『アーヤと魔女』はなぜ厳しい評価がされるのか?見方を変えてみてほしい「5つ」の理由
5:『千と千尋の神隠し』と対照的なシーンがあった
『アーヤと魔女』は過去のジブリ作品とは全く性質の異なる小さな作品であると前述したが、存分に「ジブリらしさ」を感じるポイントもある。たとえば、「少女が魔女の元で暮らし始める」という点は『千と千尋の神隠し』と同じだ。そちらの主人公の千尋が初めこそ「周りに流されてしまう立場」だった点と対照的に、『アーヤと魔女』のアーヤは徹頭徹尾「物怖じしないしたたかな性格」になった。少女が新しい住まいで働き出す、しゃべる黒猫が相棒となることから、『魔女の宅急便』を思い出す方も多いだろう。そして『千と千尋の神隠し』と対照的でありつつも通じている『アーヤと魔女』で大好きなシーンがある。それは、アーヤがついに「奴隷じゃないって言っているでしょ!」と不満を爆発させた後のこと。アーヤはベラ・ヤーガに頭を叩かれてしまった上に、魔法を教えてやるものかと改めて言われたため「あっそう。よくわかったわよ」と答えるのだが、その後の昼食で、アーヤはテーブルに出されていた、孤児院で出されていたシェパーズパイを、じっと見つめるのだ。
このシーンでのアーヤは、涙をグッと堪えているようにも見える。何でも自分の思い通りに大人たちを操れた孤児院とは違って、ここではぜんぜん大人が言うことを聞かないばかりか、一方的にこき使われて、しかも暴力までふるわれ、そして「魔法を教えてもらう」という希望も打ち砕かれてしまう。そんな絶望的な気持ちの中に、「いつものおいしいシェパーズパイ」を見つめる彼女の心境は、どれほどのものだったのだろうか。
ここで思い出すのが、『千と千尋の神隠し』で、千尋がハクにもらったおにぎりを美味しそうに食べて、泣き出してしまうシーンだ。ぜんぜん知らない場所で、大人たちに翻弄されてしまった幼い女の子が、「やっといつもの美味しいご飯」を食べただけでも泣いてしまうのは当然だろう。でも、アーヤは泣かなかった。そこから、彼女のたくましさ、そして健気さが伝わり、心から彼女を応援したいと思ったのだ。
ちなみに、『アーヤと魔女』の原作小説を読んでみたところ、このシェパーズパイを見つめるシーンでは、アーヤの心理が「うそでしょ!と思いながら、お皿の上のパイを、じいっと見つめた。怒りと、子どもの家(孤児院)に帰りたい気持ちで胸がいっぱいになって、ほとんど食べられなかった」と書かれている。映画では、言葉に頼らない、さらに辛いアーヤの心境が伝わってきたので、その意味でも映画化の意味があったと思うのだ。
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