Netflix韓国ドラマ「その年、私たちは」で深く突き刺さった7つのセリフ

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すべての片思い経験者へ、あるいは人生が孤独でつまらなくて仕方なく生きていると感じている人へ、Netflix「その年、私たちは」をおすすめしたい。珠玉のセリフを7つお届けする。

→「その年、私たちは」Netflix配信ページ

ポタポタと降り注ぐ雨のように、徐々に胸に溜まっていく切ないストーリー

この物語をシンプルに説明すると、

「学生時代の元恋人と5年ぶりに再会してヨリを戻す話」である。

学生時代、学年1位の成績だったクク・ヨンス(キム・ダミ)と、267人中267位だったチェ・ウン(チェ・ウシク)は、教師の薦めで「学年1位とビリが一緒に過ごす」という趣旨のドキュメンタリー番組に出演(番組のタイトルが「賢い学生生活」というのも、「賢い医師生活」ファンには嬉しい演出だ)。

初夏の爽やかさと幼さの残る可愛らしい映像は、時を経ても色褪せることがない。

映像が再び話題となったことをきっかけに、10年後の現在を撮る企画が立ち上がる。

2人は最初のドキュメンタリー出演後に恋人となり、既に別れてから5年が経っていた……。

涙あふれる切ない物語

淡々とした語り口調のナレーションと、ありふれた男女の恋愛模様。

なのに、この胸に迫る切なさと溢れる涙は、一体どこから来るのだろう……。

まずひとつ理由を挙げるとしたら、このドラマそのものをある種のドキュメンタリーとして観てしまうから、かもしれない。

「変わらない生活を送る人々に自分の姿を重ねることで、これが生きるってことかと気づかされる」

あるテレビ局プロデューサーのセリフである。

「その年、私たちは」は、ドキュメンタリーの撮影をベースにストーリーが展開していく。

そして、登場人物ひとりひとりに自分を重ねてみることができるのだ。画面の向こうで泣いているキャラクターを、いや、過去の自分をも一緒に抱きしめてあげたくなる。

この共感性の高さこそ、溢れる涙の最大の理由なのだとおもう。

–{切なさや優しさに共感しすぎるセリフたち}–

切なさや優しさに共感しすぎるセリフたち


「もしかして私に言ってる?」と思わずハッとするような気持ちのシンクロや、もやもやした感情を代弁してくれるセリフ。

筆者がドラマへの没入感を高めることになったセリフを7つ紹介する。

「つらかったと言ってもいい」

(6話:ウンがヨンスへ伝えた言葉)

周りに弱音を吐き出せない人は多い。相手がそれを受け入れるかどうかは関係なく、ただ、口に出せないのだ。

意地っ張りで素直になれず、自分の不幸を彼に見せたくなかったヨンスは、たった一言「つらい」と言えない代わりに、残酷な言葉で別れを告げた。

一方で、付き合っていたころから素直に謝ることができない彼女に「僕には謝っても平気だ」と優しく諭してきたウン。彼女の本心を引き出そうとする姿勢は、別れてからも変わらない。

「私さえ揺るがなければいい。平気なフリをすればいい。」

(9話:ウンへの気持ちを隠し通そうとするヨンスの覚悟)

自信満々に耐えていたのに、それがいとも簡単に崩れてしまったのは未練の残った相手だから。

再会して、顔を見ただけで気持ちがブレるほどの未練。そんな相手の真意の読めない行動に自信を失くす。

それでも覚悟を決めていなければ、とても耐えられない時間があった。崩れてしまえば意味はないのだけど。

「最初からひとりなのは、慣れてるから平気です。でも誰かを失うのは、二度とごめんです」

(9話:ヨンスと同じく、気持ちの揺れているウンのモノローグ)

人が臆病になるのは、その経験を通してつらい思いをしたことがあるからだ。

もともとひとりで居るのと、誰かを失ってひとりになるのとでは、天と地ほどの差があって、同じ”寂しい”でも、ずいぶんと意味合いが違ってくる。

ひとりきりで取り残されるつらさを知っているウンが呟いた「ひとりでいるのが楽なんだ」というセリフも、深く頷ける。

–{4つめのセリフは10話ででたあの本音}–

「友達にはなりたくない」

(10話:ウンからの「友達になろう」という提案を、一旦は受け入れたヨンスの本音)

別れた恋人と友達になれるか?という問題は、世界共通らしい。

友達になりたいという言葉は、本当にそうなりたいわけじゃなくて、友達という名目で相手のそばにいたいという思いからきている。

筆者のバイブル的少女漫画「天使なんかじゃない」の主人公・冴島翠も、一度別れた恋人の晃に「友達やろうね」と、言っていた。

その後の関係を「少し淋しくて、その分優しくなれる、プラマイゼロのちょうどいい関係」としつつも、結局は「晃を失わずにすむギリギリの手段だった」と気づくのである。

つまり、本当の意味で友達になどなれないのだ。

どちらかに未練がある限りは。

「僕だけを愛してくれる君に、会いたかった」

(11話:再会してからつかず離れずだった2人の距離を一気に縮めたウンの告白)

好きな人に会いたいと願う気持ちの中には、自分と同じ気持ちでいてほしいという願望が含まれているのかもしれない。

だって、その人にとって自分の存在があまりにも軽く感じられてしまったら、悲しくて、腹立たしくて、「会いたくなかった」と思うに決まってる。

好きな人に好かれるって、一体どれほどの奇跡なんだろうと、つくづく実感してしまう。

「今までずっと会いたいと思ってた。君が戻ってきたとき、目の前にいる君になぜか腹が立って、憎かった。……僕は君に愛されたいんだ。僕だけを愛してくれる君に、会いたかった。」

個人的に、これは数ある韓国ドラマの告白シーンの中でもかなりグッとくるセリフだった。

11話はエピローグも絶対に見逃せない。

1話からすべてのエピローグが物語に深みを出す重要な役割を担っているのだが、こと11話に関しては……いや、ここでは何も言えない……。

「片思いに終わりがあるなら、今であってほしい」

(12話:今度こそヨンスへの気持ちを諦めたいジウンの、痛切な思い)

ヨンスとウン、2人の10年後のドキュメンタリーを撮影することになったのは、テレビ局のプロデューサーとして働いているキム・ジウン(キム・ソンチョル)だ。10年前の番組を撮影していたのは、今の上司である。

ジウンはウンと小学生からの親友であり、最初の撮影時に2人と同じ学校に通っていた。そして、出会ったころからずっと密かにヨンスへ思いを寄せている。

韓国の間宮祥太朗とでも言うべきか、このキム・ソンチョル演じるジウンの“2番手”っぷりは素晴らしい。

幼いころの母親との関係で、「自分が不必要なかけら」なのだと思い込んでしまったジウンは、感情を抑え込み、自ら求めることをやめた。

ヨンスへの片思いも、「苦しみながら好きでいることに慣れて、すごくつらくても、まるで平気な気分になれる」のだという。

決して気持ちがバレるようなことはしない。自分から思いを口にすることもない。

実行し続けるのはとても簡単じゃないその徹底した姿勢を保っていられるのは、唯一の友達を失いたくないから。

幼いころから時間、日常、家族までもを分け合って過ごしてきたウンとでさえ、ヨンスに対する気持ちだけは共有できるものじゃないから。

「片思いをしてみたら、自分が特別な人間になった気分だった」

(12話:ウンに惹かれていたNJ(ノ・ジョンウィ)が初めての片思いをジウンに語るシーン)

会うと気分が晴れる相手がいるという幸せ。誰かを好きになると、幸せのハードルが低くなって、なんてことない日常を愛おしく感じたり、ちょっとしたことで嬉しくなって、ついつい顔が笑っていたりする。

そういうキラキラした瞬間があるのもまた、片思いのもつ魅力だ。

片思いはつらく、苦しいというイメージが強いが、本当にそうなのだろうか。

いつまでも叶わぬ思いを抱え続けるのは確かにつらい。だけど、幸せな気分になれたことを喜び、時機を見て自ら気持ちに折り合いをつけることができるのも片思いまでだ。

相手が気づいてさえいなければ、それこそずっと友達でいることも可能だろう。

ただし、この考えが行きつく先は「ひとりが楽」しかない。

決して「우리(ウリ:”私たち”という意味)」にはなれない。

このシーンでNJが繰り広げる激しい感情の浮き沈みは、片思いのもたらす両極端な性質を完璧に代弁してくれるものだった。

他にも、NJがウンへの気持ちに悶えてジタバタしている様子は「あぁ~、わかる……わかりすぎる……!」と、こっちまでジタバタしてしまうほどの可笑しさで、全然憎めない。

どうしたって「2人の邪魔をする悪役」にはならないのがNJの最大の魅力だろう。
–{「その年、私たちは」は単なる「学生時代の元恋人と5年ぶりに再会してヨリを戻す話」ではない}–

「その年、私たちは」は単なる「学生時代の元恋人と5年ぶりに再会してヨリを戻す話」ではない


咄嗟に目をそらす・わざと睨みつけるように見つめる・思わず目で追ってしまう・そっと見つめた横顔が、寂し気に視線を送る先……。

目は口程に物を言うとは良く言ったもので、それぞれの思いを乗せた視線の描き方が素晴らしいのも、見どころのひとつだ。

視線を向けた先の横顔が、誰を見つめているのか気づいた瞬間の動揺。

自分を見ていないことを、思い知らされた瞬間の惨めな気持ち。

少なからず経験のある心の揺らぎに、深く感情移入してしまう。

また、周りで見守っている家族や友人が向ける視線にも涙腺が弛む。

心配だよ、信じているよ、安心して大丈夫……。そんな声が聞こえてくるような眼差しに、涙が込み上げてくるのである。

さて、ここまで「その年、私たちは」がどれだけの切なさ要素を含んでいるのかをつらつらと述べてきたが、ドラマそのものは実に軽やかに進んでいく。

映像は明るく美しいし、音楽も心地よく耳に残るものばかり。

特に8話の雨のシーン。突然の天気雨でキラキラと輝く雨粒が2人に降り注いで、まるで魔法がかかっているみたいだった。

共感性の高いセリフと映像美に彩りを加える音楽の数々。

流れる涙のデトックス効果も相まって、観ているだけで癒されている自分に気づくはず。

みんな、孤独を感じて生きている。

自分だけが仲間に入れていないような気分になることもあるし、ひとりだけ置き去りにされている感覚を味わう日もある。

誰にも知られぬまま傷ついて、そっと泣く夜もあるだろう。

あるいは、自分にはこれといった目標も欲もなく、ただ淡々と日々を繰り返しているだけのつまらない人生だと嘆いているかもしれない。

誰もが抱えるその寂しさを、しっかりと受け止めて生きてきたのがこの話の主人公たちである。

むやみに誰かに自分の不幸を吐き出したりせず、周りのせいにすることもなく、ただじっとひとりで耐えて生きてきた。

そうやって傷ついたままの心でも誰かを思いやることができるし、誰かの傷を癒すことができるのだ。

一見ありきたりな恋愛模様の裏でしっかりと描かれているそれぞれの孤独こそ、胸に迫る切なさの最大の理由だろう。

そして、「今の生き方を続けたい」と願ったヨンスのように、自分の足で、自分を主軸にして、周りにあるはずの幸せを見逃さずに生きていけたら。

そんな希望を残してくれたハッピーなエンディングに、心の底から感謝したい。

(文・加部)

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