<リメイク版との比較に>『異人たちとの夏』ノスタルジーとは何か?|『異人たち』公開記念
4月19日(金)より『異人たち』が公開される。本作は、2023年亡くなった小説家・山田太一の小説「異人たちとの夏」を映画化した作品である。
メガホンを取ったのはアンドリュー・ヘイ監督だ。彼は男性同士の恋愛を描いた『WEEKEND ウィークエンド』や孤独な少年が馬を通じて人生と向き合う『荒野にて』といった繊細な人間ドラマを得意としている。
また、この作品は主人公のセクシャリティを変更して描いているとのことで話題となった。山田太一といえば、ドラマの脚本を一字一句変えないことで知られているのだが、何が起こるか楽しみだと今回の変更を快諾したのである。
さて、「異人たちとの夏」は、日本でも大林宣彦監督の手によって映画化されている。
今回は、『異人たち』公開にあわせて『異人たちとの夏』の魅力について語っていく。両方、観ることにより一層味わい深いものになることであろう。
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▶︎『異人たちとの夏』を観る
行き詰まった男の前に現れる2つの出会い
シナリオ・ライターの原田英雄(風間杜夫)は、妻の綾子(入江若葉)と別れる。ある日、親しい同僚の間宮(永島敏行)が自宅にあがるのだが、彼女と付き合うとカミングアウトする。深まる孤独を埋めるように、突然訪問してきた女・桂(名取裕子)と親密な関係になる。
同時にある不思議な体験をする。なにげなく降り立った浅草、なんとなく入った寄席で亡き父親の面影を感じさせる存在と出会うのだ。彼は、英雄のもとに近づき「うちに来るか?」と手招きをする。ついていくと、そこには幼少期のような空間が広がっていた。
英雄は、謎の訪問者と家族の幻影に元気づけられながら仕事へ打ち込んでいくのだが、ある異変が彼を蝕んでいくのであった。
ノスタルジーとは何か?
◾️ノスタルジー=現実逃避の空間
大林宣彦監督は、セピアに近いノスタルジックな色調と梅雨のようなどんよりとした蒸し暑さを漂わせる空気感でもって「ノスタルジー」を描こうとしている。我々がノスタルジーとして過去を振り返る時、どのような景色が見えるだろうか?おそらく、楽しかった思い出が多いだろう。
ノスタルジーとして見た時に苦い思い出は薄まっていく。妻子とは別れ、その友人が彼女と付き合うことになり、原田は心の拠り所を失ってしまう。その中で、亡くなったはずの両親のいる空間は彼を癒すこととなる。ある種の現実逃避として描かれるのである。
つまり『異人たちとの夏』において「ノスタルジー」は、心のよりどころであり、ゆったりとした時間の中でもてなされる風景は彼の心の治癒的役割を持っているのである。
◾️苦境に立たされた山田太一の心理が反映
(C)1988 松竹株式会社原作が書かれた背景には、山田太一が当時、苦境に立たされていたところにある。投書で作品が酷評され、心身共にまいっていた状況の中で、無条件に自分を受け入れてくれる場所は「幻想の中の親」なのではと思いつく。
センチメンタルな話にファンタジーの要素を取り入れることで受けるのではと考え書いていった。実際に、浅草の寄席に行った際に父親そっくりな人を見かけた体験もあり、どんどん力がみなぎり文章を書いていったとのこと。
大林宣彦は、「幻想の中の親」を独特な色調と空気感で表現し、山田太一の不思議な世界を創り上げていったのだ。
家族の幻影と謎の訪問者との関係性が面白い
(C)1988 松竹株式会社では、「ノスタルジー」は良薬なのか?良薬も過剰摂取することで毒になる。大林宣彦監督は、顔の特殊メイクでもって異変を描いていく。その過程と心理描写はデヴィッド・クローネンバーグ『ザ・フライ』に近いものがあるだろう。
家族の幻影により意欲がみなぎり、熱心に仕事へ打ち込む原田。しかし、いままで無縁であった虫歯にかかったり、目の下にクマができていると言われたりする。気づかぬうちに、肉体が蝕まれていくのだが当人は気づかない。
映画は、謎の訪問者・桂を通じて彼の見えざる側面を明らかにしていく。原田の視点の時は若々しいのだが、桂を通して語られる際には特殊メイクによって恐ろしい姿へと変えられていく。この視点の変化が物語にスパイスを与えることとなる。
実は原作に忠実な大林版『異人たちとの夏』
大林宣彦といえば、『HOUSE ハウス』や『この空の花 長岡花火物語』と前衛的なコラージュや意表を突く展開を仕掛ける監督である。それを踏まえると、中盤以降の「ある場面」も大林監督ならではのアレンジかと思うであろう。
だが、驚くべきことに原作通りである。一方で、原作とは少し感覚が異なる。原作では、ある種のコメディとして演出されていた。
しかし、大林版では先述の通り少しずつ肉体が変容していく不気味さが積み重なることで、一気にホラーへと転がっていくのである。ホラーへシフトしたことで、ノスタルジーに現実逃避していた男が現実と向き合う物語であることが強調される。演出によって、物語性を高めていった良い例であろう。
『異人たち』はどうなっているのか?
さて、大林版に対してアンドリュー・ヘイ監督が手がけた『異人たち』はどうなっているのだろうか?
大きく分けて3つの視点から語っていく。
◾️ノスタルジーは痛い説
『異人たち』Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.大林版では、ノスタルジーが現実逃避の劇薬として描かれていた。快感を与えるが、無意識なる痛みをもたらすノスタルジー像を提示していた。対してアンドリュー・ヘイ版では「痛み」にフォーカスを当てている。
家族の幻影に対してノスタルジーを抱く40代の脚本家アダム。彼は親密になった謎の訪問者ハリーを紹介するのだが、同性愛の関係を拒絶される。両親は「スペシャルフレンド」と定義し、「ボーイフレンド」であることを認めようとしないのだ。
『異人たち』Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
ノスタルジーは過去の再生産でもある。過去に傷や未練を負った者、それこそ「同性愛」をカミングアウトし受け入れてもらえる環境を持っていなかった者にとって、いくら癒しの空間であるノスタルジーであっても苦痛に感じてしまう。
本作はノスタルジーによって増幅される痛みに特化している点が興味深いのである。
◾️文学的な「窓」の描写
『異人たち』Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.原作において、主人公の孤独を象徴する場面として「窓」の描写がある。静かすぎるマンション。違和感の正体を探るべく彼は1階まで降りてくる場面だ。この描写は以下のようにじっくりと描写されている。
窓からは見えなかったところに二台の乗用車が停っていた。ピンクのバンには笑っている三匹のリスの絵が描かれ、子供用のメーカーの乗用車であることが分った。
私はその車の傍に立ち、マンションを見上げた。この側面が東南に面している。どの部屋にも窓があった。人がいれば灯りが見える筈である。
一つだった。それは七階の私の窓で、他のどの窓も暗かった。
『異人たち』において、この場面は大林版以上に繊細なショットで描かれている。アダムは執筆に行き詰まっていた。ひとり部屋に篭って筆を進め、アイデアが出てこなくなればテレビを観る生活を送っている。
『異人たち』Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
そんなある日、火災報知器の音が鳴り地上へ降り立つ。なにごとかとスッとマンションを見上げると、ポツンと灯りが見える。さらにグイッと見上げるともうひとつ灯りが見えるのだ。
彼の孤独が客観的に示される中、ハリーが彼の元を訪ねてくる。ゲイである男は酒とドラッグにより酩酊状態のようだ。彼もまた孤独で間合いを詰めていくのだが、アダムは拒絶する。ここから物語が動き始めるのだ。
◾️酩酊のような空気感
『異人たち』Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.大林版では、ノスタルジーの浸り肉体がボロボロになっていく様子を特殊メイクで演出していた。一方でこちらでは酒に酔ったような浮遊感ある画で描かれていく。
二日酔いだが強烈な朝日で目覚めさせられるような光、またはネオンが反射したような光、そして懐かしいエレクトロミュージックが流れる中でアダムはフワフワと彷徨い、親と対峙していくのだ。
目覚めているが、夢を見ているような空気感でもって身体的ダメージを描いているのである。
最後に
『異人たち』Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.『異人たちの夏』は、リメイク版とあわせて観ると我々が何気なく使う「ノスタルジー」について考えさせられる作品である。
観終わった後、家族との思い出を振り返ってみたくなる。一方で、無意識にある怖い領域を覗いてしまうような背筋の凍る思いもする。そんな、危うげな魅力に満ちた作品といえよう。
(文:CHE BUNBUN)
■参考資料
- 「異人たちとの夏」(山田太一、新潮文庫、1991)
- 『異人たち』プレスシート
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