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『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)』の「7つ」の盲点


※以下からは映画『羅小黒戦記』の本編の結末を含むネタバレをしています。まだ鑑賞していない方はネタバレのない1ページ目をご覧ください。
※この記事における解釈は、筆者個人の主観を元に構成しております。参考としつつ、観た方がそれぞれの解釈を見つけていただけたら幸いです。


盲点その1
串に刺したお肉の渡し方でわかること



本作で何よりも注目してほしいのは、最強の執行人と恐れられるムゲンと、植物を操る妖精のフーシー(とその仲間であるロジュ、シーファイ、テンフーたち)との“対比”です。特に、それぞれのシャオヘイとの接し方をよくよく見れば、ほとんど“正反対”になっているところがあるのです。

例えば、フーシーたちがシャオヘイの歓迎会をしたとき、虎のような模様のあるずんぐりした体型を持つ無口なテンフーは、火で焼いた串に刺したお肉を、一度クルッと空中で回して、“持ち手”をシャオヘイに渡しています。6歳の子どもであるシャオヘイが串の先端でケガをしないように、ちゃんと気を遣っているのです(にも関わらず子どもの彼にお酒を勧めてしまい止められるのも可笑しいのですが)。シャオヘイはそのお肉がとても美味しかったようで、目を輝かせてバクバクと食べていました。

対して、ムゲンとシャオヘイが中盤で同じように鶏肉を食べようとした時、ムゲンは無頓着にも串の尖っているほうをそのままシャオヘイに差し出していました。しかも、その時のお肉は明らかに火が通っていなかったようで、シャオヘイもムゲンも吐き出して、「これはなんの肉だ」「そういう問題じゃない」と言い合ってしまうのです(その後もムゲンは各地を渡り歩いた後にお魚を焼いて「今度こそ焼けた」と言っていましたが、その後すぐにシャオヘイのものと思しき「ペッペッ」が聞こえてきました)。

この「串に刺したお肉の渡し方」だけでムゲンとフーシーたちの両者のシャオヘイへの対応の違いがはっきりとわかるわけですが……終盤のフーシーの言動からわかるように、彼らが決して親切心だけでシャオヘイに接していたわけではないのかもしれない、ということも、物語では重要になってきます。

盲点その2
フーシーがしていた“自作自演”



フーシーが初めてシャオヘイに出会う直前、シャオヘイは3人の人間たちに追いかけられていました。彼らの目には生気がなく、明らかに“操り人形”となっています(中盤でムゲンとシャオヘイが地下鉄に乗り込む際にも、周囲の人間が操り人形となり襲ってきました)。

つまり、操り人形の人間が襲ってきた後にフーシーが現れて、シャオヘイに「ケガは?」と問いつつ優しく話しかけてきたというのは、操り人形に襲わせ、そして救うという“自作自演”なのです。この時は"領界”の能力を無理やり奪うことを避けたいがためにそうした……とも解釈できますが、つまるところは、都会で孤独のまま生きてきた子どものシャオヘイを取り込むための、ずるい手段と言っていいでしょう。

それを思うと、やはりフーシーはシャオヘイの領界の能力を事前に知っていて、それを奪うために近づいてきたのではないか……と思って切なくなるのですが、決してそれだけではない複雑な感情がフーシーには間違いなくあるということも、また重要でした。

盲点その3
フーシーがシャオヘイに親切にしていた理由



フーシーは、シャオヘイの持つ領界の能力を奪い、利用することで人間への復讐を果たそうと企んでいました。そのことを知ったシャオヘイは、フーシーにこう問いかけます。「だから、ぼくに親切にしてくれたの……?」と。

この問いに、フーシーは一度うつむいてから、こう返します。「忘れるな、人間に故郷を奪われたことを」と。これについてのシャオヘイの答えは「忘れていないよ」「でも、ぼく、間違っている気がするんだ」「居場所はきっとあるよ」といった、「“復讐以外のこと”をしよう」という、フーシーへの説得でした。

ミン先生が「執着がいい結果を呼ぶとは限らないぞ」とフーシーに忠告をしていた通り、彼は人間への復讐に執着をするあまりに、子どものシャオヘイにもわかる“正しい道”を、どうしても選べなくなっているのです。

でも、そうであったとしても、フーシーは決してシャオヘイの領界の能力を利用するという目的だけで、彼に親切をしていたわけでもないでしょう。フーシーは彼に食べ物の他にも寝る場所を与えていましたし、そもそも領界の能力だけが必要なのであれば、仲良くならずともさっさと奪えばよいだけのことです。

フーシーには、間違いなくシャオヘイへの、同じ妖精という同胞だからこその親切心があった。あわよくば、自身の復讐に、シャオヘイが協力してくれるのだろうという算段もあったのでしょう。だけど、復讐心がその気持ちを超え、結果としてシャオヘイを傷つけることになってしまうのが、また悲しいのです。そのフーシーが最期に遺した言葉は、「シャオヘイ、ごめん」でした。

憎しみの感情というものは、簡単に割り切れるものでも、拭い去ってしまえるものでもありません。でも、もしも彼が、他の妖精たちのように復讐心を忘れ(例えば都会でお花をくれた“花の妖精”のように)、違う道を選ぶことができていれば……と、やはり切なく思うばかり。だからこそ、この『羅小黒戦記』は、社会や価値観の分断や対立がある現実の私たちにも、重要な知見を与えてくれています。

加えてシニカルなのは、フーシーが自死(自然と同化する)を選び、その場所に木々が生えたことについて、ナタ様が「バカだな、材木にされるだけだ」と、キュウ爺も「公園になるかもしれんぞ、有料のな」と、冷静に“その後”を分析されること。館長も「築き上げたものを壊すのは簡単なことだ」と口しています。

「復讐者は死んで人間と妖精は無事に共存できました」という安易な着地にはなっておらず、フーシーの遺した木々が人間に利用されるばかりか、この大騒動のために人間と妖精の関係は悪化をしてしまうのかもしれません。そうした極めて現実的な視点があることも、本作の美点でしょう。

盲点その4
強すぎるムゲンの、無理やりなコミュニケーション



フーシーが自作自演で表面上は優しくシャオヘイに近づいてきたこととは対照的に、ムゲンは初めは“力づく”でシャオヘイに接し、その自由を奪っています。

ムゲンは、いかだに使う丸太をシャオヘイの側に突き刺し、あまつさえ鋭く尖った金属を目の前に差し出し、金属でふんじばってシャオヘイを無理やり連れて行きます(しかも前述したように、さらにムゲンはお肉の刺さった串の先端もシャオヘイに差し出しています)。彼はコミュニケーション下手を超えて、そのような“脅し”をしないと相手をコントロールできないでいたのです。

そんなムゲンでしたが、終盤でシャオヘイと共に戦った時に、地面に降ろしたシャオヘイの襟に手を当てて、パパッと整えていました。これもまたフーシーとは対照的で、フーシーは初めこそシャオヘイに初めは(自作自演であっても)親切→最終的には傷つけてしまうのに、ムゲンは初めはシャオヘイを脅して自由を奪っていた→最終的には優しく気遣っていると、全くの正反対になっているのです。これは、ムゲンの明確な成長と言えるでしょう。

また、シャオヘイが逃げようとする→ムゲンがすぐに捕まえるという流れはたびたび繰り返され、それぞれがコミカルに描かれているのでクスクスと笑えるのですが、これもまた「あまりに強すぎるために一方的な束縛するコミュニケーションしかできない」(だから館の妖精の中には彼の強さを嫌うものもいる)というムゲンの不器用さ、そしてシャオヘイと同じく孤独だったことの証明とも言えるかもしれません。

盲点その5
“善と悪”だけじゃないと気づく、シャオヘイの成長



シャオヘイは、前述したフーシーとの会話でわかる通り、「どちらの道が正しいのか」と考えることができる、とても利発な子どもです。初めこそムゲンにイヤイヤながらついてきた彼は、「フーシーは良い人でムゲンは悪いヤツ!」と単純に考えていましたが、ホテルに泊まった時はムゲンのことを「あんたも悪人じゃないよ。良い人でもないけど!」と言います。

そして、フーシーが自死を、ずっと故郷の場所にいるという選択をした時に、シャオヘイはこう問い、ムゲンはこう返します。「フーシーは悪い人なの?」「お前の中に、ちゃんと答えがあるだろ」と。

これは、6歳の子どもだったシャオヘイが、善と悪という単純な二項対立だけでは推し量れない、大人の気持ちと価値観を知るまでの成長の物語とも言えるでしょう。

そのシャオヘイは、中盤で地下鉄に落ちてきた大岩を、大きな獣の姿になることで止めて人間たちの命を救っていました。ここで大人は「襲われる…!」などとシャオヘイへの恐怖を口にしていましたが、側にいた幼い女の子は「ありがとう……」と素直に感謝を告げていました。

この時に、シャオヘイは復讐心などよりも、「人間のために行動する(命を救う)こと」の大切さを知ったのかもしれません(この時にムゲンが「モテモテだな」と茶化すのがまた可笑しかったりもするのですが)。その感謝の気持ちを教えてくれるのが子どもだったということも、大人の価値観との残酷なまでの対比になっています。

シャオヘイの成長と言えることが、さらにもう1つ。最終決戦でシャオヘイが戦いの場に来る前に、彼はフーシーに歓迎会をしてもらった時の楽しかった思い出と、領界の能力を奪われた時の悲しい思い出を夢として見ていて、涙を流していました。だけど、戦いの場にやってきてムゲンの姿を見た時に、シャオヘイは「夢であんたがボコボコにされていたのを見ててさ!」と言っていました。

シャオヘイは、ムゲンに心配されないように、または悲しい気持ちに支配されないように、そのようにウソをついて、そしてフーシーと対決をするという決断をしたのかもしれません。6歳の子どものシャオヘイのその勇気の、なんと健気なことでしょうか。

盲点その6
シャオヘイの最後の選択



旅の末に、最後にたどり着いた“館”はあまりに美しい場所でした。海は透き通り、晴れた空との境目がどこにあるのかも分からないほどに晴れやか。森で見かけた蝶や魚に姿を変える“シャボン玉”のような存在もそこにあり、まさにユートピアそのもののようにも見えます。

この館の光景は、シャオヘイに出会ったばかりのムゲンが見ていた光景にそっくりです。それは心の中の情景でもあり、シャオヘイはこのような澄み切った場所を探し、自分の“居場所”にすることをただ求めていた、やっとたどり着いたという解釈もできるでしょう。

そうであったのに、シャオヘイの最後の選択は、ムゲンを師匠と呼び、そして一緒に旅をしていくということでした。最高のユートピアを見つけても、なおもムゲンについて行きたいと、大粒の涙を流しながら願うシャオヘイのなんと愛おしいことでしょうか。

この旅で、シャオヘイは本当にたくさんのことを学びました、様々な場所を渡り歩くことで、いろいろな妖精や人間がいること、そして善と悪という単純な二項対立だけでは語れない問題があること、そして心から師と仰げる存在であるムゲンと出会ったこと……その彼から、もっともっと教えを得たい、成長したい、そのためだったら、居場所はここじゃなくてもいいとも、シャオヘイは願ったのでしょう。

ユートピアのような館の外、人間と妖精が共存する世界には、まだまだ問題が山積みでしょうし、フーシーのような敵意を剥き出しにする者が今後に現れないとも限りません。でも、共に成長をしてきたムゲンとシャオヘイの師弟のコンビは、執行人(ムゲン本人は雑用係と自嘲していましたが)として、これからも人間と妖精の共存のために、2人でより良い道を選ぶために、旅をしていくのでしょう。

そして、この日本語吹き替え版には、「ぼくが選ぶ未来」という、まさに子どものシャオヘイが選択していく物語であることを示すサブタイトルが付けられています。本作のテーマとして、これ以上に的確なものは、ありません。

盲点その7
エンドロールでわかること



字幕版の時からあった、1回目のオリジナルのエンドロールの最後に映された家は、序盤にシャオヘイを招待した霊域にあるムゲンの家でした。

これは、シャオヘイは旅立ったが、霊域=心の中では、家=ムゲンと一緒にいるという居場所を見つけた……という、ことを意味しているのではないでしょうか。場所が1つに決まっていなくても、信頼できる人と一緒にいること、それが居場所になるのだというメッセージなのだと受け取りました。

そして、その1回目のエンドロールでは劇場版を観ていただけだと「誰?」というキャラクターもいますが、彼らは『羅小黒戦記』の原点となる、WEBアニメ版の登場人物だったりもするのです。

WEBアニメシリーズの第1話。設定から日本語字幕をつけることもできる。

 
2011年から全28話が発表され、累計2.3億回再生を誇るこのWEBアニメシリーズは、今回の映画から4年後の“後日譚”にあたり、シャオヘイは10歳になっています。それぞれが独立した作品として楽しめますが、映画と合わせて観ると、さらに『羅小黒戦記』の世界の広がりを感じることができるでしょう。

この他にも、『羅小黒戦記』にはまだまだ気付いていない、様々な盲点があるはず!ぜひぜひ、皆さんも繰り返し観てみて、さらに探してみてください!

(文:ヒナタカ)
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