生田斗真の渇いた目が潤いを取り戻していくグラデーションが絶妙。『渇水』は“染みる一滴”的な力作だ!
その名は、河林満。第70回文學界新人賞を受賞するも不遇のまま生涯を終えた、知る人ぞ知る名文家だ。数ある著作の中でも、職務に忠実な水道局員が、母親に見捨てられた幼い姉妹と出会うことで葛藤を募らせていく『渇水』(第103回芥川賞候補作にもなった)は、愛読者の間で幻の名篇と名高い。
この原作に惚れ込んで映画化の企画を立ち上げたのが、数々の名匠のもとで助監督を務めてきた髙橋正弥監督。何度も話が座礁しても諦めず、10数年の時を経て『孤狼の血』シリーズの監督で知られる白石和彌による初プロデュースのもと、ついに映画化を果たす。
その主演を担った生田斗真もまた、熱き思いをたぎらせていた。
熱量高いプレゼンを受け、「期待に応えたい」
──髙橋正弥監督と白石和彌プロデューサーとの顔合わせの際、お2人から本作出演への熱烈なプレゼンがあったとのことですが、その熱量の高さをどう受け止めたのでしょうか?
生田斗真(以下、生田):素直にうれしかったですね。本当に長年に渡って大切に……大切につくってきた映画の企画に対する思いを、僕の前で皆さんがお話してくださったことが──。「あなたにこの役を演じてほしいんです」と言われたときの喜びに勝るものはなかったですし、期待に応えたいと思いましたね。
髙橋監督も白石さんも心のどこかに主人公の岩切みたいな思いがあって、胸の痛みであったり、「なんであのとき、ああしなかったんだろうな」っていう忘れられない後悔をずっと抱えて生きてきていて……「俺はこんなことを後悔しているんだ」とか「あのとき、僕は子どもにこんなことを言っちゃったんだよね」とか、そういう話になったりしたんですよ。
そんな風に、それぞれが胸の内に秘めている心の傷みたいなものをちょっと見せてもらいながら、この映画に入っていったといいますか、岩切というキャラクターに落とし込んでいった感じですね。この映画をつくることで、その傷が癒えることはおそらくないんだろうけど、誰かに傷口を見せることで何かしらの助けになる瞬間があったりするんじゃないかなっていう──そんな感覚になりました。
作品に込められた“ビターな呼びかけ”
──劇中で岩切の“心のダム”が決壊するトリガーがたぶん2つあって、同僚の木田(演:磯村勇斗)と飲んだ帰り道で小さな子どもに水鉄砲を向けられる場面と、後半で岩切が山道に滝を見つけて入っていくシーンなのかなと思っていて。両方とも水がモチーフになっているのも作品を象徴しているように感じますが、生田さんはどのような解釈で演じられたんでしょうか?
生田:岩切が心の中に溜めてきて、絶対にこぼさないようにしていた水が、いろいろな人と出会う中で「それでいいんですか? 本当は嫌なんじゃないんですか」と言われることによって、ぶすぶすと刺されて開いた穴からどんどん流れ出ていっちゃうような感覚が、磯村くん演じる木田と飲んだ後に商店街を歩くシーンではありましたね。
そうやって悶々としていた岩切が、あの大きな滝を目の前にすることによって、「そうだよな、もういいよね」と、自分が我慢することも何かに縛られることもなく、彼女たち(※母親のネグレクトで水道料金滞納のために停水執行された幼い姉妹)のもとに走ろう、そして救おうって思うんですけど、実際には何にもできないという──。そうやって何でもない自分に戻ってしまうのが切なかったですね。
──なるほど。ちなみに、岩切が靴を履いたまま清流へ入り、引き寄せられるようにして滝へ近づいていくのは、髙橋監督の演出でしょうか?
生田:そうです。確か、撮影が朝方で……滝の向こう側から陽が昇ってくるような感じだったので、「太陽の光も、この水の流れも無償で人に与えられるものなのに、なんで俺はあの子たちの水道を停めなきゃいけないんだ」っていう岩切の思いを、自分にも実感させてくれたシーンだったと捉えた覚えがあります。
──それによって岩切はあるアクションを起こすわけですが、あの行動を生田さんはどう受け止めましたか?
生田:正直、何かが変わったというわけではないと思うんですよね。でも、このままじゃダメなんだ、何かを変えなきゃいけないんだよっていう思いが何かを動かすこともあるかもしれないなって……。微々たることかもしれないんですけどね。「願えば叶う、努力は報われる」というニュアンスとは違う、「変わるかもしれないし、やっぱり何も変わらないかもしれない」みたいな──ちょっとビターな呼びかけにはなったのかな、と感じています。
水道局員・岩切を演じて
──それこそ、この『渇水』という作品も「映画になるかもしれないし、難しいかもしれない」という状況でしたが、髙橋監督や白石プロデューサーたちの熱い思いが結実した一篇と言えそうですよね。
生田:僕自身も脚本を初めて読んだとき、ただならぬ熱量というか熱気を感じました。原作が30年以上前に書かれた小説で、映画化の企画もかなり前から立ち上がっていたんですけど……いろいろな人の力とか思いみたいなものがプラスされていって、ようやく自分のところにたどり着いたという縁があって。
白石さんも、この脚本に出会ったときに「どんなことがあっても自分が関わって、映画として世の中に提供したい」という思いをお持ちになったことで、初めてプロデューサーを務めることになった経緯をお話してくださったんですけど、僕も同じような思いで今、こうやってお話をさせていただいています。
──そのただならぬ熱量を帯びたシナリオの主人公である岩切が、どことなく諦観のもとに日々を過ごし、職務を粛々と遂行する水道局員という人物であることも興味深かったです。
生田:世の中には規則だとかルールだとかモラルだとか……いろいろなものがあるじゃないですか。でも、大人になっていくにつれて、そんなことを考えずともはみ出すようなことをしなくなるし、決められたことは守るし、やれと言われたことは仕事だからやる、という風に変わっていく。
けれど、そういう日常を繰り返していると、ふと「あれ? これって何のためにやっているんだっけ?」「これ、本当に正しいことなの?」みたいに思うことがあったりもするわけです。そんな風に考えていくとワケが分からなくなってくる瞬間っていうのがあると思うんですけど、そういったことにも蓋をして、知らず知らずのうちに傷つきながら生きてきた1人が岩切なんですよね。傷口が癒えていなくて、まだジュクジュクしているのに、気付いていないふりをしていたら、痛みも感じなくなってしまったという──。
その男の悲哀というか、「なんで、幼い姉妹が住む家の水道を停めなきゃいけないんですか」って同僚に言われても、笑ってごまかして淡々と生きてきた男の切なさがそこにはあるんです。
でも、いろいろな人と出会う日々をおくることによって、「何か違うんだよね。人生って、こういうのでいいんだっけ?」って、思いを堰き止めていた彼の心の中から少しずつ何かが漏れ始めていく。この映画の中では最終的にダムが決壊したみたいに壊れてしまうんですけど、一生懸命にギリギリで何かを堰き止めている男の背中から、そういう空気が出ればいいなと思いながら演じましたね。
問題提起ではない、映画をつくる意味
──岩切にとってもそうだったように、観ている者たちの心を堰き止めていたものを壊す存在として、恵子(演:山﨑七海)と久美子(演:柚穂)の幼い姉妹が挙げられます。彼女たちの芝居も掛け値なしに素晴らしいと感じました。
生田:実は彼女たちには脚本が渡されていなくて、現場ごとに監督がその場その場でセリフを伝えて撮影していたんですよ。だから、「このおじさんは誰だろう、何をしに来た人なんだろう? えっ、水道停められちゃうの!?」といった感じで、その場で一つひとつ、起こる出来事を経験していくという手法でシーンを構築していったんです。
だからなのか、彼女たちとの撮影は割と生っぽい感じでしたね。反対に、そこだけが全体から浮かないように、磯村くんとのシーンであるとか、(姉妹の母親役の門脇)麦ちゃんとのシーンでも生々しさを意識して演じていたかもしれないです。
実は、僕と磯村くんは監督から「姉妹の2人とは、あんまり雑談とかしないでほしいし、できれば馴染まないでほしいです」と言われていたんですよ。水道を停められてしまう彼女たちに対して哀れみや思い入れを抱くのが人情ですけど、岩切は「規則だから、停めなきゃいけない」という線引きをしているので。
その線引きを、役を離れてもしてほしいという意図だと解釈して、彼女たちと一定の距離を保とうとしていたんですけど、無邪気に笑顔を振りまいてくるんです(笑)。ぬいぐるみとか持って僕らのところにやってくるんですけど、淡々と接さないといけないという。それがまた、切なくて──。
きっと岩切も、磯村くんの演じた木田も同じような感情を抱いたんじゃないかなと思いましたし、やりとりが絶妙にリアルで心が痛かったですね。
──映画は地方都市の小さな町で人知れず起こっているシビアな出来事を映していますが、見方によっては現代社会の縮図のようにも捉えられるのかな、と感じたりもしました。
生田:何か少しでも変えたいと思って、誰かが何かしら行動を起こすけど、何も変わらずに1日が終わって、また新しい1日が訪れる……っていうのを繰り返しているのが、多くの人の日常なのかなと思うんですよね。そのループの中には、もちろん自分自身という存在もあって。じゃあ、何が正しい選択なのか、どうするのが正解なのか──? その答えがなかなか見つからないからこそ映画をつくっていて、そういったことが自分の使命なのかなとも思います。
ただ、別に問題提起したいだとか、そういうつもりは全然ないんですけど、この映画を観てくださる方々が作品に触れることによって、いろいろなことを感じてくれたなら、それだけでもありがたいことだなと思っていて。監督も原作とはラストを少し変えていて、光がちょっと見えるような……希望が目の前にやってくる香りがする終わり方にしたいという思いを込められていたので、映画を観終わって劇場を出たときに、普段目にしている景色が少しだけ変わって見えていたらうれしいですね。
(取材・文=平田真人)
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