俳優・映画人コラム

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2020年04月17日

大林宣彦監督追悼:お茶目で反骨、素晴らしき“映像の魔術師”の映画人生

大林宣彦監督追悼:お茶目で反骨、素晴らしき“映像の魔術師”の映画人生




大林宣彦監督が2020年4月10日に82歳で亡くなられました。

大林監督といえば『転校生』(82)『時をかける少女』(83)『さびしんぼう』(85)の尾道三部作などで多くの映画ファンにリスペクトされ続け、また晩年は『この空の花-長岡花火物語』(12)『野のなななのか』(14)『花筐/HANAGATAMI』(17)そして遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(20)と、戦争への激しい怒りと平和への祈りを込めた作品群を連打されていました。

「映画作家はジャーナリストであるべきだ」

大林監督は常にこう言い続け、またそれを実践され続けました。

また自分は“映画監督”ではなく“映画作家”であるとも。それは自主映画からキャリアをスタートさせた彼ならではの「映画を商業主義の商品の域に留めておきたくない」とでもいった反骨の映画愛の顕れでもあったように思われます。

一方で、大林監督作品は常にお茶目で、時にキテレツで、まるでおもちゃ箱をひっくり返したように賑やかな愉しさの中に映画ならではの抒情を醸し出させることに長けていました。

それが“映像の魔術師”とも謳われた所以です……

《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街457》

今回は映画作家であり、ジャーナリストでもあった“映像の魔術師”の素敵なキャリアをしばし振り返ってみたいと思います。

自主映画、CMディレクター
映画業界外監督の先駆者


大林宣彦監督は1938年1月9日に広島県尾道市に生まれ、2歳で映写機のオモチャに触れ、6歳にして35ミリのフィルムに手描きしてアニメーションを作っています(この時期のエピソードを基に、2000年に『マヌケ先生』が作られています)。

一方では戦争の空気を肌で知る世代であり、そこでは死と生が常に隣り合わせであることを、幼いながらも感じ取っていたとのこと。

戦後になるとアメリカ映画に夢中になり、やがて8ミリ・キャメラを手に自主映画制作を本格的に開始。

当時まだ8ミリで映画を撮るという概念は薄く、その意味でも日本における映画の自主製作&自主上映活動の先駆者として知る人ぞ知る存在になっていきます。
(当時は小型映画、個人映画、実験映画、前衛映画などと呼ばれていたようです)

中でも1967年に発表した16ミリ作品『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』は、まさに伝説的作品として今なお語り継がれていますが、ここでうかがえる大林監督の怪奇映画嗜好は、後々の自身のキャリアにも大きく影響しているように思えます。

1960年代なかばからはCMディレクターとして活動。テレビ草創期でCMが映像ジャンルの中で見下されていた時代、大林監督は逆に「コマーシャルを利用して、自分の映画を作ってしまおう!」と積極的に取り組み、ついにはチャールズ・ブロンソンやソフィア・ローレン、カーク・ダグラスら海外の大スターを起用してのCM=大林映画を撮るに至るのでした。

こうした勢いに乗せて1977年、大林監督は初の商業映画『HOUSE』を発表します。まだ日本映画界に撮影所システムが健在で、助監督を務めてから監督に昇進するのがならわしだった時代、製作元の東宝内では多くの反対の声があったとのことですが(皆を説得したのが岡本喜八監督だったとのこと)、結果的に映画業界外の人間が映画を撮るという意味での先駆者になりました。

自主映画、CMディレクター、そして映画業界外から参入した監督と、いずれの分野においても大林監督はその先駆けとして活動していったのでした。

初期作品群への批判と
熱烈なファンの台頭


『HOUSE』はいろいろな意味で衝撃的な映画でした。

避暑で田舎のおばちゃまの家を訪れた7人の少女たちが、ピアノや井戸、布団などに食べられてしまうというファンタスティック・ホラーとしての発想はユニークながらも、その描出は徹底的にポップ&サイケ、出演する女の子たちのキャピキャピ度、音楽は全編鳴りっぱなし、しかも肝心かなめの特撮は合成ラインばればれで、リアル志向の映画ファンからすると「ちゃちい」としか思えないもので、まあ一言で申せば「何じゃ、こりゃ?」といった批評が当時は多数を占めていたと記憶しています。
(公開された1977年は70年代初頭に流行したアメリカン・ニューシネマの影響などもあって、従来のハリウッド映画に顕著だった虚飾を剥ぎ取ったリアルなものが受けていた時代でした)

しかし、これらはすべて大林監督の狙いであり、要はかつてのハリウッド映画のような虚構の再現で、そこから映画ならではの真実を見出していただきたいとする、後に監督の名言「ウソから出たマコト」にも倣った信念の描出なのでした。

この傾向は作品本数を重ねるごとにエスカレートしていき、俳優の演技はどんどん大仰になり、映像のアングルもカッティングも自由奔放。当然、多くの映画評論家や旧来の映画ファンからは「こんなのは映画じゃない」などとバッシングされていきます。

しかし一方で、この時期から大林作品を熱烈に支持する若い映画ファンも徐々に現れ始めていきます。

彼らの傾向として、後に自主映画制作や映画評論などの映画的活動に従事ていく者が多いような気もしますが、何よりも『HOUSE』における自由な映画作りに対して、当時の若い映画ファンたちは新しい映画の時代の到来を期待するとともに、自分たちもその波に加わっていきたいと強く願うようになっていったのです。

またこういった大林監督の資質と可能性にいち早く気づいて『金田一耕助の冒険』(79)『ねらわれた学園』(81)といった怪作(私ら大林映画ファンにとっては快作!)をはじめ、結果的には春樹時代の角川映画で最多6作品を発表させることになった、時の映画界の風雲児・角川春樹プロデューサーの才覚も湛えるべきでしょう。

尾道3部作の好評と
ジャーナリズム精神


大林監督作品が初めてうるさ型の評論家や一般の映画ファンからも高く評価され、今では大林映画の代名詞になって久しいのが、中学生男女の心と体が入れ替わってしまう『転校生』(82)です。

ここで大林監督は映画作家として初心に戻るかのような姿勢で、故郷の尾道を舞台にみずみずしい青春ファンタジー映画を発表しています。

もっとも、それまで大林映画のマジック(毒?)に大いに魅せられていた側としては、ちょっと物足りないものも感じてしまったのも事実で(ただし巷の高評価を傍でうかがいながら、ようやくみんな大林映画を認めてくれたか! といった喜びもありました)、そういったひそかな不満を解消してくれたのが、続く『時をかける少女』(83)でした。

ここには『転校生』に続いて尾道を舞台にノスタルジックな抒情を湛えつつ、映画における少女の魅せ方であるとか、若い俳優陣にわざと棒読みで台詞を言わせるといった仕掛け、いつもながらの合成バレバレで「これは虚構です。即ち映画なのです」と言わんばかりの特撮ショット、かと思うと入江たか子&上原謙なる戦前戦後の名優を印象深く登場させる映画愛、そしてとどめは前代未聞のエンドタイトル(!)と、この時期の大林映画の真の頂点として屹立していると個人的には感じています。

また、その後の『さびしんぼう』も含めたこれら尾道3部作に関して、大林監督は故郷・尾道を町興し的にPRするのではなく、逆に街を商業主義的に発展させることで古き良きものをなくしてはいけないという“町守り”であったと語っています。

だから尾道3部作にはいわゆる観光名所的なものはほとんど映ることなく、尾道の風土ならではのごくごく普通の日常風景をさりげなく捉えています(これは後々の各地で撮影されていく大林作品とも共通する要素です)。

いわゆる地域発展に伴いがちな自然破壊も含む風景の消失は、今でこそ議題として採り上げられることも多いですが、バブル華やかなりし時期にこうした問題提起をいち早く訴えていたあたりに、大林監督の反骨のジャーナリストとしての一面を伺い知ることができるでしょう。

『北京的西瓜』(89)では予定していた北京ロケが天安門事件の勃発で不可能となり、それに対して劇中にわざと37秒の空白シーンを設けたことも、映画作家=ジャーナリストならではの意思表示でした。

アイドル映画に対する映画ファンの認識を大きく改善させてくれたのも、大林監督の功績です。

それまでレベルの低いものとみなされがちだったアイドル映画を、大林監督はアイドル=偶像と捉え、たとえば『ローマの休日』もオードリー・ヘプバーンのアイドル映画であるといった認識で、自作に登場する少女たちを魅力的に描き続け、そこから映画的抒情やら美学やらを発散させていきました。

この志向も商業映画デビュー作『HOUSE』から遺作『海辺の映画館』まで何ら変わることはありませんでした。

1980年代の意欲的姿勢と
その顕れたる作品群


1980年代、大林監督は何と15本もの劇映画を発表するという精力的活動を示していますが、尾道3部作で高評価を得た後も商業主義的映画監督ではなく、実験精神豊かな映画作家としての道を邁進していきます。

そのことに気づかない一部映画製作者らの安易な招聘がもたらした悲劇が『漂流教室』(87)だったようにも思えてなりません。

いくら楳図かずおによる伝説的カリスマ・ホラー漫画を原作にしようとも、大林監督は自分の我を前面に打ち出す作品しか作らない(いや、作れないことをなぜ製作サイドは気づかなかったのか?)。

今見直すと大林作品ならではのニンマリさせられるショットも多々発見できるだけに、なおさら残念な結果ではあります。

80年代には『少年ケニヤ』(84)なるアニメーション映画にも挑戦していますが、そもそも大林監督は「すべての映画は1秒24コマの画で作られたアニメーションである」といったポリシーを持っていて、ここに至って、あのおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかな映像構築の理由がわかった気がしたものでした。

アマチュアのアニメーターを一般公募したり(これに応募したのが奇縁となって、後にアニメ業界入りを果たしたのが細田守監督です)、シーンによって絵のタッチを変えたり、ついには鉛筆画になるといった自由さは、当時尾道3部作を評価していた評論家らに「大林映画は最高か最低のどちらかしかない」とまで批判されましたが、それからおよそ10年後の『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明などがアニメ表現の自由さを実践するようになって、ようやく『少年ケニヤ』も再評価されるようになりました。

戦時中の瀬戸内を舞台にした少年少女たちの群像劇『野ゆき山ゆき海べゆき』(86)はモノクロ版とカラー版の2ヴァージョンが存在するという、これまた実験精神豊かな作品ですが(編集も音楽の入れ方も変えてます)、初見の前は「大林監督が戦争ノスタルジー映画を撮るのか……?」などと思っていた自分は、そのとき彼が広島出身であるという事実に気づいていない愚か者でした。

戦争と大林監督作品という視点で振り返ると、たとえば『HOUSE』からして実は戦争の惨禍を背景にした悲劇とそれゆえの怨念がもたらしたホラー映画であったことが、如実に理解できることでしょう。

つまりは商業映画デビュー作の時点で、既に大林監督はジャーナリストとして反戦を訴えていたのであり、その姿勢ゆえに21世紀に入ってからきな臭くなってきたご時世に危機感を覚えての『この空の花-長岡花火物語』以降の反戦映画群の構築もごくごく当然の成り行きなのでした。

最後までジャーナリストだった
稀代の映画作家


1990年代の大林映画は『ふたり』(91)『あした』(95)『あの、夏の日~とんでろじいちゃん~』(99)の新尾道3部作や『青春デンデケデケデケ』(92)『はるかノスタルジィ』(93)といった高評価作品が連なる安定期ともいえるでしょう。

もっとも個人的には商業映画超大作としての『水の旅-侍KIDS-』(93)や大スター吉永小百合のその時点での魅力を最大限に引き出したと思しき『女ざかり』(94)、安部定事件を慈愛の目で見据えた『SADA~戯作・安部定の生涯』(98)、伝説の映画評論家・淀川長治の子ども時代を通して映画愛を炸裂させた『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』(00)などのほうにシンパシーは傾きます。

そして21世紀に入ると、伊勢正三の名曲をモチーフにした『なごり雪』(02)『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』(07)といった大林流青春歌謡映画の秀作に加え、現代社会においては殺人事件が人の絆を結んでしまう悲しき現実を描いた『理由』(04)、そして何とあの『転校生』をセルフリメイクしてしまうという大胆不敵な、そしてオリジナルとは似て非なる新たな傑作を誕生させた『転校生-さよなら あなた-』(07)などを経て、いよいよ大林反戦映画路線へ突入していきます。

とかく日本の戦争映画は感情的な厭戦映画ばかりで、論理的な反戦映画はないと言われがちですが、大林監督が発表した『この空の花-長岡花火物語』(12)『野のなななのか』(14)『花筐/HANAGATAMI』(17)『海辺の映画館-キネマの玉手箱』(20)はまさに論理を越えた映画的感覚を駆使して作られた反戦映画であります。

『この空の花』に出てくる名台詞「まだ戦争には間に合いますか」を象徴的に、衝撃をもたらす4作品、今これを作らなければ未来は大変なことになるとでもいった危機感に満ちたジャーナリストとしての精神と、映画愛を過剰なまでに発散させ得た映画作家の自由奔放な精神が究極的なまでに融合した傑作として、今の時代、映画ファンを自称する人には必ず見ていただきたい作品であると、こちらも訴えておきます。


特に『海辺の映画館』は予定されていた公開初日の4月10日に大林監督は惜しくも亡くなってしまいましたが、それはまるで「4・10を忘れるな」とでも言わんばかりの、現在のコロナ・パニックに対する現政権などへの異議申し立てでもあるように思えてなりません。

そう、大林監督は最後の最後までジャーナリストでした……。

と同時に、これらの作品群が初期の大林映画ファンにも嬉しく心惹かれるのは、『HOUSE』の頃と共通する実験精神の数々はもとより、どこかしら怪奇映画(ホラー映画と呼ぶよりも、ここではやはり「怪奇」と呼びたい)のテイストを保持していることで、特に『花筐』はまるで怪奇映画のメッカ、英ハマー・プロで撮影してるのではないかと思わされるほどの重厚さと妖しさと血の香りが巧みに同居していました。

ちなみに『海辺の映画館』の主人公の名前は馬場毬男。これは大林監督が敬愛するイタリアのホラー映画監督マリオ・バーバをもじってつけられたもので、実は尾林監督は『HOUSE』以前からこの別名を好んで用い続けていたのです。

戦争の危機を怪奇映画テイストで、持ち前のオモチャ箱をひっくり返すような演出で繰り広げていく大林監督の映画作家としての姿勢もまた最後の最後まで崩れることはありませんでした。

個人的に愛してやまない
大林宣彦監督作品



最後に、余談ではありますが、私が一番愛してやまない大林監督作品は、実は映画ではなく1983年のTVムービー『麗猫伝説』です。

往年の化け猫映画の主演女優が今もなお美貌を保ったまま生きているとの不思議な情報を得た映画会社が新たな化け猫映画を作ろうと目論んだことで、彼女の許に送られた脚本家が遭遇する怪異譚を描いたもの。

いわば『サンセット大通り』の怪奇映画版であり、化け猫映画女優として名を馳せた入江たか子とその娘・入江若葉を二人一役で起用するというオマージュと実験精神を両立させた意欲作です(尾道も出てきます)。

劇中、殺された探偵の口から彼女の主演映画のフィルムが流れ出ていくという、恐怖と悦楽が合わさったかのような名ショットは今も忘れられません。
(演じる峰岸徹は1977年の『瞳の中の訪問者』以降の大林映画の常連であるとともに、大林監督の代弁者的役割を多く担っていました)

この作品は『時をかける少女』が劇場公開された直後の1983年8月30日に火曜サスペンス劇場枠で放映されたもので(その前年にも大林監督は同劇場枠で『可愛い悪魔』なるホラーの秀作を手掛けています)、続いて敬愛する福永武彦の同名小説を原作に姉妹の葛藤を描いた傑作『廃市』(84)が劇場公開されるという、大林作品ファンにとっては蜜月のような時期でもありました。

そしてTVムービーという目線から映画への偏愛を幻想怪奇的に描くこの作品、1998年に劇場公開もされていますが、正直これに関しては銀幕よりもTVで見たほうがふさわしい作品であるように思えました。

自作のカット版がTV放送される際は必ず自ら再編集するなど、メディアの別やそれぞれの特性を常に意識していた大林監督ならではの賜物ともいえるでしょう。

いずれにしましても、今は哀しみを乗り越えて、ただただ「ありがとうございました」とお礼を言いつつ、この機会に大林宣彦監督作品をじっくり堪能し直していきたいと思っています。

(文:増當竜也)

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