映画コラム

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2020年12月22日

「クリスマス映画」と言えば何?私にはブルース・ウィリスしか浮かばない

「クリスマス映画」と言えば何?私にはブルース・ウィリスしか浮かばない

「クリスマス映画を1作、思い浮かべてください」と問われれば、多くの人が『ホーム・アローン』や『素晴らしき哉、人生!』、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』、『34丁目の奇跡』などをすぐに想起できるはずだ。


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この「クリスマス映画」なるジャンルは「クリスマスのNYで小さな奇跡が起こる」だったり「単にクリスマスが舞台だっただけ」だったりと、細かいカテゴリーにわけることができるだろう。

なんなら「クリスマス」と名言していなくとも「舞台は冬で、赤と緑を強調したカットが入る」だけでクリスマス映画にカテゴライズされるかもしれないし、「シャンシャン」と鈴の音が入っていたらクリスマス映画として認定されるかもしれない。

もう少し解像度をあげるならば、「デパートのシーンでうっすらとロネッツが流れており、客は全員重衣料を着て」いたら、かなり高確率でクリスマス映画として認められるのではないだろうか。もしかしたらケンタッキーフライドチキンが一瞬映されただけで頭の中で竹内まりやが「すてきなホリデイ」を歌いだしてしまう人だっているかもしれない。誰しもクリスマスの情景はもっているものだし、ある一瞬で掴んでしまう場合もある。



と、クリスマス映画には実にさまざまなものがあり、人の数ほどカテゴライズ可能だ。なので、ある作品を「これはクリスマス映画ではない」と斬って捨てることはできない。というのが筆者の立場である。オッズは高いが、クリスマスに必ず『ムカデ人間』シリーズを完走する人だっているはずで、当人にとってはヨーゼフ・ハイターがサンタクロースであるかもしれない。毎年の暮れに『芝浜』を楽しむように『ラストラブ』を鑑賞する人だっているだろう。

マクラはこのくらいにして、本コラムの大筋は「クリスマス映画をセレクトして紹介する」ことである。

まず最初に提示するのは『ダイ・ハード』。素晴らしきクリスマス映画である。

ロサンゼルスで起こる「クリスマスの小さな奇跡」



今更説明するまでもないが、『ダイ・ハード』は1988年に米国で公開されたアクション映画で、ロデリック・ソープの小説を原作として、ジョン・マクティアナンが監督を務めた。

話の筋は単純で、たまたま休暇中だったニューヨーク市警のジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)が、たまたま嫁さんの職場であるナカトミ・ビルに向かい、たまたまやって来た重武装の犯罪者集団の強盗に巻き込まれてしまい、たまたま人質にならなかったので事件の解決に乗り出す。劇中、(主に裸足であったために)マクレーンはあらゆる酷い目に遭うが、持ち前の機転とシックス・センス、そしてアンブレイカブルなボディを活かして「なんでこんなことになるんだ」と悪態を吐きながら難局を乗り切る。

ところで本作を観たことがない、あるいは「昔観たのをなんとなく覚えている」人にとって、『ダイ・ハード』のイメージはおおよそ「タンクトップ」、「大味」に別れるだろう。前者に関しては、プチ・ブルースなど数々のものまねタレントや芸能人によって擬態された結果、ダイ・ハードとタンクトップが=で接続されてしまったものだと思われるが、本作に関してはあながち間違っていない。たまたまタンクトップになったマクレーンは、タンクトップのまま事件を解決していく。冬なのに。



で、問題は後者の「大味」である。観ればわかるが『ダイ・ハード』に関してはまったく大味ではなく、むしろ緻密な脚本という鉄壁の一枚板のうえに、タンクトップのマクレーンが裸足で乗っかるという構造になっている。要は「時代の風雪に耐えられるほどめちゃくちゃしっかり作ってある」ので、公開から30年以上経った今でも放映されたり、さまざまな場面で語られたりするのだろう。

もちろん、本作は今観ても面白い。とくに白眉なのがマクレーンの運動性で、彼は決して武道や射撃の達人ではなく、むしろアクション映画としては緩慢さすらある。だが、その不自由さがとても贅沢で、刑事でもなんでもない人間が鉄パイプを奮っただけで「サマになってしまう」現代の映画とはまた違った趣がある。とはいえ、本作は当時メジャーであったアクション映画のカウンター的に登場してきた側面もあるので、現在→過去といった単純な比較では当てはめられないのだが、一見・常連問わず今観てみると何らかのフレッシュさを感じとれるかもしれない。

ちなみに本作の舞台は偶然にもクリスマス・イブのロサンゼルスであり、マクレーンの活躍によってロスの平和は取り戻される。マクレーンは犯罪者グループには死をプレゼントするサンタクロースであり、人質サイドにとっては靴下の中に入っていたプレゼントである。

今度はワシントンで起こる「クリスマスの小さな奇跡」



2作目に挙げるのは1990年に米国で製作された『ダイ・ハード2』である。タイトルをよく読めばわかるように、『ダイ・ハード』の続編に位置している。

舞台は、えらい酷い目に遭ったナカトミ・ビルの一件から偶然にもちょうど1年後のクリスマス。たまたま嫁さんを迎えにワシントンのダレス空港にやってきたジョン・マクレーンは空港をジャックし、護送されてくる予定の麻薬王、エスペランザ将軍を奪還しようとするチキチキ・犯罪者集団の目論見を阻止し、機上の嫁さんを救うべく比較的ノリノリで事件に介入していく。さすがのマクレーンも冬のダレス空港の寒さは堪えるのか、今回は重ね着をして難局に立ち向かう。



1作目はビル、本作は空港ということで、ジャックされた閉鎖的な空間で物語が進行していく点は共通している。マクレーンのユーモアや悪態も健在なので安心して観ていられるし、ド派手な爆破、アクションもある。だがしかし、どうにも『ダイ・ハード』をA面とすると、本作のB面感は否めない。言い換えるならば、1枚目で成功したアーティストが2枚目も割と似たような内容でアルバムを出すのと同じで、セカンドアルバムが好きな人も一定数いるものの、やはりファーストがもつ初期衝動や「出会ってしまったときの衝撃」には及ばない。

とはいえ、一応勘所は抑えてあるので楽しく観ることができるだろう。今回もマクレーンは持ち前の機転とシックス・センス、そしてアンブレイカブルなボディを駆使し、まるでサンタクロースのごとく悪役に死をプレゼントする。

クリスマス映画の本場で起こる「クリスマスの復讐」



3作目に挙げるのは1995年に米国で製作された『ダイ・ハード3』である。偶然にも『ダイ・ハード2』の続編で、当たり前だがシリーズでは3作目目にあたり、前作・前々作でなかなか死ななかったマクレーンに対して「どんなHardな目に遭えばDieするんDeathか!?」と制作側の苦悩が聞こえてきそうなくらいには酷い目に遭う。

今回の舞台はクリスマス映画の本場ともいえるニューヨークで、ビル・空港といった閉鎖的な空間を飛び出て、マクレーンは二日酔いによる頭痛を抱えながらビッグアップル中を駆け回る。開始後わずか2分でデパートが爆破され、NY市警に犯人から「マクレーンを出せ」と電話がかかってくる。ちなみに登場シーンはタンクトップなのだが「暑い、俺だけかな」と言ってタンクトップを脱ぐ。

まるで「私達は、成功してしまった『ダイ・ハード』の呪縛から逃れるのだ」と言わんばかりの脱ぎっぷりは、タンクトップを纏った原初としての『ダイ・ハード』、前作の要素を盛り込み、さらに着衣した『ダイ・ハード2』、そしてもはや象徴として機能しているタンクトップを脱衣し、一皮むけたダイ・ハードを演出してみせるのが『ダイ・ハード3』……とはいかないのが残念なところで、マクレーンは前作にも増してパワフルになってしまっているし、そもそも今回バディを組むことになるゼウス(サミュエル・L・ジャクソン)の必要性がさほど感じられない割にはサミュエル・L・ジャクソンによって映画がなんとかなってしまうという不全が生じている。



また、マクレーンの動きに関してもやや不満が残る。まるでブルース・ウィリスが『ダイ・ハード』『ダイ・ハード2』で見せた自身のモノマネをしているようでもあり、思わず「すわ、俺が今観ているのはダイ・ハードの続編ではなく、爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャルなのではないか」と勘ぐってしまう。マクレーンがマクレーンをモノマネする、あるいは現在のブルース・ウィリスが過去のブルース・ウィリスを真似ているような演技は、言うに事欠いて「なんとも言えない」の一言である。

だがしかし、この分母がマクレーンで分子がマクレーンのような状態、そしてマクレーンがマクレーンのモノマネをしてマクレーンクローンになるといった無間地獄のような入れ子構造は、さながらマクレーンユニヴァースと名付けたくなるほどで、そう考えるとこのままマクレーンが拡大再生産され続けた結果、「果たしてマクレーンユニヴァースはいかなる結末を迎えるのか」と見届けたくなるから不思議なもので、さながらマクレーンのように悪態を吐きながら鑑賞していても最後には「まあアリかナシかで言ったらナシ寄りのアリ」と感想を抱かせるほどのパワフルさをもっている。

ところで、『ダイ・ハード3』はクリスマス映画の本場、ニューヨークを舞台にしているものの、季節設定は真夏である。ではクリスマス映画ではないのかというとそうでもない。本作に登場するテロリストグループのリーダーにして、マクレーンに無理難題を吹っ掛けてニューヨーク中を引き摺り回すサイモン・ピーター・グルーバー(ジェレミー・アイアンズ)は、あのナカトミ・ビルでマクレーンから死をプレゼントされたハンス・グルーバー(アラン・リックマン)の兄である。つまり本作は、いつかのメリークリスマスに弟を殺された男の復讐劇でもあり、マクレーンにとってはクリスマスの思い出が復讐を仕掛けてくる悪夢のようなクリスマス映画でもある。

クリスマスのプレゼントは物質だけではない



4作目に挙げる映画は、2007年に米国で製作されたアクション映画『ダイ・ハード4.0』である。何の因果かダイ・ハードシリーズの4作目にして、タイトルも「4」ではなく「4.0」と2000年代らしくなっている。ちなみにこれは、今回登場する悪人がサイバーテロ犯のため、ソフトウェアのバージョンをもじって「4.0」としたらしいが、4だろうが4.0だがマクレーンは相変わらず酷い目に遭う。

しかし、酷い目にあうのはマクレーンだけではない。『ダイ・ハード3』から引き続き、事件に巻き込まれたマクレーンが巻き込んだ相棒のほうが酷い目に遭う。今回はマシュー(マット)・ファレル(ジャスティン・ロング)がその標的である。

話の筋としては、アメリカ独立記念日に全米のインフラ監視システムがハッキングされ、危機感をおぼえたFBIは犯人特定のため全米のハッカーを一時保護・拘束することを決定。マクレーンにも「ニュージャージー州のハッカーを連行して来い」との司令が入る。ハッカーのファレルの家に向かったマクレーンは、たまたま彼の口を封じに来た犯人グループの襲撃に遭い、過去のどの作品よりもノリノリで事件を解決していく。



本作でのマクレーンは勤続30年のベテラン刑事になっており、たまたまテロ現場に居合わせることが多いためか捜査一課からテロ対策班に配置換えとなっている。私生活ではすでに嫁さんと離婚しており、娘にもウザがられる始末で決定的に生活が上手くいっていない。マクレーンは積極的に仕事をするタイプではないものの、もはや悪人をノリノリで殺害することでストレスを発散しているのかと心配になってしまうほど、キレッキレのアクションで男だろうが女だろうが容赦なく拳と弾丸を浴びせていく。

従来のアクション映画へのカウンター的位置づけであった『ダイ・ハード』から、単純に派手なアクション映画になってしまった『ダイ・ハード4.0』であるが、今でも色褪せないVFX技術、そして実写のバランスは素晴らしく、さらにテンションが高いのでポップコーン片手に楽しめる。賛否はあるものの『ダイ・ハード』シリーズとして観なければ十分なクオリティだといえるだろう。

劇中、クリスマスと関係あるものは皆無だが、金品や目に見えるものだけがクリスマスではない。長年仕事をしてきてクリスマスには会えなかったであろう娘との雪解け、そしてファレルとの疑似的な親子関係は、まるで新年のような新たな始まりを予感させる。「心が離れ離れになっていた親子の絆を再確認できる」というクリスマス映画カテゴリがあるならば、クリスマスにはぴったりの1作であるといえるだろう。

クリスマスといえばケーキ、その色は黄



ここまで、『ダイ・ハード』『ダイ・ハード2』『ダイ・ハード3』『ダイ・ハード4.0』と、4本のクリスマス映画を取り扱って来た。最後の1作は偶然にも『ダイ・ハード4.0』の続編『ダイ・ハード/ラスト・デイ』である。

本作のキャッチコピーは「運の悪さは、遺伝する。」であり、もはや運が悪いというよりは自分からハードコアな現場に首を突っ込むことを辞められないアドレナリンジャンキー、ジョン・マクレーンと、巻き込まれ体質が遺伝してしまった息子ジャック・マクレーン(ジェイ・コートニー)が繰り広げる、爆破の炎と射撃後の空薬莢で身も心も温まるハートフルな作品となっている。

一応話の筋を記述しておくと、モスクワで殺人事件を起こした咎で拘束された息子の裁判を見に行こうとマクレーンが現地に飛ぶ。持ち前の「巻き込まれ力」つまりヒキの強さを発揮して無事裁判所が爆破され、CIAのスパイであった息子は証人として出廷していたユーリ・コマロフ(セバスチャン・コッホ)を連れて逃走する。マクレーンはせっかく息子に会いに来たのだからとカーチェイスに参戦し、自ら率先して事件に介入していく。本作のマクレーンは『ダイ・ハード4.0』以上にノリノリであり、他国の領土で広角泡を飛ばしながら「ブッ殺す」と叫び、「一人の男のせいで世界を二分した戦争がはじまるのでは」と心配になってしまうほど銃弾の雨を降らせ、また降られる。



本作は痛快なアクション映画ではあるが、正直なところ前作と同じく「単なる派手なアクション映画」に終始している。さらに脚本もやや社選で、チェルノブイリのくだりは酷いとまではいかないが、控えめに言って「それでいいのか」の一言であり、RottenTomatoesで16%の評価は伊達ではない。唯一好感がもてるのが上映時間が98分という点であり、最強無敵ロング・バージョンでも102分である。その4分、果たして必要なのだろうか。

『ダイ・ハード/ラスト・デイ』もまた、クリスマス感は皆無である。しかし前作と同様に「心が離れ離れになっていた親子の絆を再確認できる」というクリスマス映画カテゴリがあるならば、ピッタリとハマることだろう。本作はそれに加えて、イエローケーキも用意されているのだから、前作以上にクリスマス映画といえるかもしれない。

それで結局、『ダイ・ハード』はクリスマス映画なのか



まったくの偶然で自分でも驚いているが、ピックアップした5本がすべて『ダイ・ハード』シリーズの作品となってしまった。せっかくなので、ここで巷間よく話題にあがる「『ダイ・ハード』はクリスマス映画なのか」論争に触れておきたい。

『ダイ・ハード』がクリスマス映画か否かという議論は、飲み屋の与太話から数字を使った調査まで、さまざまなレベルでおこなわれている。たとえば、映画データを扱ってさまざまなトピックを論じているStephen Followsでは、創造・商業・文化という3つの観点から『ダイ・ハード』がクリスマス映画であるかを分析している。

創造面では、『ダイ・ハード』に頻出する単語は銃・テロリストなどが多いが、クリスマスも血や撃つ、爆発するよりもよく登場するらしい。さらに音楽面でも「Winter Wonderland」、「Let it snow」といったクリスマスに因んだ楽曲が効果的に鳴らされているとしている。

いっぽう商業面では、当時のポスターにクリスマス要素がない、公開日が12月ではない、惹句もクリスマスに関係ないなど、公開当時はクリスマス映画としては扱われていなかったと結論づけている。

また文化面としては、「クリスマス映画といえば」という設問では『ダイ・ハード』は22位に登場し、『ダイ・ハード』のWikipediaページは12月のアクセスが最も多いといったデータが示されている。

これらを踏まえて、同サイトでは「当初としてはクリスマス映画ではなかったものの、クリスマス要素が多く含まれていることから、やがて大衆のなかでクリスマス映画として認識されるようになった」と結論づけている。

また20世紀FOXは2018年に、クリスマスムービー風に『ダイ・ハード』を紹介する予告編を制作し、公開している。



以上のことから、『ダイ・ハード』は(現在において)クリスマス映画であるという一旦の結論は出せるだろう。だが、ブルース・ウィリス自身が「ダイ・ハードはクリスマス映画じゃない」とコメントしたインタビューも確認できる。とはいえ、映画の内容を考えると、上記のデータなどを持ち出さなくとも「クリスマス映画である」と言って差し支えないのではないだろうか。

ここまで書いておいてなんだが、
クリスマスには好きな映画観ればいいんじゃないですかね

繰り返すが、冒頭でも述べたとおり、クリスマス映画には実にさまざまなものがあり、人の数ほどカテゴリー設定が可能だ。なので、ある作品を「これはクリスマス映画ではない」と斬って捨てることはできない。というのが筆者の立場である。となれば、なんで今まで7000文字も使って無理矢理『ダイ・ハード』シリーズをクリスマスにこじつけてきたのかという疑問が自分のなかでも浮かんでくるが、胸の奥にそっとしまい込んでおきたい。けれど『ダイ・ハード』シリーズがクリスマスに観るに値する、楽しくて面白い作品群であることは間違いないと断じたいが、安全マージンをとって「3以降は少なくとも『ラストラブ』よりは」としておく。

最後に、この記事が公開される頃には偶然にもそろそろクリスマスである。クリスマスはジョン・マクレーンにも、テロリストたちにも、何人たりとも例外はなく、平等にやってくる。我々は今年、何の因果か疫病が蔓延する、鬱屈として、時間の感覚がおかしくなり、なんだかもやもやとした世界で過ごし、結構な喪失感と焦燥感のなかでも生活を続け、しぶとく生き残った。「Die Hard」とは「しぶとい」という意味を持つ。富める人も貧しい人も、良い奴も悪い奴も、もちろんこれを読んでいるあなたにも、あなたが好きな人にも、あなたが鉛玉をブチ込みたいくらい嫌いな人にも、今年しぶとく生き抜いたすべての人に、メリークリスマス!

(文:加藤広大)

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