<大傑作>『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』新しい“古さ”のある魅力
いきなり個人的な話で恐縮だが……2023年のポップカルチャー事件簿で、筆者が最も衝撃を受けたのは、紅白歌合戦におけるYOASOBIのパフォーマンスだった。
アニメ【推しの子】の主題歌「アイドル」をテレビ初披露した際に、櫻坂46・乃木坂46・JO1・NiziU・NewJeans・LE SSERAFIMなどなど、日本・韓国を代表するアイドル・グループたちが入れ替わり立ち替わり登場。日本最大級のアイドル事務所所属のスターたちが出演を見合わせるタイミングで、アイドルという存在が放つ唯一無二のオーラに、圧倒されまくったのである。
そしてこのとき、「アイドル」を熱唱する幾田りらの隣には、橋本環奈と一緒にあのの姿があった。
まさか『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』、略して『デデデデ』の映画化にあたって、紅白歌合戦で同じパフォーマンスを演じた幾田りらとあのが、門出&凰蘭(おんたん)のコンビとして再降臨することになろうとは。
▶︎『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(前章・校章)画像を全て見る
「幾田りら&あの」が見せた説得力
現役最強ユニットのヴォーカリストと地下アイドル出身タレントという、異色すぎる取り合わせ。だがフタを開けてみれば、『この世界の片隅に』(2016)のすず役がのんでしか考えられないように、門出とおんたんはこの二人しか考えられない。それだけの声の説得力を、彼女たちは持ち得ていた。
東京の上空に突如現れた、謎の巨大飛翔体。多くの死傷者が発生した世界的クライシスに見舞われても、ゲームに興じたり、喫茶店でダベったり、担任の先生に心ときめかせたり、いつもの日常は続いていく。
浅野いにお原作の漫画を映画化した本作は、地球が滅亡の危機に瀕するディストピアSFでありつつ、アオハルなユースフル・デイズも丁寧に描かれている。
お互いにお互いが“絶対”な関係。友情&嫉妬&本音&嘘&強がり。そんな門出とおんたんの会話を聞いているだけで、こちとら胸がアツくなってくる。
『デデデデ』は、特別な状況で繰り広げられる女子二人の物語なのではなく、特別な女子二人が繰り広げる日常の物語なのだ。
終わりなき日常を生きろ
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章筆者がこの映画を観ていて感じたのは、90年代的な終末感覚。オウム真理教事件、神戸連続児童殺傷事件、阪神・淡路大震災という悲劇に遭遇し、「新世紀エヴァンゲリオン」というカタストロフ的アニメーションがつくられ、「1999年に地球が滅亡する」というノストラダムスの大予言がフィーチャーされたこの時代、僕たちはほんのりと絶望し、ほんのりと死の匂いを嗅ぎとっていた。
だけど、映画のようにドラマティックなことは終わらないことも同時に知っていた。淡々と続くエンドレスな日常が、いつかブツっと強制リセットされるんだろうな、という諦観。社会学者の宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」という書籍を発表して、のっぺりした人生をまったり生きようと呼びかけた。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章
だが実際には、セカイノオワリは訪れなかった。なんの変哲もない日々が21世紀になっても引き伸ばされ、「終わりなき日常」だけが残される。「何かが起きると思っていたのに、何も起きない」という90年代的な終末感覚が、『デデデデ』にはとても濃厚に刻まれている。
3年前の8月31日にUFOが襲来したとき、誰もがセカイノオワリを確信したのに、のっぺりした青春はまだ続いていた。門出は「私はむしろ、何も変わらないその日常が少し不満で…」とその想いを吐露している。
我々は、その運命の日が8.31であったことに着目すべきだろう。夏休みが終わる最後の日。永遠に終わらない青春。
それはまるで、押井守監督の傑作アニメーション『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)のよう。
この映画もまた、学園祭前日という1日が永遠にループし続けることで、「終わらない青春」を描いていた。そのループから脱出した瞬間、友引高校の生徒たちは青春時代=モラトリアムから解放されて、子供から大人へと成長する。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』後章
『デデデデ』もまた、門出たちがうっかり入会してしまう大学のオカルト研究会で、ワチャワチャとした夏合宿の日々を過ごしている。そして「人類滅亡の日」を迎えたその瞬間、子供で居続けられた時代も終わりを迎える。
「終わりなき日常」から「青春時代の終わり」へ。その転換をSF的プロットを用いて描いたのが、この作品の大きな特徴といえる。
「小さな世界」と「大きな世界」の接続
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』後章『デデデデ』は(特に後章は)、明らかに「セカイ系」の文脈に則った作品でもある。
特にゼロ年代に入ってから数多く作られるようになったこのジャンルは、国家・企業・家族という中間項を介さずに、友達との友情や恋人同士の愛情という「小さな世界」と、世界の危機という「大きな世界」がダイレクト・プラグインする。高橋しんの漫画「最終兵器彼女」や、新海誠の『ほしのこえ』(2002)が、その代表例として挙げられるだろう。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章
ネタバレになるので詳しくは述べないが、地球滅亡のきっかけになったのは、門出に対するのんたんの強い想いだった。彼女たちの友情=「小さな世界」と、大きな災厄=「大きな世界」の接続。完璧なまでにセカイ系のフォーマットで構築されているのだ。
さらに言えばこの作品は、過去のポップカルチャーを巧妙に参照した映画でもある。
平和ボケした日本に異常事態が発生するという設定は押井守の『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993)のようだし(そういえばこの映画にも『デデデデ』にも竹中直人が声で出演している)、大都市の上空を巨大宇宙船が覆い隠すというビジュアルは『インデペンデンス・デイ』(1996)。
世界的クライシスに直接コミットするのではなく、主人公は傍観者の立場でしかないという設定は、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)に似ている。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』後章
だが『デデデデ』が凄いのは、それが単なるパッチワークではなく、映像と物語の強度を兼ね備えた、とーーーーーーーーーーーーーーーーーーーってもエモい作品であることだ。本当にエモい。エモすぎる。
そしてそのエモさは、間違いなく「幾田りらとあの」という二人の才能によって生成されている。あのは自分のことを「僕」と呼ぶが、おんたんの第一人称も「僕」。素ではなくキャラとしての「僕」。不意に現実と虚構が交錯してしまったような、不思議な感覚。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は、90年代的終末感覚に彩られ、ゼロ年代的なセカイ系フォーマットで構築され、古今東西あらゆる作品によって繋ぎ合わせられている。
そこに幾田りらとあのがキャラクターに魂を吹き込むことで、ハンパないエモさが醸成された。
新しい“古さ”を持った大傑作。2024年最重要映画であることを断言しよう。
(文:竹島ルイ)
無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。
©浅野いにお/小学館/DeDeDeDe Committee