高畑勲『火垂るの墓』を読み解く3つのポイント


2:清太は現代の青少年にそっくりだった? 


太平洋戦争時の日本では、お国のために一致団結すること、戦争に懐疑的な者を非国民として非難するなど、抑圧的な“全体主義”がまかり通っていました。

清太がお世話になるおばさんの「お国のために働いている人らの弁当と、1日中ブラブラしとるあんたらと、なんでおんなじや思うの」といった言動の数々は、まさに全体主義そのものです。それは正論でもありますし、当時ではなんら特別なことではなく、むしろ寛大なほうであったと言ってもいいのかもしれません。節子と2人だけで壕で暮らそうとする清太の行動は、その全体主義から反旗をひるがえすものとも言い換えられるでしょう。

高畑勲監督は、そんな清太を現代の青少年たちと似たところがあるとも考えていたようです。「現代ではデジタル機器が発達し、わずらわしい社会生活から離れ、ある程度は自分の世界にこもることも可能になった」「そのような時代であればこそ、清太の心情がわかりやすいのではないか」などと。たしかに、清太の行動は現代のひきこもりやニートの若者に通じるところもあるのかもしれませんね(完全に同列で語るべきではないでしょうが)。

思い返せば、清太の周りには優しい大人たちもいました。お向かいのお姉さんは「何かできることあったら言うてちょうだい」「うちら2階の教室やねん、みんな居てるから来えへん?」などと清太に話しかけていていましたし、ワラをくれたり、貴重な七輪を売ってくれるおじさん、盗みで突き出された清太の事情を顧みてくれる駐在さんもいました。しかし、清太はそのような大人たちを本気で頼ろうとはせず、“社会的なつながり”を自ら放棄しているようにさえ見えるのです。

現代では、子供が社会的なつながりを断っても何とか生きてはいける、そういう選択肢も取れるようになっています(そうではないケースももちろんありますが)。しかし、満足に栄養が取れず、情報も少なく、何よりも現代よりもはるかに強い全体主義がはびこっている戦時中では、そうもいきません。

まとめると、高畑監督は兄妹だけで小さな家族を作ろうとしている清太に、社会的なつながりをわずらわしく感じる現代の若者との類似性を見だしているということ。しかし、戦時中ではその社会的なつながりを廃して、兄妹だけで生きることは叶わなかった……それこそに悲劇があるとも言えるのです。

そう考えると、本作『火垂るの墓』で訴えられていることは、戦争という出来事そのものへの批判ではありません。全体主義および、その正反対の行動といった、一方的で極端な考え方こそが生きることを困難にしてしまうという、人間の社会に普遍的に存在する恐ろしさにあるのではないでしょうか。



 © 野坂昭如/新潮社,1988




3:ラストシーンの意味とは?



本作のラストシーンは、ビルが立ち並ぶ現代の神戸の街を、赤く染まった幽霊の清太と節子がただ眺めているというものです。このラストはどのような意味を持つのでしょうか。

それを読み解くために重要なのは、主人公の清太の死から始まり、時間が巻き戻り、節子とともに第三者のような目線で生前の自身たちの姿を見続けていくという特殊な構成です。つまり本作の物語は、死んだ清太と節子が幽霊になって時間が戻り、また死んで幽霊となって時間が戻る……という永遠のループに巻き込まれているのです。

その清太と節子がそのループを幾度となく繰り返した結果、何十年という時が経ち、神戸はビルが立ち並ぶ現代の街へと変わっていったのでしょう。しかし、同じ時間に居続ける清太と節子はその街を見ること“しか”できません。彼らは何も現代の神戸に影響を及ぼすことはなく、ただただ同じ時間の“煉獄”に閉じ込められている……なんという悲劇でしょうか。

物語の見方を変えれば、「たとえ刹那的でも、一緒に暮らすことができた清太と節子は幸せだった」とも捉えることができます。節子が死んだ後に、彼女が楽しそうに壕で遊ぶ姿を“幻”のように見せるシーンも、清太と節子の幸福であった時の記憶を切り取っていると言っていいでしょう(その時に「埴生の宿(原題:Home, Sweet Home)」が豪華な屋敷の蓄音機から流れるのが切ない……)。

しかし、『火垂るの墓』はその刹那的な幸せをも、死してからも同じ苦しい時間を味わい続けるしかない煉獄をもって、真っ向から否定します。事実、高畑勲監督は「死によって達成されるものはなにもない」という考えがあったそうで、苦しい体験を繰り返している2人の幽霊を指して「これを不幸といわずして、なにが不幸かということになる」とも語っています。

この高畑監督の物語への姿勢は、恐ろしく感じると同時に、誠実であるとも思います。誰かの死はただただ悲劇であり、それによって“救われる”ことをよしとはしない。つまり「死んでよかった」ということは何1つとしてない、としているのですから。




 © 野坂昭如/新潮社,1988



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