インタビュー

2016年05月23日

日本映画の企画・製作について語り合う—前篇−
 塩田明彦×斉藤守彦対談


日本映画の企画・製作について語り合う—前篇−
 塩田明彦×斉藤守彦対談



面白い映画よりも、共感ばかりが求められる時代。


塩田 以前斉藤さんが書いた「80年代映画館物語」だったかな。ジブリの宣伝について、惹句をめぐる変遷を書かれていて、ビジュアルについて「飛翔するイメージから別のビジュアルに変わっていった。非日常の見世物感から、日常的で共感出来るものに変わっていった」とあるんですが、あれはまったくその通りで、今や宣伝の問題だけじゃなくて、なにより共感出来る題材を映画にしないといけないという意識が、業界に強い。

斉藤 それは監督にも求められますか?

塩田 もう圧倒的に求められます。すぐ「これのどこに共感出来るの?」という言い方をされます。「どこが面白いの?」ではなく。あるいは、これは差別するんじゃないんですが、女性の脚本家志望者に多いんですが、自分が今考えていることを書けば、共感してもらえるんだという。共感はともかく、それは話として面白いの?三十路の、結婚に迷っているOLの話もいいんだけど、その何が面白いの?と聞くと、「今の私が感じていることは、世の中の女性みんなに共感してもらえると思う」と。

いや、男性客もいるんだし、何が面白いの?でも面白いかどうかに対しては、ポカンとされる。本来映画って、「こんなヤツ、いて良いのか?」という人間に泣かされたり笑わせられたり、ほろりとしたりする。そうじゃなくて、この人は映画以前にそもそも共感出来る人である。この共感出来る人が、最後までいかに共感出来るかが大事って風に、お話の作り方も変わってきているんですよ。なんでなんだろう。ちょうどジブリの宣伝が変わっていって、かつては一斉を風靡した東和やヘラルドのエログロ・ゲテモノ路線の新聞の宣伝もとっくの昔に機能しなくなって、あれはいつから、というか何でああいうことになっていったんだろう?

斉藤 僕はざっくりと分けていますけど、シネコンが力を持つようになってから。それまでのお客さんは、映画に対して憧れがあった。これが共感に代わったんだと捉えています。

塩田 シネコンですか、やっぱり。

斉藤 シネコンがというより、スクリーンが増えたことですね。シネコンによってスクリーン数が増えた国って、必ずローカル・ムービー、つまり自国の製作映画が強くなるんです。かつてのイギリスがそうでした。イギリスでシネコンが増えた時に作られたのが「ビーン」であったり「フル・モンティ」でした。それは日本も同じで、日本映画のシェアがぐっと高まったわけです。映画館が身近になった。これは凄く良いこと。今、女性に聞いても「映画館に行くのに、そんなに念入りにお化粧しない」と言う。ショッピング・センターの上の階ならば、買い物の途中に行ける。それは映画が身近になったことですから、素晴らしいことだと思うんですが、今、僕がシネコンに行って、一番おかしいと思うのはお客さんの、映画を見る姿勢だったりします。

塩田 うん、うん。

斉藤 映画に敬意を払っていない。映画を上から目線で見ている。テレビドラマと同じような感覚で見ていて、「共感したか」どうかだけが、映画を評価する基準になってしまっている。「スポットライト  世紀のスクープ」のような映画を「この映画は、共感出来ないからダメ」の一言で切り捨ててしまう、その姿勢は何なんだ。本来共感というものは目指すべきものではないと思います。生み出したストーリーの中に「このキャラクターは共感を呼ぶね」と評価されることはあっても、そのことを目的にしてしまうと、お話が崩壊しちゃうんじゃないですか?

塩田 そうなんです。だから結果的にレクター博士に共感出来るのが映画なんですが、じゃあ映画を作る時、「このレクター博士って、共感出来るんですか?」と言われたら「出来ないよね」で終わってしまう。出来ない者に共感出来る瞬間が、映画にはあるんだけど、それこそは面白い瞬間なんだけど、今の言葉でいう「映画として共感出来る」のとは別。それが世の中の企画の立ち上がりを狭めていると思います。

[amazonjs asin="4800306981" locale="JP" title="映画を知るための教科書1912~1979"]

(後篇に続く)



(採録・構成・文:斉藤守彦)

塩田明彦監督プロフィール


1961年9月11日、京都府生まれ。

立教大学在学中より黒沢清、万田邦敏らと共に自主映画を製作。82年「優しい娘」が「ぴあフィルムフェスティバル」に準入選、翌年「ファララ」が入選し、広く注目を集める。大学卒業後、黒沢清作品を中心に助監督として参加。
その後は企業用VP等を数多く演出する一方、監督/脚本家の故・大和屋竺のもとで脚本を学び、91年脚本家として独立。

96年、オリジナルビデオ「露出狂の女」を監督。劇場公開作品としてのデビュー作『月光の囁き』は、98年度「新人監督の製作活動に対する助成」(財団法人東京国際映像文化振興会運営)対象作品に選出され、ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭では、審査員特別賞と南俊子賞をダブル受賞。99年公開された『どこまでもいこう』ではナント三大陸映画祭審査員特別賞を受賞。00年、デジタルビデオ作品「ラブシネマ」シリーズ第5弾『ギプス』を監督。ドラマ「あした吹く風」(01/BS-i)では、小学生の女の子を主人公に昭和の家族をあたたかく描写してみせた。

つづく『害虫』(02)は、01年第58回ヴェネチア国際映画祭「現代映画部門」正式出品、ナント三大陸映画祭「コンペティション部門」で審査員特別賞、主演女優賞(宮崎あおい)をダブル受賞する。
そして『黄泉がえり』(03)は、当初3週間限定公開の予定だったが、興収30.7億円をあげる大ヒットとなり、3ヶ月を超えるロングラン興行となった。引き続き2005年にはインディペンデント映画「カナリア」と、「黄泉がえり」と同じ梶尾真治原作の「この胸いっぱいの愛を」を監督。

2007年に公開された、製作費20億円を投じた大作「どろろ」は、国内だけで興収34.5億円と「黄泉がえり」を上回る大ヒットを記録。その後2014年には「抱きしめたいー真実の物語−」を監督。2016年冬に公開が決定している「日活ロマンポルノ・リブートプロジェクト」では4人の監督と共に日活ロマンポルノに挑戦した。
また映画監督の傍ら、映画美学校で講師を行っている。著書に「映画術・その演出はなぜ心をつかむのか」、「映画の生体解剖×映画術:何かがそこに降りてくる(稲生平太郎、高橋洋との共著/電子書籍)がある。

無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。

無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。

RANKING

SPONSORD

PICK UP!