20年くらい前、まだSNSなんてなかった時代、あなたはどこで、どんな映画を観て過ごしていましたか?





子どものころ、100円玉を握りしめて駄菓子屋に行ったことがあるだろうか? ビニールの袋に入ったコーラやポカリスエットを模したパチもんの飲料水を飲んだことがあるだろうか? プールの帰りに小さなカップラーメンを買ったことはあるだろうか? それをプラスチックのフォークを使って食ったことがあるだろうか? 小さくて粉っぽいヨーグルトの蓋を舐めたことがあるだろうか?

あるいは中高生のころ、休み時間になると公衆電話に走り、ポケベルにメッセージを送ったことがあるだろうか? はじめて持った携帯電話には、アンテナがついていただろうか? 友人や恋人とお揃いのストラップをつけたことはないだろうか? 3つの音だけで着メロを自作したことはないだろうか? 数十文字しか送れないショートメールでどんな言葉を送ろうかと悩んだことはないだろうか?

あなたがもし、1990年代〜00年代前半に青春を過ごしていたとしたら、何かしらの経験があるのではないだろうか。まだSNSなんてなかった時代、あなたはどこで、何をして過ごしていましたか?

 

と、最近、こんな話をすることが多くなった。



最近、飲み屋で一緒になった人とこんな話をすることが多い。駄菓子やポケベル・携帯などのほかに「懐かしいよねえ」と多く話題に挙がるのは、当時聴いていた/観ていた音楽や映画の話だ。



その作品の筆頭、というか皆が観ていてよく話題に挙がるのは、『トレインスポッティング』と『スワロウテイル』の2本である。ほかにも『Laundry ランドリー』や『鮫肌男と桃尻女』、『バトル・ロワイアル』、『ファイト・クラブ』などがあるが、どれも当時、映画好きでなくとも「スマート」や「CUTiE」、「Zipper」などの雑誌を読んでいた方ならば、これらのタイトルが誌面に踊っていたはずだ。

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思春期に観た映画の話を、同世代の知人とするのは面白い。そして、中身の話以上に観たシチュエーションの話をするのが面白く、空気感がプラスされてエモい。私は「エモい」という言葉はハッキリ言って嫌いだが、こればっかりはエモいのだ。そこはまさに黒歴史という宝が唸るほど埋蔵されている。

トレインスポッティング(字幕版)



例えば私は『トレインスポッティング』を観た後、ベグビー(ロバート・カーライル)に憧れてフレッドペリーのセーターを買った。レントン(ユアン・マクレガー)も好きだったからスキニージーンズも、コンバースのオールスターも購入した。そして、頭のなかで「Choose a life」を復唱しながら無意味に道を走った。

スワロウテイル



『スワロウテイル』を観たときは、「クビキレ」とリョウ・リャンキ(江口洋介)の物真似をずっとしていたし、フェイフォン(三上博史)のシャツがカッコよくて、似た物を買った。何なら髪もちょっとメッシュっぽくした。あと、フェイフォンが釈放された直後のように、やっぱり道を走った。

バトル・ロワイアル



『バトル・ロワイアル』を観たときは、安藤政信みたいなパーマをかけた。当時付き合っていたOLの彼女と観に行ったんだけど、帰りの車中で流れていた矢井田瞳の「my sweet darlin'」に対して、私が「そこはかとなく椎名林檎の剽窃ではないのか?」と切り出したため、戦争になった。ちなみに、劇中最後に縦書き明朝体で「走れ」と出たので、やっぱり道を走った。Dragon Ashの「静かな日々の階段を」を聴きながら。

以下、100も200も黒歴史とは言わないまでも、少々アレな話が続くのだが、何だか恥ずかしくなってきたのでこれくらいでやめておく。

インサイダーズ/内部者たち(吹替版)



と、今はもうアレな歴史を生み出していないような感じで書いたが、実は30代中盤になった今でも、映画に影響されまくって生きている。近年は『インサイダーズ/内部者たち』のイ・ビョンホンを観て鍋ラーメンを食ったし、『ブレードランナー 2049』を観て、サントラを爆音で流しながら雨が降る夜の新宿3丁目を彷徨った。そういえば、『T2 トレインスポッティング』を観た後もやっぱり走った。

T2 トレインスポッティング (字幕版)



 

黒歴史は恥ずかしいのでこれくらいにするが



これら、シチュエーションやエピソードを添加した映画話を「話し合う」ことは、小難しい顔をして感想を話すよりも、真面目に書いたレビューよりも何倍も面白い。念のために書くが、リアルタイムで観たからどうこうという話ではまったくない。

しかし、上記のような話はネットではあまり語られないように思える。なぜか。対象になる映画はもう語り尽くされているし、昔の作品を今更語っても仕方がない側面もあるだろう。

もう少し感情的に考えるならば、今更感の根底には「ちょっと恥ずかしい」気持ちがある。好きなものを正面切って「好き」というのは、なかなか勇気がいるもので、例えば映画や音楽ならば「これを出したらニワカだと思われるんじゃないか」「否定されたらどうしよう」なんて、被害妄想も甚だしいが、ついそんなことを考えてしまう人って、意外と多いのではないだろうか。そしてここ10数年ほど、言うに恥ずかしき映画の筆頭は『トレインスポッティング』であったように思えてならない。

「そんなの人によってだろう」と言うなかれ、SNSの発達はそれを大いに補強した。Twitterはもちろん、映画レビューサイトで誰しもが情報を発信し、星をつけ、長大と呼ばれるにやぶさかではないレビューも珍しくはなくなった。自分が大好きな映画の感想文を楽しみながら書いただけなのに、ワキが甘けりゃいきなり知らない人間から「お前は間違っている。何もわかってない」と突っ込まれる。何なら読んでもいないのに突っ込まれる。

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考えてもみて欲しい。もし飲み屋であなたが友人と映画の話をしていたら、三席くらい向こうにいたオッサンが『コヨーテ・アグリー』のごとくカウンターの上を練り歩きながらこちらへ近づいてきて「横から失礼。お前らの言っていることは全部間違っている。俺の話を聞け」と話しかけてきたらどうなるか? しかもそのオッサンは「バイブレーター田村」とかいう意味不明なハンドルネームを名乗り、なおかつ全裸である。こちらが無視しても「そもそもこの作品はそんなこと言ってない」だの何だの延々と耳元で喋り続けられたならば、誰しもが自衛をするしかない。

そんな世界になった結果どうなったか? 誰もが上手く書かなければといった呪いに囚われている。「わかりやすく書く文章技術」だとか「人に伝わりやすい文章を書きましょう」などというマニュアルが氾濫した結果、皆同じような文章になってしまうという、ネット批評/感想という冥府魔道、つまり最も無法で、個性を発揮できる場所で、没個性になってしまうといった状況を生んでいる。

私たちは、好きな映画や音楽の話をもっと自由にしていいのではないか、上手に書けなくても、話せなくても、好きなものは好き、面白いと思ったものは面白いと、馬鹿みたいに表明してもよいのではないか。さらに言ってしまえば、間違った知識を、記憶をもとに語っても、別によいのではないか。

私たちは子供のころ、映画の話をもっと適当に、楽しみながらしていたはずだ。

自分のことばかり話すという、映画話としては完全に失格な話に終始してしまったが、中年男性の繰り言だと思って笑っていただけたら嬉しいし、あなたのエピソードもぜひ知りたい。

今から20年くらい前、まだSNSなんてなかった時代、あなたはどこで、どんな映画を観て過ごしていましたか?


 
(文:加藤広大)

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