『数分間のエールを』クリエイターの心に刺さりまくる「3つ」の理由
6月14日(金)よりロードショーとなっている『数分間のエールを』。ミュージックビデオの制作に情熱を注ぐ高校生の青春をロックバンド「ヨルシカ」のMVで知られる映像制作チーム「Hurray!」と「ラブライブ!」「宇宙(そら)よりも遠い場所」の脚本家・花田十輝がタッグで作られた。
本作はフリーの3DCGソフト「Blender」をメインツールとして作られた珍しいアニメーションとなっており、セルアニメーションとは異なる滑らかな動きが印象的となっている。
さて、実際に観てみるとクリエイター賛歌な物語となっており、「なにか」を作る楽しさから辛さ、それを乗り越えた時の感動が68分と短い時間の中に濃縮されている物語となっていた。
今回は「3つ」の観点から本作がいかにクリエイターの心を鷲掴みにするかについて語っていく。
※本記事では物語終盤に完成するMVについて言及しているため、未鑑賞の方はご注意ください
振り返ってみる『数分間のエールを』
まず『数分間のエールを』の物語について振り返ってみるとしよう。
主人公は高校生の朝屋彼方(花江夏樹)。彼はMVにハマり、最初は街中で撮った動画をスマホのアプリで繋ぎ合わせて動画投稿サイトにアップしていたのだが、いつしか本格的にBlenderを使ってMVを制作するようになる。そして、軽音部から依頼が来るようにまでなる。
そんなある日、雨の中、慟哭に近いような形で歌う女性に一目ぼれする。「彼女のMVを作りたい」と彼方は思うのだが、声を掛けると彼女は走り去ってしまう。
残念に思う彼の前にチャンスが到来する。なんと、新任教師として現れたのが、彼女だったのだ。
彼方は彼女に懇願してMVを作ることとなるのだが、この時彼は知らなかった。「作る」楽しさの先に待っている苦悩の存在に。
1.世界を「作る」解放感の追体験
MVを作るとは、どういうことだろう。本作ではMV制作に熱中する朝屋彼方の創作を追体験させるために二人のキャラクターが登場する。
ひとりは、音楽を諦めつつある新任教師・織重夕(伊瀬茉莉也/歌唱パート:菅原圭)。彼女は、歌詞や旋律を「書く」ことで自己表現をしている。もうひとりは、彼方の親友・外崎大輔(内田雄馬)。彼は美術部で絵を「描き」続けている。
「書く」と「描く」。我々が想像しやすい創作の形を補助線に彼方の創作を紐解いていく。MV制作はある種の総合格闘技だ。Blenderで空間を作るだけではない。必要に応じてCLIP STUDIO PAINTのようなペイントソフトやスマホのアプリなどを駆使して歌詞に描かれた世界観を可視化していく。
複雑な工程を経てMVは完成するのだが、基本的にPCの前に座って作業するため、映画として落とし込むには地味になりがちである。映画制作の世界をアニメ化した『映画大好きポンポさん』では、映画編集の場面をエフェクトによってドラマティックに演出する工夫が凝らされていたが、本作はどのようになっているのだろうか?
彼方がMVを作るとき、まるでメタバース上で世界を構築するように描かれている。彼がPCの前に座ると、真っ白い空間が広がる。彼は歌詞を分析しながら、オブジェクトを配置する。一度、大きな等を建て、仮想カメラで確認し、形を調整していく。
Blenderはショートカットベースで操作するクセの強いアプリケーションなのだが、独特なキー操作が実際の身体的動作とシンクロし、まるで現実世界で粘土彫刻を作るかのような挙動を魅せる。
この描写によって、「書く」「描く」に通じる普遍的な創作行為が映画的に可視化されている。つまり、「作る」本質は無から世界を作り出すことだと。メタバース的空間を用いた創作表象の手法は慧眼といえよう。
2.アンバランスな3つのニーズが心を揺さぶる
クリエイターは時として3つのニーズのアンバランスさの中で葛藤を抱く。
「自分が作りたいもの」
「相手がほしいもの」
「不特定多数が好きなもの」
この要素は残念ながらイコールになることはない。彼方は夕の歌に惹かれ、MVを作る。歌詞を入念に分析し、徹夜しながら渾身の一本を作りあげる。しかし、彼女の心には刺さらなかった。この時点での彼方は、本能的にMVを作り、その快感に満足するフェーズにいる。
しかし、その先にいる夕や大輔には違った視点が広がっている。それは「自分が作りたいもの」が「相手がほしいもの」であるとも「不特定多数が好きなもの」とも限らないといった視点である。
好きだから創作活動をするわけだが、賞に選ばれたり大勢から注目されるためには、相手に歩み寄らなければならない。
実際に彼方の作ったMVは「創作の世界に飛び込んだ始まりの物語」として描かれている。しかし、夕は「挫折して創作から去っていこうとする終わりの物語」として楽曲を作っていた。客観的に歌詞を捉えようとするもの、主観的に陥ってしまっている彼方の盲目さが悲劇を呼んでしまうのだ。
辛酸を舐めた彼方はリベンジとして彼女のMVを作り直すこととなる。これは彼女の本心を掴み取ったものに仕上がっているのだが、動画配信サイトで公開されると反応が芳しくない。「つまんね」といったコメントが散見されるのだ。
『数分間のエールを』がクリエイター賛歌なのは、このような生々しい現実も余すことなく描いていることにある。
クライアントのニーズに120%応える。自分と相手との間では満足のいくものができあがっていても、それが第三者に好かれるとは限らない。しかし、そうであっても創作する行為は美しいと物語るのである。
これには映画ライターである筆者も涙した。ライターの世界でも渾身の記事が読まれないケースは少なくないのだ。本作を観ると、そうした状況に陥っても落胆せずに次へ進もうと勇気づけられるのだ。
3.幾多の「新規作成」の上に生まれるMVに泣く
さて、本作はMVを作る映画として最終的に完成した作品をまるごと魅せてくれる演出がある。このMVは物語を共に歩いてきた我々にとって涙なくしては観られないであろう。
彼方、夕、大輔の創作が一堂に会する作品に仕上がっている。海岸のような空間に、無数のキャンバスがあり、そこでヒロインが絵を描いている。その筆は感情を爆発させたかのように激しく、描いては捨て、描いては捨てを繰り返している。この絵を「描く」行為が楽曲を「書く」行為とシンクロする。
画はPCで楽曲を作る際の「新規作成」で埋め尽くされる。楽曲もまた、絵を描いては捨てるように無数の「新規作成」の上に成り立っていることが視覚的に表現されるのである。
夕の楽曲は、ここまで来るのに99曲もの山が積み重なっている。足掻き、地を這うようにしてできた一作である。それを、MV特有の層を重ねる行為によって浮かび上がらせているのだ。
彼方が最初に作った、始まりの解放感に満たされた作品とは決定的に異なる。かといって終わりの物語にもしていない。無数の終わりの先に始まりがあるように定義している。
これこそが他者を介在する創作の本質といえよう。相手の心理を踏まえたうえで、自分の持ち味を活かし、相手が想定しないでも満足の行く方向へと導く。結果的に夕は、このMVをきっかけに教師を辞め、再び音楽の道へと踏み出す。
クリエイターにとって一番嬉しい反応ではないだろうか?情熱によって人の心が動かされることは。
だからこそ『数分間のエールを』は、MV制作者や作曲家、絵師だけではなく全てのクリエイターにエールを送る賛歌として光り輝くのである。
(文:CHE BUNBUN)
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