映画になってしまいましたね。
この作品が撮られたのは、1987年。アメリカでストーカー被害が多発したのがちょうどこの頃で、1990年にはカリフォルニア州で世界初のストーカー規制法が施行されました。日本ではその5年後くらいから「ストーカー」という言葉が認識されはじめ、2000年になってやっとストーカー規制法が施行されたのですから、日本人は「危険な情事』によって、「ストーカーってこうなんだ」「ストーカーって怖いんだ」ということを教わったともいえるでしょう。
男でしたら、一瞬の気の迷いもたまにはあると思います。不倫はもちろんいけないことですが、「なにもそこまでやらなくても」というのが、この映画を観た男の感想ですよね。
それにしても、アレックスは怖かった。演じたグレン·クローズは、この作品でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされましたが、このときの印象が強すぎてその後はあまり好きになれません。
いくら役とはいえ、やっぱりちょっと、やりすぎたのかもしれませんね。一言でいえば、うますぎたということでしょう。
弘兼憲史 プロフィール
弘兼憲史 (ひろかね けんし)1947年、山口県岩国市生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年に『人間交差点』で小学館漫画賞、91年に『課長島耕作』で講談社漫画賞を受賞。『黄昏流星群』では、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第32回日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年、紫綬褒章を受章。19年『島耕作シリーズ』で講談社漫画賞特別賞を受賞。中高年の生き方に関する著書多数。
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