「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」徹底解説!|予習・復習はこれで完璧!
本能寺の変と山崎の合戦・明智光秀に関することわざ・慣用句・有名な言い回しの紹介
スポーツのリーグ戦でわずか数日だけ首位になり、また陥落したときに、メディアで「三日天下」と語られることがあります。
じつはこの三日天下という言葉は、本能寺の変のあと、あっというまに秀吉に討たれた光秀のことを指した言葉なのをご存じでしょうか?
このように、本能寺の変とその前後には、私たちがふと使ってしまうような言葉がいくつも生まれ・使われています。
そうした言葉や慣用句、本能寺の変では欠かせない言い回しをご紹介します。
敵は本能寺にあり
本能寺の変を起こす光秀が描かれる際に、まず100%使われるセリフです。発せられた場所やタイミングは様々ですが、
「我々はこれから秀吉の救援に向かうのではない、信長を討ちに行くのだ」
という意味合いで使われることが多いようです。
本能寺の変の直前、明智光秀は本拠地から南下して、秀吉の救援に向かうことになっていました。兵士が何も知らなければ、どこかの分岐点で西に折れることで秀吉の救援に向かうのだと自然に理解できる行動だったはずです。
ところが明智軍は、西に折れるべきところで東に折れ、京都を目指すことになりました。
こうしたタイミングで使われたのでしょうか?
是非に及ばず
意味合いとしては「仕方ない」といったところでしょうか。本能寺で光秀の謀反と知った信長のセリフとして有名です。戦上手な光秀が起こした謀反であればじたばたしても仕方がない、と観念しているように取れるセリフです。
武田攻めの後の折檻や安土城での家康饗応でダメ出しをするなど、光秀に対して辛く当たっている信長ですが、本能寺で光秀が挙兵と知った瞬間に「是非に及ばず」では諦めが早いようにも思います。
謎の多い本能寺の変、有名な信長のこの言葉も、さらに深い意味が隠されているかもしれませんね。
人間50年
本能寺の変のクライマックスでは欠かせない、織田信長の好きな歌の一節です。
戦国時代に武士に愛された幸若舞という舞の中に、敦盛という演目がありました。織田信長が敦盛を好んでいたことは信長公記にも記されています。
敦盛の中でも
「人間五十年、化天(下天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
という部分が織田信長を扱った作品にはよく登場します。本能寺の変でも、自刃の直前に敦盛を歌い、または舞いながら死に向かう信長が描かれることは少なくありません。
その織田信長が本能寺の変でなくなったとき、49歳でした。まさに「人間50年」ですね。
心頭滅却すれば、火自ずから涼し
お風呂やサウナで熱さに耐えるとき、こんな言葉を使ったことはありませんか?
恵林寺で焼き討ちにあった快川和尚の辞世と言われています。元々は中国の詩だったと伝えられていますが、日本人に広く知られるきっかけになったのは、間違いなく快川和尚の逸話でしょう。
心の持ちようで苦痛はしのげる、という意味の言葉です。「心頭滅却」と短くすることもありますね。
私たちがなんとなく覚えているのは
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
ですが、快川和尚の言葉が変化して覚えられたものではないでしょうか。
天王山
勝負の分かれ目、頑張りどころ、といった意味で使われます。仕事を得るために大切なプレゼンテーションを行う当日などに「今日は天王山だぞ!」などと使います。
光秀と秀吉が戦った山崎の合戦。その合戦地は今のJR京都駅から南西10キロメートルほどのところにあります。勝つために押さえたいポイントが今も実在する天王山という山でした。
天王山の戦い、山崎の合戦は、同じ戦いを指しています。
三日天下
とても短い期間だけ権力を握っていたことを指す言葉です。リーグ戦などで一時的に首位を取ったチーム・人に対して使うのが一般的でしょうか。
本能寺の変で信長を破った光秀は、羽柴秀吉に敗れるまでは近畿地方の中心部をもっとも掌握している状態にありました。
旧暦6月2日に本能寺の変を起こし、秀吉に敗れた山崎の合戦は6月13日に行われました。つまり、実際には光秀の天下は11日あったのですが、とても短いものの例えとして三日という言葉が使われています。
現代で私たちが使う際も、三日という数字にこだわる必要は特にないでしょう。
洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む
形勢を窺い、有利な方にいつでも加担できるように待つ、小ずるい態度のことを言います。生き残りに懸命であれば、勝ち馬に乗るためにギリギリのタイミングまで情勢を見極めたいものです。そうした立場の人を揶揄する言葉としても使います。
山崎の合戦における筒井順慶の態度がこのようであった、という説から生まれた言葉です。
合戦で明智光秀に助力を依頼された筒井順慶は曖昧な対応を取ります。光秀は洞ヶ峠を訪れて参陣を促すものの、順慶結局どっちつかずで終わった、と言われています。筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった、反光秀を表明していた、などの説もあり、言葉だけが後世まで残っている可能性もあります。
で、あるか
織田信長の口癖として使われる言葉です。「そうか」を言い換えたものとして捉えれば良いでしょう。
元は信長公記(信長家臣の太田牛一が書いたもの)に書かれていました。大河ドラマ「利家とまつ」(2002年)で反町隆史さん演じた信長が多用したことから一般的になったとされています。
その後、信長の口癖的に使われることがあります。変わり種では漫画・アニメ作品「織田シナモン信長」で、輪廻転生により現代の犬になってしまった信長が「で、あるか」を連発していることで信長だと認知しやすい、というものもあります。
時は今
これから大一番を迎えるときに、その気持ちを伝えたり震え立たせたりする際に「時は今」ということがあります。
「ときは今 雨が下しる 五月かな」
という句の頭の言葉です。
これは、本能寺へ進軍する前、光秀が愛宕山(京都府京都市右京区)の愛宕神社で開催した連歌会での発句です。愛宕神社は戦いの神が祀られており、光秀がここで何度もおみくじを引いた、というシーンも複数の大河ドラマで取り上げられています。
この句の解釈も様々な歴史家によって試みられています。「とき」という言葉が、今こそ謀反の時、という「時」と、光秀の出自である「土岐氏」の「土岐」のかけことばではないか、と見られている説は有名です。
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