【ガリレオ】『沈黙のパレード』の魅力|『容疑者Xの献身』の対となる物語
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2007年のドラマシリーズ第1シーズンから始まった、東野圭吾原作&福山雅治主演のミステリーシリーズ“ガリレオ”の最新映画『沈黙のパレード』が9月16日(金)、ついに公開されます。
気が付けばこのシリーズも足掛け15年となり、新作スペシャルドラマの「ガリレオ禁断の魔術」も放映予定です。
『沈黙のパレード』最大のトピックといえば、柴咲コウ演じる内海薫の復帰でしょう。これにより湯川学(=福山雅治)・内海薫(=柴咲コウ)・草薙俊平(=北村一輝)の映画とドラマの“ガリレオ”シリーズの顔ともいうべき3人の並びが復活することになりました。
エピソード0の長澤まさみや第2シーズンの吉高由里子も良かったのですが、やはり湯川の隣には内海薫(=内海薫)がぴったり来ます。
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“内海薫”の存在
内海薫の存在については、東野圭吾も認めるところがあるようです。
今やトリビアでもないかもしれませんが、若手女性刑事の内海薫は原作シリーズの序盤には登場しないキャラクターでした。少なくともドラマ第1シーズンの放映から映画『容疑者Xの献身』の頃の原作小説には全く登場していません。
ドラマ「ガリレオ」は“月9ドラマ”ドラマだったため、ロマンスとはいかないまでもドラマの体裁として男女のメインキャストという形を作る必要があったのでしょう。
そこで、柴咲コウ演じる内海薫というキャラクターが誕生しました。
ただ、ここでガリレオこと湯川と内海薫が想像以上の化学反応を起こして、ドラマに幅を持たせることに成功します。福山雅治と柴咲コウにしても、このコラボは好感触だったようで、このまま2人はスペシャルユニットKOH+(コープラス)として主題歌まで担当するまでになっています。
ちなみに『沈黙のパレード』に合わせてKOH+も復活、主題歌として新曲「ヒトツボシ」を発表しました。
トリックではなく人間ドラマに重点を置く原作
東野圭吾は理系のバックボーンを持つ人ですが、実はその作品の多くは人間ドラマに重点を置いたものが多いです。特に長編作品は完全に人情噺、メロドラマと言っていいでしょう。
もちろん、映像化もされた「プラチナデータ」や「ラプラスの魔女」「パラレルワールド・ラブストーリー」「危険なビーナス」などや“ドラマの「ガリレオ」”原作に当たる短編集の時のようにSFの方向に針を振り切った作品もあるにはありますが、彼の作品群の多くは人間ドラマです。
“ガリレオ”と並ぶ人気シリーズの“加賀恭一郎”(いわゆる「新参者」シリーズ)などを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。
「白夜行」や「流星の絆」のほかに、「眠れる人魚」「ナミヤ雑貨店の奇蹟」などはミステリーですらありません。
このような長編作品は、読んでみるとミステリーではあっても何か極端に目新しいトリックが使われることはなく、むしろトリックの部分ではシンプルであったり意外とわかりやすいものばかりです。
『容疑者Xの献身』『真夏の方程式』そして『沈黙のパレード』の“ガリレオ”の長編(=映画)も人間ドラマに当てはまります。
ドラマシリーズでおなじみの“唐突に湯川が数式を書いてトリックを解明する”シーンが映画のガリレオにはありません。そのくらい長編の(=映画の)東野圭吾作品とガリレオ作品には、SF的な謎解きの度合いが薄くなっていると言えます。
『沈黙のパレード』原作と映画の違いとは?
原作の「沈黙のパレード」と映画の『沈黙のパレード』は基本的には大きな差異はありません。
映像化の際のアレンジについて、東野圭吾は意外なほどに理解があることで知られていて、例えば『マスカレード・ナイト』などは年末数日間の話だった原作に対して、映画は大晦日の数時間の物語に大きく変わっています。映画のストーリーは空間的・時間的に制限がかかるとグッと締まることがありますが『マスカレード・ナイト』はその好例と言えるでしょう。
原作の「沈黙のパレード」のページで多くを占めているのは、事件に巻き込まれた・あるいは関わった市井の人々たちの姿です。彼らは私たちと同じ地続きの世界を生きる人々で、そんな彼らが不条理な犯罪に巻き込まれてしまいます。しかも限りなく犯人であろう人物が真っ黒であるにもかかわらず、法律上の判断で罪に問われない事情が重なります。
結果として「正義とは何なのか」を湯川と警察が問われ、湯川達が下す判断とその経緯が物語の主眼であって、トリックの解明はどちらかというと添え物に近い描写です。
長編の“ガリレオ”は全体としてある意味、倒叙法的(「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」などのように物語の冒頭に犯人の犯行が描かれる)と言ってもいいほど、「誰が犯人か?」の部分は読むだけで大体わかります。
この仕組みは映画においても同様で『沈黙のパレード』の主眼も謎解きではなく、事件に関わった人々の心情に置かれています。
しかし複雑な人間をひとり一人を深掘りして、しかも時間的に過去と現在が交錯する内容の原作を全部映画に反映させてしまうと、4時間近い映画になりかねません。そこで監督の西谷弘と脚本の福田靖は、断片的な描写を細かく入れる形で人間関係や過去と現在の部分を大胆に圧縮しました。
一方で、映画の中では湯川と草薙の友情の部分に軸足を置く形を選択しました。
その結果、『沈黙のパレード』が“映像のガリレオの15年の積み重ね”であることを強く感じられる作品になったのです。
『容疑者Xの献身』と対になる映画『沈黙のパレード』
『沈黙のパレード』で描かれる過去と現在の2つの事件には、北村一輝演じる草薙刑事が深く関わっています。このことで湯川は事件の完全な解明という正義と草薙との友情の間で大きく揺れることに。
原作でも触れられていますが、映画において湯川は“正義と友情”についてある判断を下したことで、悲しい結末を迎えたことを語ります。
“ある判断”について描かれるのが『容疑者Xの献身』です。
その年のミステリーベストテンを総なめにし、直木賞まで受賞した『容疑者Xの献身』の本筋は孤独な数学の天才・石上(映画では堤真一が演じました)の献身的で純粋な愛情と古くからの友人である湯川との友情の物語でした。
映画『沈黙のパレード』において、この湯川のセリフや描写を入れることについてはディスカッションがあったそうです。確かに『容疑者Xの献身』のエピソードを知らないと、わかりにくい部分ではあります。
ただ、個人的にはこの描写はあってよかったと思います。
『沈黙のパレード』を映画化するにあたって湯川と草薙の友情を大きな軸とする際に、かつての湯川の苦い経験があったことに触れた上で、草薙への接し方を描くことで湯川の行動や言動に説得力が加わることになりました。
また一方で、“映像のガリレオ”が15年続いていることを考えると、長い歴史を受け継いだ作品としても映画『沈黙のパレード』は成り立たせなくてはいけません。
内海薫の復活・KOH+の新曲・そして『容疑者Xの献身』を経たうえでの湯川の判断。
原作小説の人間ドラマの部分を圧縮した代わりに、映画ならではの要素を作品に取り込んだことで、映画『沈黙のパレード』は映像の“ガリレオ”シリーズの厚みを感じる作品に仕上がりました。
原作と映画で『沈黙のパレード』はまた違った見応え(読み応え)があるため、原作と映画のどちらからでも、是非両方チェックしてみてほしいです。
(文:村松健太郎)
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