映画コラム
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観て「ひどいこと」を考えてしまった、でも「この物語で良かったんだ」と思えた理由
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観て「ひどいこと」を考えてしまった、でも「この物語で良かったんだ」と思えた理由
3:たった一度きりの出会い「だけではない」奇跡も描いている
そして、今回の劇場版でヴァイオレットは、ギルベルトの住む島で嵐に見舞われる最中、電報で少年ユリスの危篤を知る。まさに、ギルベルトに執着……いや「愛している」ために、仕事の依頼者の希望を叶えることができない、「指切り」までした約束を破ってしまうかもしれない、大きすぎる犠牲を生みかねない事態に遭遇してしまうのだ。だが、同僚のアイリスやベネディクトの機転、そして将来は手紙に取って代わる連絡手段の電話のおかげでユリスは友達に、そして手紙で両親と弟へも想いを伝えることができていた。
ヴァイオレットは良き仲間と巡り会えていた、そして自身の仕事を奪うかもしれない、ちょうどその頃に普及しつつあった電話にもまた助けられていたのだ。(さらに言えば、そもそも手紙の代筆の仕事をしていたからこそ、ギルベルトの筆跡の手紙を見つけることができてもいる)
物語の最後では、デイジーのモノローグで、ヴァイオレットは受けていた仕事を全て終えてから郵便局をやめたこと、おそらくは島でもみんなの手紙を代筆したのであろうことも告げられている。その島の切手にはヴァイオレットの肖像画があり、木にはリボンが縛り付けられていて、郵便局員の男性の肩には「良き自動手記人形の証」であるブローチもつけられていた。
そうしたさまざまな巡り合わせがあってこその「ヴァイオレットが生きていた証」があること、ひるがえって彼女の人生はきっと幸福であったのだろうと思えることは、もはや奇跡と言ってもいいのではないか。
そう思えば、本作で祝福されるのは、「たった一度きりの出会い」をした想い人と再会し結ばれることだけではない。前述した通り「愛している」に危うさはあるが、ヴァイオレットはさまざまな奇跡的な巡り合わせの結果として、そうはならなかった。未来ではなくなっている手紙を代筆する仕事に就いて、多くの人と出会い、手紙を届けられ届けた、自身も他者も幸福にしてきたヴァイオレットの生きた足跡や人生そのものへの肯定なのだと思えたのだ。
4:ギルベルトへの怒号は共感度120%、でも……
もう1つの重要な視点として、ギルベルトがヴァイオレットを少女兵、いや「武器」として利用していたことに、重い罪悪感を背負っていた、だからこそ自身の存在を誰にも知らさせなかったということがある。筆者はヴァイオレットがギルベルトの命令が全てのように思ってもいたからこそ、彼の元に帰ってほしくはなかったと前述したが、それはギルベルト自身も願っていたことでもあるのだ。その気持ちももちろんわかるのだが、自宅の外で雨の中で待ち続けるヴァイオレットに「帰ってくれ」と(命令を守り続けていた彼女に)言い放ち、全く受け入れようとしないギルベルト……。劇中で「保護者」「過保護」といじられていたホッジンズと同じ目線でいた誰もが「この大馬鹿野郎!」の怒号へ120%の共感度を示しただろう。
その後の兄のディートフリートからの「(謝ろうと思っていたが)今は麻袋に詰め込んで、お前をヴァイオレットの前に放り出したい気分だ!」にも「実際に詰めろ」と思ったことも言うまでもない。そんなふうに、この映画を観ている観客も同調するであろう、ギルベルトへの怒りを思いっきり代弁してくれるキャラクターがいるのも本作の良いところだ。
さらに、大馬鹿野郎と思ったのはそこだけじゃない。ギルベルトは「幼かった彼女がもっと楽しい時間を過ごせるように、可愛らしいものをいくつしめる、美しいものに、心躍らせるように、そんな時間を過ごさせてやりたかった」とまたも後悔を語っているのだが……手紙の代筆の仕事をしているヴァイオレットは、第5話では可愛い王女様もいつくしんでいたし、他にもたくさんの美しい人やものに触れたりして、とても大切な時間を過ごしているんだよ!今からでも遅くないんだよ!誰か教えてやれ!とさらに怒りたくなったのだ(良い意味で)。
だが、もしかするとギルベルトも自分が生きている(=ヴァイオレットへの罪悪感を持ち続ける)ことに絶望をしていたのかもしれない。ともすれば、この劇場版はギルベルト自身が、これからどう生きていくかの決断をする物語でもある。
そして、「大切な人の死を描いてきた」物語の先に、「生きているのに大切な人の願いを叶えようとしない」自分勝手な姿を描くからこそ、相対的にギルベルトに良い意味での怒りを覚える内容にもなっている、ということではないか。そう思うと、やはり物語の最後にギルベルトの元へ帰着するのは、やはり必然性があるのだ。
また、ギルベルトは島で先生として、とても子どもたちに慕われていた。本質的には、彼は決して自分勝手なだけじゃない、優しい人なのだということ(だからこそ再びヴァイオレットに会うことを恐れていた)、彼もまたこの地で(ヴァイオレットと同様に人々と交流することで)救われていたのだろうと思わせるところもある。
そんなギルベルトの「これまで言葉には出さなかった願い」を、ただ叶えてあげるというのも本作の優しいところだ。たくさんの感謝を告げられたギルベルトは、自身が立派な人間でも、君に相応しくないということを告げた後に、ヴァイオレットを抱きしめる。2人は戦場で出会ったために、相手も自分も傷つけてしまったのだが、もう何のしがらみも無くなった2人が願うのは、たったそれだけのことだったのだ。
エンドロールの最後に、少年ユリスと同じように「指切り」をした2人は、これからもきっと大丈夫なのだと思うことができた。ギルベルトは片腕を失っていて、ヴァイオレットは義手となっていて、彼らは戦争で精神的にも物理的にも傷ついていたが、それでも「残されたもの」で(おそらくは生涯を共にするという)一生ものの約束ができたのだのだから。それは、これまでの「命令」とは全く違う、愛する人への「願い」でもあるはずだ。
勝手な想像にすぎないが、ヴァイオレットは、これまで手紙の代筆の仕事をしてきた中で、ギルベルト以外からもたくさんの「愛している」を学んだことも伝えていたのではないだろうか。それでこそ、彼の罪悪感は(なくなることはないが)和らぐのだろうし、2人は幸福だったのだろう、と。
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(C)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会