(C)2022「バブル」製作委員会
(C)2022「バブル」製作委員会

アニメ

REGULAR

2022年05月29日

アニメ映画『バブル』を全力で称賛&解説|“マイノリティー”と“世界の肯定”の物語だった

アニメ映画『バブル』を全力で称賛&解説|“マイノリティー”と“世界の肯定”の物語だった


(C)2022「バブル」製作委員会

>>>『バブル』画像を全て見る(12点)

『バブル』ほど不遇な評価を受けたアニメ映画は、未だかつてなかったのではないだろうか。

筆者は、そう思うほどに、本作のことが大好きだ。それどころか、一生大切にした作品になった(一緒に観ていた5歳と6歳の甥っ子も気に入っていた)実際に、劇場公開が開始してからは、SNSでスクリーン映えをするアクションや映像表現はもちろん、作品を奥深く読み込んだ上での賞賛の言葉も相次いでいる。

だが、本作はNetflixでの先行配信が開始してすぐに悪評が悪評を呼んでしまった、評判そのものが一時的に負のスパイラルに陥ってしまっていた印象がある。詳しくは後述するが、本作は人によってはネガティブに捉えやすい、拒絶反応を覚えやすい特徴が確かにあり、否定的な意見も十分に理解できる。映像に没入しにくい家で観る環境では、表面的な要素ばかりが捉えられやすかった、ということもあるのではないか。

だが、本作に限らず「周りの評判が悪いから観ない」というのは、とてももったいないことだ。圧巻の映像表現やアクションはもちろん、物語としても間違いなく「ささる人にささる」内容であり、現実で生きる力を得る人もいるはずだ(筆者がそうだ)。そうでなければ、今になって「評判の悪さは聞いていたけど観てみたら面白かった」「良い映画じゃないか」といった意見が、これほど多くあがることはないはずだ。

そして、『響け!ユーフォニアム』などで知られる武田綾乃によるノベライズ版が、掛け値なしに傑作だと断言できる内容だった。キャラクターの掘り下げ、重要なエピソード、示唆に富む哲学的な問答、気になっていた設定が事細かに書かれており、映画だけではモヤモヤしていたところが、全て「好き」へと変わっていったので、ぜひ多くの人に読んでほしい。何より、後述する“普通”になれないマイノリティーとしての悩みを持つ主人公のヒビキの気持ちがより深くわかって、彼のことが大好きになった。読んだ上でもう一度映画を観て、そして泣いた。

現在、『バブル』は公開3週目にしてほとんどの映画館で1日1回のみの上映となってしまっているが、まだ間に合う。可能であればスクリーンで堪能してほしいと、心から願う。その理由は、アクションやボイスキャストの魅力も解説した、以下の記事も参考にしてほしい(ちなみに、Netflix版と劇場公開版ではオープニング映像が異なっている)。

【関連記事】
『バブル』日本のアニメ映画史上最高峰の“体験”ができる「5つ」の理由

Netflixで観る場合も、スマホやタブレットではなく、できる限り大きなモニターと優れたサウンドシステム(ヘッドホン)を用意してほしい。以下からは、筆者が本作を繰り返し観て、やっと気づくことができた、大好きになれた理由について、初めはネタバレなしで、途中からネタバレを含めて、たっぷりと考察・解説をしていこう。



1:“普通”には生きられない、マイノリティーたちの物語

『バブル』の劇中では、謎の“降泡現象”により荒廃した東京の街で、危険なパルクールのバトルをしている若者たちの姿が描かれる。重要なのは、彼らが“普通”には生きられない、だからこそ、この地にいるということだろう。

例えば、劇中では彼らの多くが身寄りを失った孤児であり、本来は不法滞在者でありながら特別に免除されていること、年長者のシンからは「外の世界はあいつらにとって息苦しいのさ」ということが語られている。

(C)2022「バブル」製作委員会


加えて、キャラクターの中には何らかの欠落や障害を抱えた、あるいはそれに類する者がいる。主人公のヒビキは聴覚過敏のためにヘッドホンが手放せない。シンは事故により片足が義足になっている。アンダーテイカーのリーダーはAI音声のみで話す。関東マッドロブスターのリーダーは柔らかいグッズ(おそらく「ライナスの毛布」的なもの)の匂いを嗅いでいたりもする。そして、ヒロインのウタは人ならざる存在であり、触れられると消えてしまうかもしれない(ハイタッチを拒んでいたりする)ことも描かれている。

彼らがずっとそのパルクールに興じているばかりでいられない、いわゆる「モラトリアム」の状態であることも、主人公のヒビキの「いずれここは出ていく、でも今すぐは行けない」というセリフからもわかる。リーダーのカイが「海技士試験」の問題集を読んでいるのは、現状で船の運転をするためだけでなく、自分の将来を考えているからではないか。

「変わってしまった世界で今できること」、劇中の若者たちにとって、荒廃した東京の街でのパルクールは、まさにそれだったのだのだろう。もちろん、東京の外の世界、マジョリティー側で生きることもできるはずなのだが、彼らはそうしなかった。いや、そうできないでいたのだろう。『バブル』はそんなマイノリティーである彼らの、そして主人公のヒビキが(後述もするが)“自分”を肯定できるようになるまでの物語でもあるのだ。

2:変わってしまった世界で“できることをする”若者たちの姿

『バブル』の「未曾有の事態により変わってしまった世界(東京の街)」はコロナ禍の現実を思わせるし、彼らが(退廃的であるが)美しいその場所で、パルクールでできる限りの力を発揮する様は、「NEO合唱」と銘打たれた2020年のポカリスエットのCMも連想した。コロナ禍の初期にリモートでしか会えないことを逆手に取って、「今」だからこその表現をする若者たちの姿は、とても感動的だ。



もちろん、ポカリスエットのCMとは違って、『バブル』の劇中の若者たちは誰かに見せるためにパルクールに興じているわけではないし、犯罪行為までして世界中に配信するアンダーテイカーはむしろ明確に不快な存在として描かれていたりもする。だが、この「映画」を観ている観客には、やはりパルクールをしている姿そのものが、美しいものとして映る。

『バブル』の企画はコロナ禍の前にスタートしており、その現実の世相を鑑みたものではないのだが、変わってしまった世界(東京の街)も含めて、その世界でこそできることを全力でやり切る人々が、輝かしく尊いものとして思えること。それが『バブル』が目指したことのひとつなのではないか。

※これより『バブル』の結末を含む本編のネタバレに触れています。鑑賞後にご覧ください。

無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。

無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。

(C)2022「バブル」製作委員会

RANKING

SPONSORD

PICK UP!