今からレンタルビデオ屋の思い出を書くが「あの頃は良かった」とは死んでも言わない
今からレンタルビデオ屋の思い出を書くが「あの頃は良かった」とは死んでも言わない
Photo by Elijah O'Donell on Unsplash
「VHSって何すか? えっ? ビデオ? 巻き戻し? 面倒くさくないんすか?」
先日、飲み屋で言われた言葉である。カルチャーショックとは言わない。VHSというワードを知らない人がいても驚かないし、確かに、巻き戻すのは面倒くさかったなと思う。
「あの頃はよかった」なんて言うのは、現在が上手くいっていない人間が持つ既得権益であるからして死んでも発しないが、ほんの少し前まで、映画は映画館を除いてはレンタルビデオ屋でVHSを借りて観るものだった。
本コラムは、まだスマホはおろかTwitterもFacebookもmixiもなかった、何ならYoutubeすらなかった、今より遥かに牧歌的な時代の話である。
スマホもTwitterもYoutubeもない時代、あなたは何歳だったろうか? 何をしていただろうか?
私は群馬県の片田舎にある米屋の倅で、小さい頃から音楽と映画が好きだった。音楽はラジオがあるから良いとして、北関東の田舎で映画を観るのは大変である。映画館なんてものがあるわけない。
住んでいた町には一軒だけ、個人経営のレンタルビデオ屋があった。田舎のビデオ屋なもんだから薄暗く、壁には乱雑にポスターが貼られ、カウンターには返却されたVHSがジェンガのように積み上げられていた。しかし、品揃えは悪くなく、名作から単館上映系、ちょっとしたマニアックな逸品まで、それなりの作品を取り揃えていた。
Photo on Visual Hunt
私が店に通っていた時期は、中学校入学から高校卒業まで、だいたい1996年から2002年の間である。音楽はまだミリオンヒットが当たり前の時代だった。たとえば、1996年の年間チャート1位はMr.Childrenの『名もなき詩』で、売上は230万枚以上。2位以下もglobe『DEPERTURES』、久保田利伸 with NAOMI CAMPBELL『LA・LA・LA LOVE SONG』、スピッツ『チェリー』と続く。
そういえば、ナオミ・キャンベルは今何をしているのだろうかと調べてみたところ、2000年から2010年に至るまで、暴行罪で何度も逮捕されていた。「まわれ まわれ メリーゴーラウンド もうけして止まらないように」という歌詞は、止まらない暴力の暗喩だったのだろうか。
話を戻して、1996年から2002年の映画でいえば、『トレイン・スポッティング』、『スワロウテイル』、『鮫肌男と桃尻女』、『BULLET BALLET』、『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』、『ファイト・クラブ』、『ワイルド・ゼロ』など、書ききれないのでこのくらいにするが、これらが新作として棚に並べられていた頃だ。
こうして作品を列挙してみると、いかに偏ったセレクトで映画を観ていたかがよくわかる。今は読まないのでわからないが、当時は「スマート」などのファッション雑誌にも映画のレビューが載っていた。懐かしくて涙が出そうだ。例えば『トレイン・スポッティング』特集なら、並行して『さらば青春の光』とか、それこそ『時計じかけのオレンジ』といった作品が節操なく紹介されていた記憶がある。
ときに、私と同じくらいに青春を過ごした人って、お読みになられている方のなかにも、結構いるのではないだろうか。そうだとしたら何だか嬉しい。
もしかしたらあなたは、ポケットがたくさん付いたビニール素材の壁掛けに、映画のポストカードを入れていなかっただろうか? 東南アジア系の雑貨屋で購入したチャンダンを、部屋で焚いてはいなかっただろうか? トイレの電球をブラックライトに変えていなかっただろうか? 大麻の形をした芳香剤を吊るしていなかっただろうか? もし、そうだとしたら何だか嬉しい。
再び閑話休題。新世紀に突入するまでインターネットとは無縁だったから、雑誌を買ったり立ち読みしたり、あるいは友人とネタを交換するくらいしか、情報を得る手段はなかった。そして、「どの映画を観るか」という選球眼は、パッケージを熟読し、財布の中身と相談し、意を決して実際にレンタルし、家で答え合わせをすることでしか養うことができなかった。
「映画」を手に取る行為って、楽しくありませんでしたか?
音楽にジャケ買いがあるように、映画にもジャケ借りがある。Youtubeやレビューサイトなどで、手軽に予告編やあらすじ、評価を確認できる今と違い、与えられた情報はVHSにエディトリアルされた写真やテキストのみであった。
ちょうど『トレイン・スポッティング』のVHS版が手元にあるので見てみよう。
表面には大きくレイアウトされたレントン(ユアン・マクレガー)を筆頭に、本国アートワークに則ったデザインがなされている。
惹句は「未来を選べ。90年代最高の“陽気で悲惨な”青春映画」
と記されており、過大広告ではないところに好感が持てる。
裏面はオープニングでも語られる「Choose a life」の一説を引用し、結構雑なあらすじが書かれている。これまた可もなく不可もなくだ。
22年前の私は、おそらく同じデザインの(借りたのは字幕版なので)『トレイン・スポッティング』を手に取って両面を熟読し、レジに持っていった筈だ。一体どんな気持ちで借りたんだっけと、ふと思う。
せっかくなのでもう1本、パッケージの勢いだけは一級品の作品を挙げてみよう。『セブン・フォース/復讐の標的』という映画である。
裏面には「世紀末を疾走するバイク軍団と、七人の戦士たちの最終闘争・・・『マッド・マックス』と『七人の侍』が融合した近未来・バイクアクション!!」
という景気の良い文字が踊り、トドメとばかりに
「旧ソ連軍の爆薬を使用した計算外の大爆発シーンに制作スタッフも戦慄!」
と、これ以上ないほどにB級臭を漂わせる名文句が並んでいる。
「旧ソ連の爆薬」まで持ち出されたら借りないわけにはいかない。私の場合むしろ購入している。そして、本作は普通に面白い。
これは成功例であるが、惹句や写真、デザインの良さに惹かれてレンタルしたものの、まったく面白くなかった作品も数多い。
「レンタルビデオ屋で映画を手に取り、パッケージを読み、最後は直感で決める」という一連の行動は、AmazonやNetflixなどのサブスクリプションサービスでは味わえない体験だ。そして、「レンタルして家に帰り、再生する」までの滞空時間も、また移動することでしかできない体験のひとつだ。
この「映画」を手に取る行為は、非日常を獲得するための神聖な儀式のようなもので、阿片窟と形容して差し支えないレンタルビデオ屋に並んだ「合法ドラッグ」を品定めし、わくわくしながら持ち帰る感覚は、今はもう無い。
もちろん、今でもビデオ屋にいけば同じ体験ができるが、DVD/Blue-rayとVHSでは、CDとレコードみたいなもんで、やはり手触りが少しだけ違う。郷愁を感じるのは、どちらも後者だ。
昔も楽しかったし、今も便利だ。じゃあ、未来はどうなる?
図らずしも、死んでも言いたくない「昔はよかった」みたいな話になって来てしまったので勢いで書いてしまうが、確かに昔はよかった。しかし、現在も同じくらい素晴らしい。便利すぎて困っているくらいだ。
私は定額制サービスに限定すると、Hulu、Netflix、Amazonプライム・ビデオの三刀流である。観たい作品が有り過ぎてまったく追いつかない。さらに映画に加えてドラマも入ってくるものだから、時間がいくらあっても足りない。レンタルビデオ屋の棚は今、スマホやPCのなかに入っている。
借りに行く手間も返却する手間もない。巻き戻して返却しなくてもいい。デッキのなかで絡まって出てこなくなることもない。やたらと長い予告編集を観なくてもいい。延滞料金も取られない。品揃えだって悪くない。メリットばかりである。
だが、レコードに針を落とす手間が愛おしいように、これらの手間が、ちょっと懐かしくもなる。
いきおい、現在から未来の話になるが、この「手間」に関して、私は遠くない将来、案外VR空間で再現されることになるのではと思っている。要はVR空間で営業されるレンタルビデオ屋である。
その店の棚には、パッケージデザインをそっくり再現したVHSが並び、客であるアバターたちは作品を手に取り、レジに持って行ってレンタルする。VRだからして在庫は無限だろうが、ここは「1巻から10巻まで借りようと思っていたら、6巻だけレンタルされている」といったあの悔しさをリアルに演出して欲しい。
さらに、私が最も製作元に強く要求したいのは成人コーナーである。特に暖簾の質感はしっかりと作り込んで欲しい。両手で暖簾を払いのけて入場し、他のアバターたちと気まずそうにすれ違いたい。そして、あの「アダルトコーナーにおける、赤の他人同士の妙な連帯感」が果たして仮想空間でも感じられるのかを確かめたい。
そうそう、真面目な映画の間にアダルト作品を挟んでレンタルするテクニックも、久しぶりに使いたい。夢と股間は膨らむばかりである。
映画も現実も、過去の記憶は改竄されている
過去、現在、未来と、とりとめもなくキーボードをパンチして来たが、当時の写真などを参照して思い出すに連れ、私の記憶にはいくつかの改竄が見られることがわかった。
まず、地元にあったレンタルビデオ店は、阿片窟のようではない。そこまで薄暗くはなく、コンクリート張りだった。品揃えも、今思えば良くはない。片田舎の中高生を満足させるには充分といった程度だ。しかし、あの頃の私にとって「すべての映画が揃っている」場所だったことに変わりはない。
あなたが見たことがある映画の場面を、できるだけ細かく想像してみて欲しい。おそらく、答え合わせをしたらかなりの間違いがある筈だ。しかし、私たちは映画を「観た」と記憶し、それについて話すことができる。
映画の「記憶」に関しては、かつて論争などもあったが、それらを持ち出すまでもなく、私は現実も映画も、健忘によって「自分だけの作品」になると考えている者である。健忘は郷愁になり、レンタルビデオ屋の思い出や、『トレイン・スポッティング』の思い出になる。
ときに、この健忘について2018年の今、最も注視すべき映画は『レディ・プレイヤー1』であるが、今はその話をしている暇はない。なぜならば、執筆中にサボって観まくってしまったVHSたちを巻き戻さなければいけないからである。ああ面倒くさい。
(文:加藤広大)
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