インタビュー

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2024年06月07日

井浦新とマーク・マリオット。モンタナ州で翻弄される日本人をアメリカ人が撮る──“異邦人”同士が『東京カウボーイ』で感じたものとは?

井浦新とマーク・マリオット。モンタナ州で翻弄される日本人をアメリカ人が撮る──“異邦人”同士が『東京カウボーイ』で感じたものとは?

娯楽大作映画やゴールデンタイムの地上波ドラマで存在感ある役を演じる一方、ミニシアターと知る人ぞ知る作品にも大いなる愛情を寄せる。映画文化の灯をともし続けるべく活動する井浦新のアティチュードと行動力は同業者やクリエイターはもちろん、観る者も魅了してやまない。

その井浦が6月7日(金)公開の映画『東京カウボーイ』で、満を持してアメリカ映画初主演を果たした。やり手の商社マンとして和牛を広めるべくモンタナ州に乗り込むも、文化と風習、価値観の違いなどに直面して人生を見つめ直す主人公を、ペーソスとユーモアを織り交ぜながら等身大の人物として体現。

いわば“異邦人”としての日本人の心情のグラデーションを、かつて『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(89年)のウィーン・ロケに参加し、日本文化にも精通するマーク・マリオット監督が「人間賛歌」として紡ぎ上げ、スクリーンに映し出す。

空と地平線がどこまでも広がるモンタナの地で、映画を通じて相まみえた両者は何を目にして、感じとったのか?作品の日本公開を目前にしたタイミング、撮影時を思い出しながら語らってもらった。

モンタナでの日常生活が、新たな発見につながった

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──土地と人の結びつきにフォーカスした作品でもありますが、モンタナという地で撮影をした日々をどのように捉えているのでしょうか?


井浦新(以下、井浦):現地で過ごしたすべての時間が、自ずと今回の作品と役に投影されていたように感じていて。たとえば、宿泊もホテルではなくてAirbnb(民泊施設)でしたが、近くにキャストやスタッフがいたわけでもなかったんです。でも、その環境ってまさにヒデキ(=井浦が演じた主人公の坂井英輝)そのものなんです。なので、オフの日は自転車を借りてスーパーへ行って1週間分くらいの食材を買い込み、朝食のサラダをつくったり、撮影が早く終わった日は晩ご飯のカレーライスを仕込んだり、といったことをしていました。

そんなふうに生活をしているとモンタナに暮らしている人たちとも自然に出会えるので、「こういう人たちがいるんだな」「変わったお店があるなぁ」という気づきもあって。スタッフにもモンタナ在住の方がいらっしゃって、その方たちと日々をともにするだけでも新たな発見があったんです。東京で台本を読んでいる段階では“言葉を覚える”という行為でしかなかったんですが、実際に現地に行ってみることで言葉に広がりが生まれて、ヒデキの心と溶け合っていくような感覚を覚えましたし、現場のみなさんと1つずつシーンを重ねていくたびに、ヒデキと僕自身も1つになっていく──そんな捉え方ができた日々でした。

──国内ならばともかく初めておもむく海外の地、お1人で過ごすことに大変さもあったのでは……?

井浦:確かに、日本では僕が芝居に集中できるようにマネージャーさんのサポートもありますが、今回のマーク組の俳優さんたちはみんな「自分のことは自分で」しながら毎日現場に来ていたので、大変さというのは特に何もありませんでした。

マーク・マリオット監督(以下、マーク):そういった環境は小規模のインディペンデント作品ならでは、という部分もあります。プロデューサーのブリガム・テイラーさんはふだんディズニーの大作を手がけている方でもありますが、本作の初日における彼の初仕事は“スタッフ総出の雪かき”でしたから(笑)。そういう家庭的な部分が、この『東京カウボーイ』の撮影現場の良さだったのではないかなと思っているんです。

明確に提示されたマーク監督の制作における姿勢

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──自主制作映画ならではのアットホームな座組だったわけですね! そんなあたたかみのある現場で、マーク監督ならではのディレクションだなと感じたことはありましたか?


井浦:マーク監督は俳優に「ここでは、こう動いて」「こう感じてもらえないか?」といった答えを演出で提示するのではなくて、いつでも僕らに「ヒデキなら、このシーンでの状況をどうすると思う?」と考えさせてくれるんです。俳優と一緒にヒデキの置かれている立場や対峙している事象を感じつつ、「さて、アラタはどうしたい?」と問いかけてくれると言いますか──。

対して、僕はヒデキとして考えたことをアンサーとして芝居でやってみる、というバトンの受け渡しを1シーンごとにしていた感じです。その上でマークは「アラタ、今の芝居は僕の心に届いたよ」といった一声を必ずかけてくれるんです。その優しさと強さと思いやりに溢れた演出は、マーク監督ならではだと思っていました。

マーク:(少し照れくさそうに笑いながら)私が大切にしていることは、リアルとユーモアなんです。登場人物の心情をリアルに描くこともそうですし、この作品ではラテンアメリカ系──スペイン語圏の文化も描いているので、特定の文化をきちんとリアルに捉えて真摯に向き合う必要がある、と考えていたんですね。

たとえば、メキシコ系の人々が誕生日を祝うシーンでは、ラテン系のルーツを持つ撮影監督に「今の描き方で足りていなかった部分はないかな?」と確認をして、極力リアルに描こうと心がけていて。一方、ユーモアというものも取ってつけたような描き方をしても、それこそリアルではなくなってしまうので、自然とわき出てくるような雰囲気や流れに持っていく──といったことに努めていました。だからこそ、アラタに答えを提示するのではなくて、彼の中から出てくるものを捉えようとしていたんです。

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井浦:実際、マーク監督もブリガムさんも終始「芝居がかった表現をしなくていいよ」と言ってくださって。かといって芝居を放棄して好き勝手やっていい、というわけでもないんです。「内側はドキュメンタリーだけど、外側はつくりこまれたフィクションとして成立させよう」という指針が提示されていたので──。

ただ、俳優さんによっては大きめの芝居をされる方もいましたし、シーンによってはキャラクターがわかりやすく伝わるような表現をする方もいらっしゃって。その都度、マーク監督はテストやリハーサルで「そうじゃないアプローチもある?」とサジェストするなどして、しっかり向き合っていたのが印象的でした。「その芝居もあるよね。でも、大きな声を出したり誇張することなく、心がどう動いたかを見せてくれないか?」と心に重きを置いた芝居を要求されていて。

言うならば……クスッと笑うポイントに重点を置くのではなくて、その場にいる人たちにとっては当たり前の出来事を、たまたま見かけた第三者=観客が笑えるような見せ方をしたいんだ、と。意識して笑わせるのではなくて、傍観者が思わず笑ってしまうような──削ぎ落としていく表現を標榜されていましたし、俳優部には「そういう映画を撮りたい」と明確に提示してくれていたんです。

──アクターの芝居を「そういうアクションもあるよね」と受け入れた上で、違う可能性を探っていくところに、井浦さんのおっしゃった「優しさと意志の強さと思いやり」を感じました。

井浦:しかも、ただ「違う感じでやってみて」と丸投げするんじゃなくて、「この場合、こういうリアクションもあったりしない?」と寄り添って、一緒に考えてくれるんです。また、僕の拙い単語を羅列した英語も解釈を広げて理解しようと努めてくださったので、すごく助けられました。

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──そんなふうに心をゆっくりとほぐしていくこともまた、ヒデキと重なるのかなと思いました。

井浦:僕自身もかつて、ヒデキのように“ていねいに生きることができない日々”に対するもどかしさを感じていた時期がありましたし、身近にある幸せに気づけず、遠くに見える大きな目標にばかり目を向けていたこともあったので、彼の心情はけっして他人事ではなかったんです。

ただ、それはきっと僕に限った話ではなくて、たくさんの方々が何かしらヒデキのような思いを抱えているのではないか、と思っていて。もちろん答えは1つじゃないですし、人の数だけ幸せのかたちもあると考えると……自然に触れて暮らすことも、お金に価値を見いだして生きることも、誰かにとっての幸せと定義づけられるわけですが、この物語におけるヒデキの変容に対しては僕も共感を抱くものだったことは確かなんです。身近にある小さな幸せに目を向けられるような人間になりたいと思っていますし、物事の価値はお金でははかれない──目に見えないことだったり、豊かな自然や近くにいる家族や仲間だったりという考え方があるので、この『東京カウボーイ』という映画を通してヒデキという人物を描くことによって、たくさんの方々に楽しんでもらいながら「物事の価値とは何か?」というテーマを提示できたなら……素敵だなと思います。

マーク:この映画を制作する初期段階で、プロデューサーのブリガムさんと自分たちの好きな映画の話をしたんです。アクション映画であったり、余白や余韻のある映画であったり、あるいは人によっては観ることで落ち込んだりする映画……と、幅広いタイトルが挙がりました。

その上で、今回はある意味……静寂と言いますか、“間(ま)の中で生きること”を楽しむ映画、しかも小品だからこそ静かな瞬間を感じとって映し出すことができると考えたんです。そういった作品において、まさにアラタはそういった作品のメッセージを伝えられる天性の感覚を持っている人だなと感じました。人々が繋がるというテーマは期せずして、人々が分断されてしまっているこの時代を生きる私自身にとっても、とても大事なテーマであり、きっとアラタもそう感じてくださったのだろう、と。そういったこともあって、まさにヒデキという役は適任だったのではないかという思いを、改めて強めてもいるんです。

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──実際、日本国内では「大阪アジアン映画祭」で上映されて好反応を得ましたし、アリゾナで開催された「セドナ国際映画祭」では最優秀作品賞を受賞しました。ご覧になった方に届いている、という手応えがあるのではないでしょうか?

マーク:大阪での上映では、最後まで観客席に座ってみなさんと一緒に観ることはできなかったんですけど、何度か劇場に入ってお客さんのリアクションをチェックしていたんですね。そうしたら、いわゆるコメディー作品ではないにもかかわらず、密やかなユーモアにみなさんが反応してくださっていて。上映後に、映画をご覧になった方とお話をしましたが、そこで「ああ、分かってくれたんだな」という手応えを感じることもできましたし、「日本の監督の作品かと思いました」という最高の賛辞もいただいて……自信になりましたね。

──確かに、ところどころで日本的なセンスを感じました。それはかつてマーク監督が現場についた山田洋次監督の影響もあったりするのでしょうか?

マーク:それは間違いなくありますし、山田監督の愛情と人間性に溢れた映画そのものからも、影響を受けているのではないかな、と自覚しています。山田監督は、こうもおっしゃっていました。「映画監督はある意味、蕎麦職人のような仕事だ」と──。栄養価の高い汁の入ったお椀を、お客さんにお出しするのが我々映画人の仕事ではあるけれども、現状はどことなく甘ったるくて栄養価のないものが多い。だからこそ栄養価の高い作品を提供したい、ともお話されていました。私もまだ十分に提供できているとは言えませんが、そのアプローチを続けていきたいなという思いのもとに映画をつくり続けていきたいです。

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──翻って、この少し複雑な構造を持った映画がアメリカや海外で、どのような受けとめられ方をするだろう……と井浦さんは想像されますか?

井浦:僕自身がまだアメリカの映画祭でのお客さんの反応を見ることができていないので、そこについては安易に言及しないでおこうと思います。むしろこの作品は、日本人のキャストやスタッフも参加はしていますが、マーク監督をはじめ海外で生まれ育ったクルーによって作り上げられたものなので、それが日本のお客さんにどのように届くのか──という方が気になっています。

日本人が日本の街を撮れば、観る側としても馴染みやすいというか……「こういう目線、あるよね」といった共感を得やすい気がするけれども、マークや撮影監督の眼差しが「海外から見たニッポンだね」という受けとめられ方になるのか、あるいは海外の人たちだからこそ描ける“おかしみ”というか、細やかな仕掛けを日本のお客さんはどうキャッチするのか、そういった部分に関心があったりもするんです。

マーク:私自身もこの映画とともに12〜13の映画祭に参加していますが、おおむね観てくださった方の反応がいいことと、批評家ウケもいいことに胸をなで下ろしています(笑)。でも、それ以上に6月から日本のみなさんにも観ていただけることに、とてもワクワクしていて! 手前味噌ですが、この映画はスクリーンで観るべき作品だと思っていますので、近しい人はもちろん、その日偶然に同じ上映回で一緒になった見知らぬ人たちと一緒に、『東京カウボーイ』を楽しんでいただけたらうれしいです。

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(撮影=Marco Perboni/取材・文=平田真人)

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