表現者・庵野秀明「5つの人物像」を考える<庵野秀明展 無事閉幕>
表現者・庵野秀明像4:葛藤しながら選択し続ける
高校で美術部の部長を務める側ら、文化祭展示用で実写特撮やセルアニメなどを作り始め、アニメーターや監督としての片鱗を見せていた庵野氏。
大学時代に画コンテ・メカ作画監督・原画を務めた、サブカル系のコンベンション「第20回日本SF大会(DAICON Ⅲ)」のオープニングアニメーションをきっかけに「スタジオぬえ」の河森正治氏から『超時空要塞マクロス』(1982〜1983)へアニメーターとして勧誘され、プロデビューを果たします。
『風の谷のナウシカ』© 1984 Studio Ghibli・H
その後、『風の谷のナウシカ』で最重要と言える巨神兵のシークエンスの原画を宮崎駿氏から任せられるなど順調にアニメーターとしてのキャリアをスタートし、『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』(1990〜1991)では監督を務めるなど、着実に実力をつけていきました。
先述した通り、これまであまり庵野氏の作品を観てこなかった筆者ですが、庵野氏と言えば『エヴァンゲリオン』シリーズや『シン・ゴジラ』といったヒット作を生み出しているイメージが強く、庵野氏のことをいわゆる「天才」だと思っていました。自分の作りたいことだけに集中し、周りからの批判はあまり気にしないようなタイプなのかもしれない、と。
ですが庵野秀明展を通して庵野氏について知るうちに、そうした筆者の考えは思い込みだったと知りました。
というのも、当時大ヒットした『新世紀エヴァンゲリオン』放送後、予想外のラストシーンに賛否両論を呼び、庵野氏はアニメ業界やアニメファンからの痛烈なバッシングを受けてモチベーションを失い体調不良に陥ったそうなんです。
その後、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』の制作を開始し、『彼氏彼女の事情』(1998)を手がけたのち、アニメからしばらく距離を置くようになりました。
しかし、それでアニメ業界から完全に退く、とはならないところが庵野氏。
自分自身のため、そしてアニメ業界のためにもなると判断し、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を始動。同時に「スタジオカラー」を立ち上げます。
『エヴァ』でアニメを離れ、『エヴァ』で再びアニメに戻ってくる。
その選択には自分たちが見えない苦悩や葛藤があったと思います。ですが、その時にその決断を下した庵野氏こそリアルに生きる人間としての「庵野秀明」を感じました。
葛藤と共存し続けた監督だからこそ、人々の心を揺さぶる作品を生み出せるのだと思います。
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©️HIDEAKI ANNO EXHIBITION