『Pearl パール』農場に囚われたファイナル・ガール、ミア・ゴスの映画史に残る地獄の顔面
世の中にホラー映画は数あれど、今後の人生で何度もスクリーン上の光景がフラッシュバックするほど印象に残る作品はそれほど多くない。だが、『Pearl パール』は間違いなく心に刻まれる1本だろう。画面の中で優雅に苦悩し、映画史に残るであろう顔芸を余裕綽々で披露する本作のミア・ゴスを忘れてしまうような人はおるまい。
本作は米国テキサス州にポルノ映画を撮影しに来た若者たちが酷い目に遭う『X エックス』の前日譚で、ポルノ撮影隊を恐怖のどん底に陥れた地獄ババアが、いかにして連続殺人鬼になったかを描く前日譚だ。『Pearl パール』のパールはミア・ゴスが演じているが、実は『X エックス』のパール(以下、ババアパールと表記)もミア・ゴスが配役されており、同時に主人公のマキシーンもミア・ゴスが担当している。
つまりババアパールでポルノ撮影隊を微妙な速度で追い込みまくり、ババアパール地獄から唯一脱出したマキシーンは、言うならば自分自身から逃げていたことになる。ファイナル・ガールが登場する映画の視点は、犯人の視点から被害者たちの視点に移り、最後にファイナル・ガールの視点に移動することが多いが、ポルノサイドを殺害するババアパールもミア・ゴスだし、生き残るマキシーンもミア・ゴスである。そして、『X エックス』から『Pearl パール』では再びパール(notババア)に視点が戻る。ファイナル・ガールから連続殺人鬼へ、なんという無限地獄だろうか。
古き良きホラー・スラッシャー映画を踏襲しつつも、フレッシュなA24謹製の作(ここからネタバレあります)
▶︎『Pearl パール』画像を全て見る本作は視点移動において非常にフレッシュな一方、古き良きスラッシャー映画のお約束を丁寧になぞってみせる。ファイナル・ガールを提唱したキャロル・J・クローバーは、1960年代から1980年代後半のホラー・スラッシャー映画にいくつかの共通点を見出してているが、『Pearl パール』もまた多くの類型に当てはまっている。
例えば、殺人を犯す者は幼少期の母親との関係で心理的な傷を負っていることが多いが、まさしくパールそのものだろう。クローバーは殺戮者の大半は人間だが、サメ、カエル、鳥の大群などに変容する場合もあるとも指摘している。これはパールの殺人友達がワニであることと共通していると考えられる。さらに、凶器は重火器ではなく斧やナイフ、クワなどが使われることが多いとしているが、パールの得物はほぼ「農場にある攻撃力高めの道具」である。
上記のように、『Pearl パール』はホラー・スラッシャー映画のお約束をしっかりと踏襲しているが、単なる「あるある」では終わらないフレッシュさも兼ね備える。ややミュージカル調の演出もパールのヤバさを増幅させるし、どこか浮世離れした色彩感覚も、彼女の不安定さを象徴している。なにせ、暗がりのシーンはほとんどない。まるで往年の洋モノAVが煌々とした陽光の中で撮影されていたように、場違いで悲しいほどの明るさのなか人を殺害していく。
殺人に実質的な重みがないのもいい。決して諧謔やディスではなく、凶器や殺人に至るまでの一連の運動は現実味が薄く、まるでババアパールが「ああ、昔あんなことあったわね」と過去を回想しているかのような軽やかさだ。要は脱力しているということで、タイ・ウェストの巧さが嫌味なく伝わってくる。
夢見る少女が連続殺人鬼になる過程を丁寧に描くのかと思いきや
さらにフレッシュなのは、「いかにして老婆はテキサス州の片田舎でヘルハウスを構え連続殺人をするに至ったか」を描くのではなく、「ヤバい奴は最初からヤバい奴なんじゃ」と冒頭からエンドロールに至るまで徹頭徹尾ヤバいボーン・トゥー・ビー殺人鬼だったのかを提示することにある。だが正確には、「既に殺人鬼の素養ができており、助走が終わった段階から物語がはじまる」と表現したほうが正しいかもしれない。
確かにパールには抑圧も葛藤もあるし家庭環境もなかなかのものなので、物語以前に色々あり、既に殺人鬼化が進んでいる状態だと考えるのが自然だろう。彼女は映画の初手から慣れた手付きで動物を殺害するし、劇中で「最初は小さな動物だった」と語る。
動物を虐待し、後に対象が人へと向かうシリアルキラーは少なくない。神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗は、なめくじや蛙などを経て猫への虐待を行い死体を損壊している。伝説的な連続殺人犯、ジェフリー・ダーマーも動物や昆虫などの死体をホルマリンの瓶に詰めて保存していた。
連続殺人鬼の殺害対象が段々と人間に向かっていく段階の定時はベタといえばベタなのだが、現実とも虚構ともつかない世界観のなかでのベタは、テキサス州の青空下で行われる狂気を増幅させる。
農場に囚われたファイナル・ガール
パールは惹句のとおり「スターになるの」と外の世界を夢見るが、結局は農場に戻って来てしまう。彼女は農場に係留され続け、周りをぐるぐると旋回しても中心点は変わらない。農場の引力は強烈で、まるでブルースのコード進行のように堂々巡りで、彼女を決して脱出速度に到達させることはない。
多くのホラー映画では恐怖が終わりを告げ、夜が明けて共同体は再び元の状態に戻る。だが本作では恐怖は継続し、歪な共同体が再形成される。パールと帰還したハワードの物語の解決は、60年後にマキシーンたちがやってくるのを待たなければならない。
農場に囚われ続けたパールは少女から老婆になり、外の世界を謳歌するマキシーンによって殺害される。ミア・ゴスの視点を借りるならば、自分(ババアパール)が自分(マキシーン)を殺そうとし、自分(マキシーン)に殺されるのだ。パールは自分を殺すことに成功し、ようやく農場から開放される。この2作に渡る視点移動は、本作の白眉だろう。
パールの人生はそのままホラー映画のようなもので、自身を脅かす存在や邪魔者を次々と消していく。自らを縛り付ける呪いを断ち切るべく奮闘し、ラストまで生き残る。定義には当てはまらないかもしれないが、彼女もまた紛れもないファイナル・ガールだろう。だが生き残りの褒美としてファイナル・ガールに与えられる贈り物など何もない。
本作はミア・ゴスのキュートも相まって楽しく、比較的ライトなホラー映画の顔つきをしているが、実に恐ろしい作品だ。ラスト・ショットで見せた彼女の表情のように、あまりにも哀しく、欠落している。
(文:加藤広大)
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