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2021年01月30日

「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」徹底解説!|予習・復習はこれで完璧!

「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」徹底解説!|予習・復習はこれで完璧!


NHK大河ドラマ「麒麟がくる」最終回より

NHKの大河ドラマの人気シリーズといえば戦国時代。中でも織田信長が明智光秀の謀反で命を落とす本能寺の変は名場面の一つです。

新型コロナウィルス感染症の影響で2020→2021年の越年放送となった「麒麟がくる」は、その明智光秀を描いた作品。当事者であるだけに、戦国時代を描いたこれまでの大河ドラマよりも濃厚に、本能寺で命を落とした織田信長を描いた「信長 KING OF ZIPANGU(1992年)」と同等の濃厚さで描かれることでしょう。

本能寺の変は実行者である明智光秀が程なくして羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗れており、いわゆる「勝者の歴史」として語られていません。そのためか、なぜ変を起こしたかという理由すら諸説に溢れ、450年近く経った現代でも歴史の専門家や歴史ファンの話題にのぼっています。

この記事では「麒麟がくる」のクライマックスを前に、本能寺の変が起きた理由、過去の大河ドラマの本能寺の変の振り返り、本能寺の変や明智光秀にまつわる故事・成語をご紹介します。

謎に包まれた歴史上の政変だからこそ、ファンは自由に想いを馳せられるというもの。根拠の薄いもの、歴史家に否定されているものも含め、話題になったトピックをご紹介します。

明智光秀がなぜ大事件を起こしたのかという戦国時代最大の謎をお楽しみください。

なぜ本能寺の変は起こったのか


NHK大河ドラマ「麒麟がくる」最終回場面写真より

同じ武家の時代でも、家臣たるもの主君の言うことは絶対、という考え方は江戸時代のものです。戦国時代は主君が自分の働きに応えてくれなければ、家臣は堂々と主君を見限り、仕える相手を変えていました。

本能寺の変が起きたころも、織田信長は甲信地方から中国地方の一部までを掌握していましたが全国を統一していたわけではありません。日本を統一するという観点で考えるなら、最有力候補ではあったがまだ成し遂げていない、という状況でした。

こうした時代であれば、家臣が主君に向けて刃を向けることもむべなるかな、と言えるのです。

さて、光秀の謀反はとても多くの説が提唱されています。Wikipediaの本能寺の変には58の説が取り上げられているほどで、その全てをご紹介すると本が一冊書けてしまいそうです。

ここでは最新の研究で肯定・否定のどちらに傾いているかにかかわらず、興味深い・本当に理由っぽい・そうであったら面白い・過去の作品でよく取り上げられている、という観点でいくつかご紹介します。

歴史家が明快に否定しているものもあります。が、そうした説も映画やドラマ・小説で本能寺の変を鑑賞するファンにとっては重要です。

さて、まず大きな分類として、光秀が単独・主犯として動いた説、誰か黒幕がいてそそのかされた説の二つにわけていきましょう。

明智光秀の単独犯もしくは主犯説


まずは光秀が単独・主犯として起こした説からご紹介します。主に織田信長との関係が悪化したエピソードの紹介ということになりますが、これが全て事実としてあったのであれば、信長の光秀に対するパワーハラスメントは常軌を逸しています。

過去の大河ドラマでも、光秀は信長から散々な扱いを受けています。


丹波・近江の領地召し上げ

1582年、本能寺の変の少し前、光秀は丹波・近江(兵庫県東部から滋賀県西部のあたり)を領地としていました。

当時の織田家は重臣が攻略地域を分け持つ形式を取っており、光秀は近畿地方に目を配りながら西方をにらむ役割だったと考えられます。

あるとき、中国地方を攻める羽柴秀吉の協力をするよう、信長が光秀に命じました。

その際に信長から

出雲・石見の二か国を与える代わりに丹波と近江を召し上げる

と指示があった、とされています。このエピソードは過去の大河ドラマでも複数作品で描かれています。

この命令について光秀が不満に感じたかもしれないポイントには、以下の様な点が挙げられそうです。

・まだ獲得していない領地(出雲・石見は織田領ではありませんでした)を手形に、今の領地を召し上げられてしまう?という不安
・重臣としてのライバルだった秀吉が毛利攻めでポイントを稼ぎ、自分はそのサポートとして下に付く指示を受けたという出世競争の遅れ
・今まで京都や近畿という日本の中枢を管理してきていたのに中国地方に左遷されたのではないかとする不満

いずれにせよ、光秀が織田家の中枢としての評価を下げられたのかもしれないと考えても不思議ではありません。


波多野家攻略時に人質に差し出した実母を見捨てられた

織田家が近畿から西に侵攻するにあたり、丹波の波多野家は目の上の瘤でした。信長は1575年、エース・光秀に攻略を任せます。敵の猛将による頑強な抵抗あり、協力武将の裏切りありで苦労した丹波攻めは5年ほどかかっています。

その終盤、波多野家が籠城した八上城攻めも楽には終わりませんでした。光秀は実母を人質として差し出すことで波多野家の当主・秀治らの命を保証する約束をして投降を促したのですが、投降後に信長はその約束を守らず、磔にしてしまったのです。

この報復として、波多野家では光秀の母を磔にし返しました。このことで光秀は心を痛め、信長に恨みをもつ理由の一つとされています。

竹中直人さんが豊臣秀吉を演じた「秀吉」(1996年放送)では、野際陽子さん演じる光秀の母が磔にされるシーンが描かれています。


武田攻め後の仕打ち

1582年、武田信玄で有名な甲斐の武田家は織田家に滅ぼされています。その時に光秀は、戦いにはほとんど関係していないものの織田軍として甲斐に向かっていました。戦いをサボっていたわけではなく、主力でもなく大差のついた戦いだったため出番がありませんでした。

その戦勝の酒宴で光秀が

「我々も長年骨を折ってきた甲斐が・・・・・・」

と感慨深く語ったところ、信長が怒りだし

「おまえはどこで骨を折るような苦労をしたのだ」

などと責め、欄干に光秀の頭を押しつけたり叩いたりした、というのです。

この1点だけで本能寺の変を起こすのであればちょっと短慮に過ぎる気もしますが、光秀の怨恨によって本能寺の変が起こったとされる場合には、ほかのエピソードとあわせて登場することがあります。


恵林寺の焼き討ち

1582年、その武田攻めの際に、武田家の菩提寺である恵林寺を信長は焼き討ちにしています。恵林寺の和尚・快川紹喜(かいせん じょうき)は光秀と同じ美濃国の土岐氏の一族だったと言われています。また、同時に焼き殺した僧侶は150人以上だったとか。

光秀の前半生は謎に包まれたままですが、快川和尚とのやりとりを色濃く描けば、光秀に強い恨みを抱かせることは可能になります。

恵林寺の焼き討ちは、延暦寺の焼き討ちとあわせて信長の苛烈な性格を示すエピソードです。このシーンが光秀の信長に対する憎しみ・不満を増やしたものとして描かれるケースがあります。


天下争奪の野望

織田家は軍団制でした。重臣のうち、柴田勝家が北陸方面、羽柴秀吉が中国方面、滝川一益が関東方面、織田信孝が四国方面、などと担当エリアが分かれていたのです。

本能寺の変の直前は各軍団が戦の準備や後処理などで持ち場を離れられませんでした。中国攻めの前に小勢で本能寺に立ち寄った信長の近くにいる大軍団は光秀の軍しかいなかったのです。

そこで急きょ、光秀が天下を取るために動いたという説があります。

慎重な光秀の性格から、これだけで理由にするのは難しいかもしれません。もし天下争奪の野望があったのであれば、信長を倒したあとの体制作りを速やかに出来ただけの能力があったはずです。本能寺の変の後、細川家や筒井家を仲間にできなかったことををみても、整合性が付かないようにも感じられます。

ですが、ほかの理由と組み合わせて、現実的に自分が攻めれば信長を倒せる、という判断は働いたかもしれません。

なお、信長から天下を奪おうとした理由も様々な説が挙がっています。

・自らを神と呼び始めた信長を阻止するため
・朝廷の仕組みを壊そうとしていた信長を止めるため

などです。こうした説も、だれかが黒幕だった、という説との組み合わせになることもあります。


徳川家康饗応の接待失敗

武田家が滅亡した後、信長は安土城に徳川家康を招き、慰労会を開きました。その奉行(饗応役)に任じられたのが光秀でした。家康への接待のすべてを任されたのです。

その際、光秀が出した料理に不具合があり、奉行を解任された、という説があります。

鯛が腐っていた、京風の薄い味付けが家康に合わない、など複数の演出がありますが、ここでも信長が光秀を足蹴にしたり殴ったり、というシーンが出てきますし、丹波・近江の領地召し上げにつながるエピソードして描かれることもあります。

他者による陰謀・共謀説


ここからは、他の誰かが本能寺の変に関与していたという説をご紹介します。

信長は世の中を新しく変えようとしていた節があります。攻められる他者からすれば信長は侵略者。これまでの仕組みを大きく変えようとしていた信長は、領地を侵略される戦国武将以外にも、経済的・政治的な敵も多かったと考えるのは難しくありません。

そうした他者の働きかけで、実行者として光秀が担当した、という考え方も、まあ自然ではあります。


朝廷

信長は自分を神としてあがめさせようとしたり、朝廷からの征夷大将軍や関白といった位の授与を断ったりした様子が記録に残っています。

従来の仕組みを壊そうとしている信長に対し、朝廷側がコントロールしきれない信長を排除したいと考えており、その実行者として朝廷と連絡が取りやすかった光秀になったという説です。

朝廷内の黒幕は具体的に誰かも、それこそ多岐にわたります。「麒麟がくる」でも朝廷と光秀の関係は色濃く描かれています。


足利義昭

室町幕府15代将軍・足利義昭は、はじめは信長の力を借りて将軍になりました。しかし信長との関係が悪くなり、諸国の大名に通じて信長を倒そうと謀ります。

信長は1573年、義昭を京都から追放しました。義昭の将軍職は解かれておらず、備後(広島の東側・当時の毛利領)にいました。

本能寺の変のあと、光秀は義昭を京都へ迎え入れたいという手紙を出しているとされています(リンク)。義昭が黒幕かどうかはさておき、光秀が義昭、そして室町幕府を大切にしていたことは想像できます。


羽柴秀吉

羽柴秀吉やその配下の黒田官兵衛が黒幕、としている説もあります。

常識では考えにくい備中からの通称「大返し」や、その後の光秀との天下分け目の戦い「山崎の合戦」での快勝。その後の天下取りまで含めて、本能寺の変で最も得をしたのが誰かという観点で考えると、合点がいきます。

ただ、信長に大抜擢を受けた秀吉が、この時点で信長を倒したかったのかが不明確ではあります。


徳川家康

本能寺の変が起こる3年前、徳川家康の長男・松平信康は自害しています。信康とその母・築山殿は信長から自害を命じられました。

自害を命じられた理由も諸説あるのですが、代表的なものとしては、信長の娘で信康の妻であった徳姫と不和であったことと家臣や僧侶に対する乱暴が多かったことなどから、徳姫が信長に信康と築山殿に関する手紙を書き、それに怒った信長が自害を命じた、というもの。

家康にしてみれば妻と嫡男を同時に失うことになる痛恨の出来事で、こうした恨みを持っていても不思議ではありません。

「おんな城主直虎」(2017年)では、光秀に信長暗殺を持ち掛けられた家康が悩む、というシーンが描かれています。

理由は1つあるいは複数が組み合わさっているかもしれない


本当の理由は、これからも分からないのかもしれません。ここに取り上げた説も1つだけではなく、いくつが絡み合っての挙兵だったのかもしれません。

きっとこれからも、本能寺の変が登場する作品は数多く発表されることでしょう。

歴史ドラマや小説・漫画を楽しむ側としては、様々な説の概要を把握しておき、

・この作品はこの説を採っているんだ
・この作家はこの歴史家の説を重視しているんだ
・説の組み合わせがおもしろいな

といった楽しみ方をしてみるのはいかがでしょうか。

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