2021年06月18日

【映画VS原作】『映画大好きポンポさん』が映像化の理想形だと感じた理由

【映画VS原作】『映画大好きポンポさん』が映像化の理想形だと感じた理由


「そんなシーン、キャラ知らん」と言わせないオリジナル展開



原作との見事な相乗効果を見せてくれた劇場版の『映画大好きポンポさん』。一方で、原作ファンから厳しい目が向けられてもおかしくない、オリジナル要素が組み込まれていたのも印象的でした。

原作があっても、映像作品向けに少し話の構成を変えたり、キャラクターの心情などを補完するシーンを追加することは珍しくありません。原作に忠実に作られていると好評な『鬼滅の刃』も、第23話では原作にはなかった柱合会議の様子を組み込んでいます。このオリジナル展開は、原作ファンが「そこが見たかった!」と思う範囲の補完だったため、むしろ歓迎されていました。

しかしそうならないことが多い、映像化オリジナルの展開。しかも本作においては、追加されたシーンもキャラクターも、3分の1以上を占めるくらいの大きな存在感を放っていました。こうなると、「別作品だ」とツッコまれかねないリスクが伴います。

ただこの映画においては、追加されたオリジナル展開によって、原作から受け継がれているキャラクターたちの言動の説得力が磨き上げられているような感覚がありました。

追加シーンに宿るジーンのブレない意志

原作漫画と大幅に異なる点としてあげられるのが、ジーンの編集から続くシーンです。原作だとジーンは、編集の軌道修正にすぐ取り掛かっているように見えます。しかし劇場版でのジーンは編集に頭を悩ませた挙句、進めていた作業を一旦全部リセット。ポンポさんに追加撮影を願い出るのです。


彼が追加撮影をしたいと言ったのには、ペーターゼンのアドバイスが大きくかかわっています。

“君の映画に君はいるかね?”
※『映画大好きポンポさん』(©2020 杉谷庄吾【人間プラモ】/KADOKAWA/ 映画大好きポンポさん製作委員会)ペーターゼンのセリフより

映画以外のものを切り捨て、映画のためだけに生きてきたジーン。彼は誰よりもきっと、映画の中に自分を見い出し、夢を見て、救われてきた人物です。

なぜ映画に自分が動かされてきたのか――。その答えを自分の中に求めた時、かつてのジーンがそうだったように、映画を通して誰かを救いたいという想いが彼の中に強く芽生えます。そしてその想いを届けるために必要な、「夢のために捨ててきたもの」を描いていないことに気づき、追加撮影に挑むのです。

しかし「ポンポさんのために作った映画」が「その他大勢を救う映画」となってしまうこの展開に、「“90分”の必要性が薄まってしまう」という不安を感じた人もいるでしょう。劇場版のポンポさんは、原作を存分にいかした描写を追加することで、この不安も解消してくれました。

原作の2巻でポンポさんは、映画ファンの目線で映画に心を震わされた経験が一度もないと語っています。劇場版ではこの過去を、ポンポさんの夢として昇華しているのです。

ポンポさんは劇場版で「心から感動できる映画と出会いたい」と願いながらも、それは自分の力ではできないと断言しています。これは「自分の夢の実現には、夢を託せるパートナーが必要」と言っているともとれます。そしてその最有力候補となったのが、ジーンです。彼は「MEISTER」の脚本をはじめて読んだ時、ポンポさんが撮りたいと願ったシーンを、一番いい場面としてあげました。その瞬間にポンポさんは、夢を託せる相手としてジーンに可能性を見い出したのでしょう。



夢は本来、自分で叶えるものです。本当に実現したい夢であればあるほど、人に託すのには勇気がいるでしょう。ところがポンポさんはジーンごと夢にして、映画作りを徹底的にサポートするのです。その姿からは、人を自分の夢に巻き込む覚悟と狂気が滲み出ていました。

加えて劇場版には、エンドロールを最後まで観ずに映画館をあとにするポンポさん風少女のシルエットが繰り返し登場します。そのシルエットは、ポンポさんだと、明確に示されているわけではありません。ただ映画人としての目を養ってきたがゆえに、純粋に作品の世界にのめり込めない彼女の象徴であるのは確かでしょう。ジーンはその女の子に「時間を忘れて映画に没頭する時間を届けたい」と願い、追加撮影へと突き進みます。

この追加描写があったからこそ、ポンポさんが「MEISTER」を最後まで見届けたあと述べた感想に、映画人ではない彼女の本心が宿っていたように見えました。そしてその本心を引き出せたという描写に、この映画はあくまで「ポンポさんに見てもらうために作った」という、ジーンの一切ブレない意志を改めて強く感じるのです。

“普通”なアランの存在

原作にはない要素の2つめにあげられるのが、劇場版オリジナルキャラクターとして登場した、メガバンクに勤めるアラン・ガードナー(以下、アラン)です。彼はジーンとハイスクール時代の同級生ですが、当時はほとんど接点のなかったキャラクターとして描かれています。

そんな彼が映画の中で活躍を見せるのが、スポンサーに降りられピンチに陥ったジーンの映画を救うシーン。アランは一度断りかけていた映画の融資依頼を引き受け、銀行上層部へのプレゼンに挑み、見事結果を残します。

パンフレットによると平尾監督は、創作者以外の一般の人にも届くものにするために、アランのストーリーをサブプロットとして取り入れたいと原作者の杉谷庄吾氏に打診したそうです。

創作に携わる人々の狂気と熱狂を描いているところが支持されている原作。そこに一般層受けとも取れるサブプロットを取り入れるとなると、話がブレてしまう可能性も大いにあります。アランの存在は、一種の賭けだったのではないかとすら思えます。

ただ彼は、劇場版のポンポさんに無くてはならない存在だったと、断言させてください。

まず作り手には、映画を通して伝えたいことがあるわけです。つまり映画は、“作り手ではない人”がいてはじめて完成するものだということ。アランは『映画大好きポンポさん』の世界観でこれまでは見えていなかった、“作り手ではない人”であり、映画を完成させるためのキーパーソンだったと思うのです。

実は、メガバンクに就職できたことに満足しただけで何も残せていない自分に嫌気がさし、仕事を辞める意思まで固めていたアラン。そんな彼の目に留まったのが、ジーンの映画の融資案件でした。

高校時代の彼は、自分の世界に閉じこもっているジーンに対して「下ばかり見てないで前を見ないと大事なものを落とすぞ」と声をかけています。それが今やジーンは、夢の実現するために、ただひたすら前へ進もうとしているわけです。置かれている場所でくすぶっているアランにとってジーンは、大きな希望と少しの嫉妬の対象として映ったのでしょう。

とはいえ、ジーンの映画の融資案件は、無謀な挑戦でした。世間から見たらジーンの映画は、「新人監督のわがままのせいでスポンサーが降りた作品」だからです。

ただアランは、あがきます。プレゼンでは会議の様子を全世界に配信し、クラウドファンディングと連動させ、作り手ではない人たちの期待を数字として見せるという博打を打ちます。失敗すればクビという窮地に飛び込み、がけっぷち映画の狂気に自ら巻き込まれに行くその姿からは、彼の大きな覚悟が伝わってくるでしょう。

この「ジーンを応援する」という覚悟は、多くの人の共感を呼び、そして銀行頭取の心を動かします。この瞬間、彼の中に「銀行員として夢を追う人を応援する」という新たな目標が生まれたのです。

“フォーカスが絞られて作品の輪郭がグッと立つ”
※引用:映画大好きポンポさん(杉谷庄吾【人間プラモ】/KADOKAWA) chapter5 P.108 コルベットのセリフより

コルベット監督は、先述の「一番見てもらいたい人のために作ればいい」という言葉のあとに、こう続けています。

「MEISTER」は、ジーンの「ポンポさんに映画の世界にのめり込む体験を届けたい」という軸となる想いがあったからこそ、作り手のメッセージを含む見てほしいポイントが多くの人に届く作品となったのでしょう。その想いが届いた結果が、アランの新たな一歩であり、ニャカデミー賞受賞なのです。

ただひとりのために作った映画が、誰かの心をも動かし、大きなムーブメントとなっていく――。
劇場版の『映画大好きポンポさん』さんは、映画が持つ「娯楽にとどまらない人を動かす力」をも見せてくれました。

劇場版から原作へのリスペクトが生みだしたもの

劇場版『映画大好きポンポさん』からは、原作へのリスペクトがヒシヒシと伝わってきました。その想いがなければきっと、オリジナルシーンとキャラクターの存在が的外れに終わっていたはずです。

原作が大事にしている意志を絶対に忘れず、ブレさせることなく、それをより伝わりやすく研ぎ澄ませるオリジナルストーリーを大胆に取り入れた劇場版。

この二者の理想的な関係性はこれから先、新たに生まれる原作付きの映像作品にも引き継がれていくといいなと願わずにはいられません。

(文:クリス)

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