私と映画Vol.9「株式会社ビック・ママ 守井嘉朗社長を支えるストーリー」[PR]

株式会社ビック・ママ 守井嘉朗社長 インタビュー

服の修繕の業界に革命が起きた。いままで「お直し」は洋服店の下請けの仕事だった。しかし「ボタンがとれた」「もっとウエストを広げてほしい」といった顧客の細かいニーズに直接応える店が全国で躍進を続けているのだ。その企業の名は「ビック・ママ」。東北の小さな店舗から始まり、現在、全国73店舗、売上高年間15億円超にまで成長している。守井嘉朗社長に聞けば、この結果、ある映画の衝撃的ラストシーンと関連がある、という――。

自信があるなら、すぐ独立しろ

株式会社ビック・ママ 守井嘉朗社長 インタビュー 映画「経営者になりたい」と思ったのは、私がコンプレックスのカタマリだったからでしょう(笑)。私は目立ちたがり屋で、人の上に立ちたいという気持ちが強かったんです。何の根拠もなく「やればできる!」と信じてもいました。
 
しかし腕っ節も弱く、勉強しても志望した学校には行けず、モテるわけでもない。そこで、そんな自分でもなれるものは? と考えたとき「経営者なら」と思ったんです (苦笑)。
 
でも、こう決めたはいいけど何をやればいいかわからない。そこで就職活動の時「将来は独立できる」と保険の外交員になったんです。
 
成績はよかったと思います。表彰を受けるほどでした。でも、次第に「私がやりたいのはこれじゃない」と気付いてきた。私は「経営」がしたかった。組織を作り上げ、ビジネスをデザインし、事業展開していきたかった。一方、保険は個人が活躍する世界。「独立」はできても「経営」はできないんです。
 
そして、私の胸の中にはいつも「人生など、明日、途絶えるかもしれない」という考え方があったんです。

明日、死ぬかもしれない。明日はもう、私はこうして息をして、話していないかもしれない。そう思うと、何もやらないことの方が怖いのです。

ある日、先輩に相談したら、「自信があるならすぐに独立した方がいい」と言われました。じゃあ何をやろうか考えたとき、父が経営する洋服の修繕工場が頭に浮かびました。「守井加工所」といって、私の地元・宮城県多賀城市のスーパーの裏に小さな店舗を構え、スーパーで販売された服のお直しをする会社でした。

よし、やってみよう! と父の会社へ入社したのが1990年のことでした。

ピンチをチャンスに。経営者としての確信

起業後は、話し尽くせないほどいろいろなことがありました。人並みの給与がもらえるようになるまで約2年(笑)。しかも、関西の大手衣料メーカーさんと業務提携を結び、会社が大きくなったと思ったら、ある日、提携を解消することになってしまった。当時の売り上げの約3分の1がなくなってしまい、どうしようかと考えさせられました。

しかし、こんな時こそ、思い切るしかないんです。

ここで私は「じゃあ次の提携先を」とは考えませんでした。過去って何か大切なことのような気がしますが、そうじゃないんです。過去は、なぞるためにあるのでなく、未来を変えるためにあるんですよ。

私は、この時「下請けでは限界がある、直接、エンドユーザーから受注できないか」と考えました。

当時の洋服の修理屋は、敷居の高いお店がほとんどでした。まず、どこにあるかわからない。しかも見つけたって、入るときに重い扉を開けて、いくらかかるかわからず、職人さんに「買ったほうが安いよ」などと言われながらお願いする状況だったんです。

私は「もっと敷居を低くできないか?」と考えました。当時は不況、ニーズはあるはず。仮にファーストフード店のような雰囲気で、カウンターの向こうに笑顔の店員さんがいたらどうだろう? と。技術だって、気にすることはない。私、学生時代にファミリーレストランでバイトをしていたため「セントラルキッチン」の仕組みを学んでいたんです。綺麗な店舗でお直しをもらい、技術的に難しいものは当社の修繕工場に運んで修理すればいいんです。

思い切りました。仙台で、1号店を始めたのです。すると……

どんどんお客様がいらっしゃった!

私はお客様に「なぜ当店を選んで下さったんですか?」と聞きました。すると「こういう気軽なお店が欲しかった」とおっしゃるじゃないですか。自分の考えは間違ってなかったと確信し、そこから1年に1店舗ずつのペースで東北を中心に事業を拡大していきました。

やれば、できたんです!

次に失敗したら、経営が厳しくなる……その時!

株式会社ビック・ママ 守井嘉朗社長 インタビュー 昔

事業を拡大する中でも、いろんな失敗がありました。東京進出です。たまたま知り合った方が「テナントに空きが出た」と誘ってくれ東京進出したのですが、完全な敗北に終わったんですね。

この店の初月売り上げは100万円ほどでした。今考えれば、100万円売上があれば、継続して続けていけば成功する「勝ちパターン」です。でも当時は、経験もロジックもなかったから「ダメだ」と結論づけ、会社をスタートさせてから初めてに近いくらい自分の無力さにうちひしがれました。

しかし、やはり私には、根拠のない自信と、やりたいならやろう、という決意があったんです。そして東京で電車に乗るたび「この街に出店したい」「あの街にも」などと考えるうち、再挑戦のチャンスがめぐってきました。知り合いを通じ「たまプラーザ」への出店を打診されたのです。

今度失敗したら、会社の経営が厳しくなる、という状態でした。しかし私は、どうしてもやりたかった。そしてスタートすると……。

今度は、最初はなぜ失敗したのか、と思うほど、初月からに大きな売り上げが立ったのです。

そうか、やはり東京でもニーズはあるんだ、と思った瞬間、次々に出店のお誘いがありました。蒲田の駅ビル、渋谷の路面店、丸ビル、横浜の地下街、渋谷の109、吉祥寺……電車の窓から「ここにお店を出したい」と思っていた場所に、私はどんどん店を出し始めたんです。

そして、この経緯を振り返るとき、私は、一遍の映画を思い出すのです。

明日途絶えるかもしれない人生

私の脳裏に焼き付いて離れない映画の名は『コラテラル』。実を言うと「好きな映画は?」と聞かれたら、私は『ミッション・インポッシブル』や『ダイ・ハード』のような痛快アクションをあげたい。私は映画を観終えたあと、深く考えたり、心が沈んだりするのが好きじゃないんです。だから本当に好きなのは、ただスカッとするアクションなんです。

でも「自分の人生と深く関係する映画は?」と聞かれたら、それは『コラテラル』なんです。

この映画は、アクション映画ですが、少し趣が異なります。トム・クルーズが演じる殺し屋のヴィンセントは、トム・クルーズにしては珍しく悪役です。そしてヴィンセントは圧倒的に強く、次々にターゲットを無慈悲に殺して行くのですが……。

最後にとても寂しい死に方をします。

映画の冒頭でヴィンセントはこんな話をします。「ロサンゼルスの地下鉄は、1人の男が死んでいても乗客たちは誰も彼が死んでいることに気づかず、気にしようともしない」と。そしてヴィンセントは最後、この男と同じように地下鉄の中で死んでしまうのです。

人は誰しもが、日々、無意識のうちに「死なないこと」を前提に活動しているはずです。でもそれは幻想で、人生はある日突然、終わることもある。永遠に続くと思われる日常と、急に終わってしまう人生。この作品を観て、私は自分の中に、同じようなコントラストがあったと意識したのです。

私は、こう考えてきたのではないか?

「人は、どう生きても、最後は死ぬ。たとえ、人に傲慢だと思われたとしてもいい。やりたいと思ったことをやっていくほうが大切なんだ」

実は震災の時も、私は強く思いました。震災を経験する前まで、私は「人にどう思われるのか」を気にするところがあったんですね。でも、今はこう考えています。「ある日、急に人生は終わる。理不尽で、そして切ない。でも、それでも生きるしかないのだから、さあ、やると思ったことは、全部やろう!」と。

よく「人はいつか死ぬ」と言いますが、これは本当なんです。だから最近、私は海外進出も果たしました。実を言うと私、以前は、口で「海外進出したい」などといいながら「まだ早い」「いつか、子どもの代にでも」などと思っていたんですね(笑)。でも、それじゃいけない。

だって、強くて殺されるはずがないと思っていたヴィンセントも、ある日、突然死んでしまった。

ならば、日常が永遠に続くであろうと思いこんで“やらないでいること”こそ、むしろ“今やるべきこと”なんじゃないか、と――。

【プロフィール】
株式会社ビック・ママ 守井嘉朗社長 インタビュー プロフィール守井嘉朗

 
1969年宮城県仙台市生まれ。東北学院大法学部卒業、保険代理店へ就職した後、1993年に株式会社ビック・ママを創業。東北と首都圏を中心に全国に73店舗、シンガポールに8店舗を展開する一大チェーンとなる。「もったいない」という日本の大事な文化の継承に貢献しながら、大量消費による使い捨ての生活習慣ではないところに根ざすサービス、価値の提供を追求する。


    ライタープロフィール

    夏目幸明

    夏目幸明

    経済ジャーナリスト。1972年愛知県生まれ。早稲田大学卒業後、広告代理店へ勤務し、経済ジャーナリストに。「日本で一番多くの社長を取材しているジャーナリスト」として、現在は様々な企業でコンサルタントも務める。著書多数。

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