<2023年必見の映画>『福田村事件』 それでも“世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい”
「デビルマン」との相違点
©「福田村事件」プロジェクト2023この痛ましい事件が発生した背景には、朝鮮人に対する恐怖心があった。震災が発生したとき、内務省は治安維持という名目のもと、警察に「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」と下達。
怪しい者には片っ端から「十五円五十銭と言ってみろ!」と強要し(映画でも「ガギグケゴやバビブベボが言えないからな」というセリフがあったが、朝鮮語では発語が濁音で始まることはまずない)、その踏み絵によって多くの人間が犠牲となったのである。行き過ぎた自衛本能が、この悲劇を生んだのだ。
およそ30分に及ぶ大殺戮を目の当たりにしながら、筆者の頭の中にふと浮かんだのは、漫画版「デビルマン」だった。飛鳥了の姿を借りたサタンは、「悪魔が人間になりすましている!」と人間を扇動。疑心暗鬼に囚われた人々の手によって、ヒロインの牧村美樹が惨殺されてしまう。変わり果てた彼女の亡骸を見て、不動明ことデビルマンは絶叫する。
「きさまらは人間のからだをもちながら悪魔に!悪魔になったんだぞ!これが!これが!おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!」いたいけな子供が読んだら、トラウマ必至の超有名シーン。およそ50年前に、永井豪も「集団化」の危うさを壮絶なカタストロフとして描いていた。
(永井豪「デビルマン」より抜粋)
だが「デビルマン」が『福田村事件』と決定的に異なるのは、<加害者の視点>が抜け落ちていること。美樹を血祭りにあげた民衆は、狂気に陥った集団という画一的な表現に収まってしまっている。
そこに、「なぜそのような非道に手を染めたのか」「そもそも彼らはどのような人間たちなのか」という説明はいっさいない。彼らは記号化された存在でしかないのだ。
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