『るろうに剣心 京都大火編』3つの映画独自の表現・魅力!
(c)和月伸宏/集英社 (c)2014「るろうに剣心 京都大火」製作委員会
『るろうに剣心 京都大火編』は1990年代に絶大な人気を得たマンガ「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」の実写映画化作品の第2弾であり、続く『るろうに剣心 伝説の最期編』と合わせ2014年に2部作として連続公開されました。原作への確かなリスペクト、壮絶なアクション、精巧な美術、俳優陣の熱演など、すべての要素がハイクオリティーであり、日本映画・マンガの実写映画化作品として金字塔を打ち立てたとシリーズと言えるでしょう。ここでは、原作マンガとは異なる“映画独自の表現”、平和を願う主人公との対比になっている“悪役の価値観”を中心に、作品の魅力を振り返ってみます。
※以下、『るろうに剣心 京都大火編』の内容に少しだけ触れています。核心的なネタバレはありませんが、予備知識なく観たい方はご注意ください。
1:“これからの平和な時代”は冒頭で示されていた!
作中の時代設定は徳川幕府が滅び、明治維新がなった後の“これからは平和が訪れるはず”の時代です。幕末の動乱が過去のものとなりつつあること、未来への希望があることは、冒頭でしっかり示されていました。
(c)和月伸宏/集英社 (c)2014「るろうに剣心 京都大火」製作委員会
何しろ、主人公の剣心たちは“人斬り抜刀斎”をパロディ化した芝居を鑑賞して、楽しそうに笑っているのですから。言わずもがな、人斬り抜刀斎とはかつての剣心の姿であり、人をさんざん斬り殺してきた存在。その罪と業を背負ってきた存在でさえも、コミカルな喜劇として半ばフィクショナルに表現されるようになっているのです。しかも、剣心たちが街にひとたび出れば、そこはたくさんの人に溢れ、楽しそうな活気に満ち満ちていました。
ナレーションや言葉でくどくどと説明することなく、幕末の激烈で混沌とした時代の記憶は風化しつつあること、明治という新時代の息吹と人々の活力が世に現れていることを、画としてはっきりと、しかも簡潔に見せていることが『京都大火編』の大きな美点と言えるでしょう。
2:志々雄真実が“地獄にいる”オープニングが秀逸だ!
前述した“これからは平和が訪れるはずの時代”と相対するように、志々雄真実という強烈な悪役が“地獄”にいるオープニングの光景は鮮烈に描かれています。
(c)和月伸宏/集英社 (c)2014「るろうに剣心 京都大火」製作委員会
大友啓史監督はこのオープニングの美術を「本当に志々雄の思う灼熱地獄を再現したい」「日本絵巻にあるような地獄を再現したい」とオーダーし、美術班がその期待をはるかに上回るクオリティに仕上げため、監督は度肝を抜かれたのだとか。しかも、このオープニングは撮影が始まって5ヶ月後、監督およびスタッフの知恵も体力も尽き果てたころに作り上げられたそうで……スクリーンからも、美術班の執念が伝わってくるかのようでした。
その志々雄の価値観は、平和を願う主人公の剣心とはまさに正反対。「幕末の動乱の時代に時計を逆戻りさせる」ことを目的とし、“弱肉強食”の信条をもって、“今を平和に生きてきた人”が無残に死ぬこともいとわない……“これからは平和が訪れるはずの時代”から逆行し、それを潰そうとしているような存在なのです。(志々雄が剣心のことを“先輩”と呼ぶのも、剣心がかつて“人殺し”として自身より先出ていたことを“新しい時代になっても忘れない”ということの皮肉でしょう)
その志々雄の強烈なキャラクター性を、“地獄から生まれ出たかのような”オープニングの美術で見せるということもまた、映画独自の大きな魅力になっています。剣心が守ろうとしている新しい時代の平和がどのようなものか、それを壊そうとしている志々雄がどのような世界(地獄)にいるか、その対比構造が画として存分に表現されているのですから。
ちなみに、本作で見事な手腕を発揮した美術監督の橋本創は、以降も『ライチ☆光クラブ』や『秘密 THE TOP SECRET』や『HiGH&LOW THE MOVIE』シリーズなどで、日本映画とは思えないほどの“異世界”を作り上げています。合わせて観てみると、その卓越した手腕がはっきりとわかるでしょう。
3:四乃森蒼紫が剣心を狙う理由が変更されていた!
志々雄真実とは別の価値観をもって行動する悪役として、四乃森蒼紫という“一匹狼”なキャラクターも本作から登場します。彼の基本的な設定は原作マンガから踏襲されているものの、修羅に堕ちてしまう(剣心の殺害を目的とする)理由は原作から変更されていました。
(c)和月伸宏/集英社 (c)2014「るろうに剣心 京都大火」製作委員会
四乃森蒼紫はポスター左下、伊勢谷友介が演じる。
原作マンガでは、青紫は剣心と闘った後に目の前で(剣心のせいではないですが)部下を失っています。一方で、映画では幕府に仕えていた部下が結局は活動させてもらえなかったばかりか、その幕府に口封じのために殺されてしまった、とされているのです。剣心を殺す直接的な理由は“部下の墓前に最強の2文字を添えるため”で変わらないものの、映画のほうが(部下が殺されてから剣心を狙うようになったという点においても)“八つ当たり”のような印象が強くなっている、と言ってもいいでしょう。
この蒼紫の行動も(志々雄と同様に)、未来の平和を願い、不殺(ころさず)の誓いを立てた剣心とは正反対です。何しろ、蒼紫は理不尽ともいえる理由で(“過去”では最強であった)剣心を付け狙うようになり、かつての仲間であった者をも殺そうとしているのですから。原作からの変更は賛否両論がありそうですが、タイトに蒼紫の過去の出来事を描くことにも成功していますし、その行動の理不尽さが強まったことで、彼がいかに悲劇的かつ“壊れた”人物であることを示しているかのようでもあるので、筆者は肯定したいのです。
『るろうに剣心』の原作マンガでは、明治維新がなった直後の時代を描くことで、それより前にあった混沌とした争いに身を置かなければ生きてはいけない者(=悪人)もいること、その悪人には悪人になるだけの理由があることが丹念に描かれています。映画の1作目ではその“争いがあった時代の引きずり”はそれほど大きくはクローズアップされていなかったのですが、今回は志々雄真実と四乃森蒼紫という2人の悪役が明確に示すようになっているのです。大きなスケールアップが図られたとしても、そこをおろそかにしない人物描写や原作へのリスペクトは、賞賛されてしかるべきでしょう。
おまけ:『龍馬伝』との共通点もあった!
大友啓史監督は、2010年に放送された大河ドラマ『龍馬伝』ではチーフ演出を務めていました。「『るろうに剣心』の物語のテーマに着目すると、僕が『龍馬伝』などでずっとやってきた“侍の生き方”というテーマにつながるような気がした」とも大友監督は語っており、ある意味では『龍馬伝』と映画『るろうに剣心』は“地続き”なところもある作品とも言っていいでしょう。
事実、『龍馬伝』は幕末(それ以降の明治初期)という時代背景はもちろんのこと、佐藤健が伝説の人斬り(実在の人物である岡田以蔵)を演じているなど、映画『るろうに剣心』との共通点が多い作品です。両者を合わせて観ると、士農工商という身分制度が崩れ、廃刀令が言い渡されて侍の居場所がなくなってしまいつつある“時代の移り変わり”をより感じられるのかもしれませんね。
また、『京都大火編』 のラストシーンは、『龍馬伝』を観ていた方へのある種のサプライズとも言えます。“彼”の正体は次週放送の『伝説の最期編』を観ればわかることですので、ご期待ください。
(c)和月伸宏/集英社 (c)2014「るろうに剣心 京都大火」製作委員会
まとめ:『るろうに剣心』は日本映画の転換点であり、伝説となった作品だ!
映画『るろうに剣心』シリーズは、1作目では“ピンチになった道場を救う”というシンプルな物語を主軸とし、続く2部作で国家転覆を企む悪との戦い(しかも原作マンガでもっとも人気のあったエピソード)を大ボリュームで描くという構成もエポックメイキングであったといえるでしょう。その過程において、これまで挙げてきたように、“主人公が願う平和”と“悪役が修羅に堕ちた理由”が映画独自の表現で対比的に描かれているのが見事! 日本映画とは思えないスケール感、スピーディーかつド迫力のアクションに絶賛が集まるシリーズではありますが、それ以外の工夫も存分にされていると言っていいでしょう。
(c)和月伸宏/集英社 (c)2014「るろうに剣心 京都大火」製作委員会
近年で『寄生獣』や『アイアムアヒーロー』や『ちはやふる』など、マンガの実写映画化作品の秀作・名作が続々と生まれたのは、世界でのマーケットも視野に入れ、すべての要素がハイクオリティーに仕上げられた『るろうに剣心』の成功が“前例”としてあったことも1つの理由なのではないでしょうか。それは日本映画の転換点であり、伝説と言っても過言ではありません。
次週放送の『伝説の最期編』は原作マンガからオミットされてしまった要素が多く、話運びもやや鈍重であったため、筆者個人としては満足には至らなかった……というのが正直なところですが、クライマックスの見応えは存分にあるはず。ぜひぜひ、2部作を連続でご覧になって、伝説を最期まで見届けてください!
(文:ヒナタカ)
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