『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』猿たちが磔にされたX字型の十字架の意味とは?



(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation



往年の名作SF映画『猿の惑星』の世界を見事に現代に蘇らせ、内容的にも高い評価を受けているリブート版『猿の惑星』シリーズ。その3部作完結編となる『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』を、今回は公開2日目夜の回で鑑賞して来た。

今回はついに、地球が猿の惑星と化したその理由が判明するとあって、公開前から映画ファンの間でも期待が高かった本作。果たしてその結末とは、いったいどんな物だったのだろうか?

予告編


ストーリー


猿と人類の全面戦争が始まってから2年が経ち、シーザー(アンディ・サーキス)が率いる猿の群れは、森の奥深くの砦に姿を隠していた。ある日、奇襲によってシーザーの妻と息子の命が奪われる。シーザーは人類の軍隊のリーダーである大佐(ウディ・ハレルソン)に復讐するため、オランウータンのモーリス、シーザーの頼れる片腕のロケット達と共に旅立つ。旅の途中、謎の少女ノバと出会い、一緒に旅を続けることになる一行だが、果たして彼らの先に待つ運命とは?


遂に地球が猿の惑星に?人間と猿を分けていた物とは何だったのか?


原題の「WAR」という言葉から、てっきり猿と人間との前面戦争が勃発し、地球の所有権を賭けた激しい戦いの連続!

そんな内容を期待して鑑賞に臨んだ本作だったが、実際は全く違っていた!最終章としてただ物語のスケールを拡げるのでは無く、反対に登場人物たちの内面に深く踏み込んだ作品となっていたからだ。

確かに公開前から「途中から西部劇っぽくなる」という批評や感想を目にしていた本作だったが、意外にも映画は中盤からシーザー個人の復讐の物語となって行く。妻と息子を殺されたシーザーが馬に乗って復讐の旅にでる展開や、旅の途中で仲間が増える様子などは、確かにクリント・イーストウッド監督・主演の西部劇『アウトロー』を、シーザーが次第に暴力の世界に入り込んで行く様は、同じくイーストウッド後期の名作『許されざる者』を思い出させる。

前作で対立した、コバとシーザー。この両者を善と悪に分けた重要な部分、それは人間と過ごした幸福な時間と、愛情にあふれた思い出にあった。人間への憎しみに囚われ、怒りと暴力に取り憑かれて道を誤ったコバ。だが。妻と息子の復讐に囚われ仲間の命さえ危険に晒している自分は、コバと同じではないのか?そんな思いがシーザーを苦しめる。

度々幻覚として現れるコバと同一化した様に、己の個人的な復讐のため次第に暴走するシーザー。その結果、仲間たちを最大の危機に巻き込んでしまい、自身も捉われの身に!

物語が進む中、次第に明らかになる人間と猿とを分けていた「言葉」という重要な要素。それが人間から失われようとしている中、果たして両者の関係はどう変化し、また決着するのか?その結末は是非劇場で!



(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation




印象的に登場するX字型の十字架、その重要な意味とは?


本作の見所は、なんといってもCGということを完全に忘れそうなシーザーの存在感だが、その他のキャラクターも実に魅力的!コメディリリーフとして登場する「バッド・エイプ」はもちろん、裏切って人間側に付いた猿たちにも、ちゃんと見せ場が用意されているのはさすがだ。

中でも特筆すべきは、今回悪役の大佐を演じたウッディ・ハレルソンの素晴らしさ!過去の悲しみに囚われて狂気の行動に出る男でありながら、そこには単純な悪役・狂人では納まりきらない複雑な内面が存在する。

最初は単なる愛国者か差別主義者と思われていた彼の深い悲しみと、人類に対するある絶望的状況が語られる時、実は彼もシーザーと同じなのだということが観客に明らかになる展開は見事!

実は本作の大佐のキャラクターは、その登場シーンや特異な外見といい、『地獄の黙示録』のカーツ大佐を思わせるのだが、その他にも、ノバがシーザーに水を飲ませるシーンに映画『ベン・ハー』が重なるなど、本作の中盤以降には様々な宗教的イメージが散りばめられている。

その中でも印象的なのが、シーザーたちが磔にされるX字型の十字架だ。度々登場する特徴的な形のこれらの十字架には、実は宗教的に重要な意味がある。

この2本の梁を斜めに組合わせたX字型の十字架は、別名「聖アンデレの十字架」と呼ばれており、使徒「聖アンデレ」が、晩年捕えられて十字架に磔られることになった際、「恐れ多いからイエスさまの十字架と違った斜めの十字架にして下さい。私には主イエスさまと同じ十字架につく資格がないのですから」と申し出て磔になったことに由来する、とされている。そのため、以来この十字架は、『不実な者への天罰』と『誠実な者への救い』を象徴する、聖アンデレのシンボルとなっている。

つまりこの十字架は、猿ごときにキリストと同じ十字架なんぞ畏れ多い、という大佐側の意図と、実はシーザーが仲間を救うために殉教するということも暗喩しているのだ。その他にも「鞭打ち」や「高い壁の建設」「疫病」など、宗教的な引用やモチーフは他にも本作に含まれているので、興味が沸いた方は是非この部分にも注目されてみては?



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最後に


注:一部ネタバレを含みますので、未見の方はご注意下さい。

長期に渡るシリーズの完結編として、期待を裏切らない素晴らしい結末を見せてくれた本作。シリーズを重ねる毎にグダグダになっていく作品も多い中で、CGが見せ場のアクション大作で終わること無く、最終的に壮大なドラマに仕上げたその志の高さには、頭が下がる想いだ。

この完結編で遂に明らかになるのは、今回の『猿の惑星』三部作が実は「言葉」を巡る大河ドラマであったということ。

人間が持っていた「言葉」というコミュニケーション能力。それを猿が手に入れたことで、本来両者の間に対話と意志疎通が実現する未来が待っているはずだった。ところが、言葉を喋る猿に対する人間の恐怖・敵意から両者は対立。二作目で描かれた言葉を喋る猿同士の対立を経て、この最終章で迎えるのは、猿と言葉を失いつつある人間がついに心を通わせる瞬間だ。

そう、あれほど互いに憎み合い敵対していたシーザーと大佐が、最後の瞬間に心を通じ合えたのも、言葉を介したコミュニケーションが成立しない状況下でのこと。
果たして、シーザーが復讐を思い止まったのは何故なのか?憐れみか、それとも大佐の中に自身の姿を見たせいか?その部分の解釈だけでも、映画鑑賞後に様々な意見の交換が出来るに違いない。

更に原題の「WAR」が意味する戦争が、実は人間と猿との戦闘では無いことが判明する終盤の展開には、実に深い意味がある。

やがては自然に絶滅する運命の人間同士が取る、そのあまりに愚かな行動。ラストで押し寄せる人間側の軍隊が全員黒いマスクを被っていて、その表情や個性が全く見えない画一化された集団に見える描写は、猿たちが表情豊かで個性的なのと好対象を成す。そう、もはや人間側が動物の群れと化している様にしか見えないのだ。

「猿は猿を殺さない」、同族同士で殺し合わないという、その基本的で重要なルールさえ守れない人間は、もはや猿に次世代を明け渡さなければならない程の愚かな存在となってしまったのだろうか?その答えは、ラストのノバの姿に示されていると言えるだろう。

一つの種族の衰退を描きながら、ついに種族間の違いを乗り越えた新しい未来を予感させるラストに着地させた本作。確かに、ここから主人公を変えて次のストーリーへと繋ぐことも可能なのだが、まずはこの壮大な三部作の完結に拍手を送りたい。

コバとの過去の因縁が大きく関わってくるので、前作『猿の惑星:新世紀(ライジング)』を見返してからの鑑賞がオススメです!

(文:滝口アキラ)

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