『リバーズ・エッジ』が観る人を惹きつける4つのポイント
2018年2月16日(金)より、劇場公開中の『リバーズ・エッジ』。
原作は岡崎京子さんの同名漫画で、リバーズ(川)のエッジ(縁)に立たされたような、閉塞感があって危なげな90年代の高校生たちを描いた作品です。
(C)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
高校生のときに原作を読んだという主演の二階堂ふみさんが、今作の監督を務めた行定勲さんに実写化を提案したのだとか。その覚悟や意気込み、気迫のようなものは、映画を鑑賞すればすべてのキャストから感じ取ることができます。
けれども、今の若者、つまり平成世代がこの作品をどう感じるか、現代とどう通じているのかを論じるのは、さほどの意味を持たない気がしました。
二階堂さんがインタビューで「初めて原作を読んだときと、(撮影時に)読み返してみたときでは所感が違う」と話していましたが、まさにその通りではないでしょうか。
若者と言っても、年齢によって経験や精神面に大きな違いがあると思います。現在22歳の筆者にとって、『リバーズ・エッジ』における空気感は確かにあったかもしれないけれど、それはすでに過去の感覚です。自分の今と重ね合わせた時に、切実さはありません。
だからこそ、この作品の恐ろしさは、まさに筆者と同世代、20歳を超えたキャストが切実に、ときに残酷に、役と自身を重ねながら演じたことにあるはずです。そのための工夫がたくさん散りばめられていました。そこで、今作でキャストが光った要因を紐解いていきたいと思います。
行定監督の時間を逆転させる演出
(C)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
行定勲監督は、近年『真夜中の五分前』(2014)、『ピンクとグレー』(2016)、『ナラタージュ』(2017)などの作品を手がけています。ほかにも、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)、『クローズド・ノート』(2007)などの人気作があります。
特徴的なのは、時間の描き方です。「これは何だろう」と思わせる場面が冒頭に登場し、終盤で結びつく構成が多いです。オリジナルではなく、原作のある作品も多数監督されていますが、原作にはない時間の流れを演出しています。
今作も同じ手法ですが、特に今回は「これは何だろう」の場面がとにかく不気味に出現します。原作を知っている人は、それが何を示していたのか想像できると思いますが、不気味さを頭の片隅に置きながら作品を見るからこそ、余計に登場人物たちが歪に見えることに繋がっているのではないでしょうか。
原作にはなかったインタビュー場面
(C)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
物語とは別に、要所に登場人物のインタビュー映像が組み込まれています。これは原作にはなかった部分です。
キャストのみなさんは役として受け答えをしているのですが、”お芝居”という感じはありません。実際、事前にある程度の返答を決めておきながら、詳細はキャストに委ねられたそうです。
演者自身なのか役なのかと惑わされる部分でもありますが、観客を置き去りにすることなく、90年代という時代感が先行しすぎることなく作品の世界に入り込みやすくなっています。
さらに、主人公ハルナを演じた二階堂ふみさんへのインタビューは劇中に2度出てきますが、撮影時には90分ほどカメラを回し続けたそう。作品の核心にあたる部分が、物語のなかで暗に示されるのではなく、ハルナのインタビューによって明確に言葉にしたことが印象的でした。
描かれなかった大人たち
(C)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
原作、映画ともに、親や教師などの大人がほとんど登場しません。
『リバーズ・エッジ』で描かれているのは、単に時代に沿ったリアルな高校生というだけでなく「大人には絶対に見せることのない顔」である象徴のように感じました。
過激で刺激的な日々ではありましたが、決して特別な数日間を描いたわけではなく、けれども大人たちが立ち入ることがないという点で特別であるという両立のために、余分な情報を最小限に抑えたのではないでしょうか。
筆者は『リバーズ・エッジ』のなかでも、最もストレートに今の時代に通じる部分だと思いました。親だからこそ言えないこと、見せられない部分、対教師においても、たくさんある面(顔)のひとつでしかなく、見せていない部分があることが表されていたと思います。
スタンダードサイズの余白
(C)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
鑑賞すると「スクリーンが小さい」と感じた人も多いはずです。
今回はスタンダードサイズが用いられ、横4に対して縦3の比率になっています。最近は、シネマスコープと呼ばれる2.35:1や、ワイドスクリーンの16:9が多いです。
なぜスタンダードサイズにしたのか、様々に議論が起こっている部分ですが、閉塞感の表現と、描かれなかった部分への想像が重要になる作品だからでしょうか。
二階堂ふみさんが出演していた映画『何者』(2016)に、140字の制限があるtwitterを例にして「ほんの少しの言葉の向こう側にいる人間そのものを、想像してあげろよ」というセリフがありますが、まさにコレだと思います。
90年代と同じではない、現代だからこその不自由さと閉塞感が、スタンダードサイズにすることによって提起されていました。映画『リバーズ・エッジ』をいかにして受け取るのか、私たちは試されているのかもしれません。
登場人物がみずみずしく映っていた『リバーズ・エッジ』
(C)2018「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社
キャストそれぞれの気合いや覚悟は言葉で推し量るよりも、実際にお芝居を観た方が良いですが、気迫の演技を支えた、いくつもの工夫がありました。これらが効果的に作用していたからこそ、登場人物がみずみずしく映っていたのではないでしょうか。
そして、原作を読んだときから感じていましたが、この高校生たちを俯瞰でしか見ることができない自分に焦ります。大学生(あるいは社会人)になっても悩みや焦りは尽きないものですが、中高生のそれとは圧倒的に違うことをこの作品で痛感させられました。
私の高校卒業時に、国語の教師が「できることも増えるけど、できないことも増える」というメッセージを生徒に送っていましたが、今になって、物理的、身体的なことに限らず、精神的な面でも大きな変化があるということだったのかと気づきました。
今の中高生にはリアルに映るかもしれないし、私のように過去に新たな気づきを見い出して傷つく人もいるかもしれません。でも、「中高生の感覚がわからないなら、観なくていい」とはならない作品です。
劇場で、スタンダードサイズの余白に思いを巡らせることで、観た人それぞれが意味や意義を考えることになるでしょう。
(文:kamito努)
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