© 藤本タツキ/集英社 © 2024「ルックバック」製作委員会
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映画コラム

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2024年07月07日

【ネタバレ解説】アニメ映画『ルックバック』は“意思”の物語である

【ネタバレ解説】アニメ映画『ルックバック』は“意思”の物語である

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2024年6月28日より公開中の劇場アニメ『ルックバック』は、上映劇場数は119館と中規模だが、公開3日間で観客動員13万5,000人、興収2億2,700万円を突破するヒットスタートを切った。

「夢に突き進んだ“先”」を描くアニメ映画が続々公開



レビューも絶賛の嵐で、記事執筆時点で映画.comとFilmarksでは4.4点と、『THE FIRST SLAM DUNK』や『BLUE GIANT』級の超高評価を獲得。7月5日からは新たに12館の劇場での上映もスタートしているほか、12日からの上映劇場の追加も決定している。

上映時間はわずか58分(鑑賞料金は1700円均一)だが、そうとは思えない“密度”がある。他の観客と共に「観続ける」体験ができる劇場でこそ、真の感動があると断言できる。

くしくも2024年は「夢に突き進んだ“先”」を描き、さらには「ファンの心情」を示したアニメ映画が、『トラペジウム』『数分間のエールを』、そしてこの『ルックバック』と相次いで公開されている。それぞれで物語も表現も違ったアプローチがなされているので、ぜひ併せて観てみてほしい。

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ここではネタバレ全開で、『ルックバック』の原作漫画から描かれた物語の考察とともに、アニメ映画にした意義の大きさを記していこう。鑑賞後にお読みになってほしい。

※以降は、『ルックバック』原作漫画およびアニメ映画版の結末を含むネタバレに触れています。

漫画家を目指してはいなかった(かもしれない)京本


注目してほしいのが学年新聞の4コマの内容。藤野はギャグ漫画として起承転結のある内容を描いている一方、京本は「放課後の学校」や「夏祭り」と題して「背景」を描いていた。さらに、京本は藤野が持ち込む漫画において、背景「だけ」を全て描いていたのだ。

これらから伺えるのは、京本は(教師には「学校には来れないが漫画を描いてみたい」とは言っていたようだが)漫画家をそもそも目指していなかったのではないか、ということだ。

京本はあくまで「漫画の天才」と確信をした藤野のファンで、背景の絵を描くのが上手くて好きな女の子。自分でそのことをわかっているから、「美術の大学に行く」「連載は手伝えない」とはっきりと言ったのだろう。もともと京本は藤野とは同じ道には進まないのかもしれないと、学年新聞の4コマからすでに示されていたのかもしれない

そして物語の最後、京本の部屋には藤野の部屋には「シャークキック」の単行本が巻数ごとに複数、本棚にあった。少年ジャンプのアンケート用紙もあった。この現実の世界では、京本は藤野から離れても、美大で学びながらも、藤野のファンであり続けたのだ。

もしくは、京本が美大で画力を高めてから、また藤野のアシスタントになる未来もあり得たのかもしれない。


京本が亡くなった知らせを受けた藤野は「ウチら漫画を連載できたらさ、すっごい超作画でやりたいよね」「私もっと画力上がる予定だし!」などと言っていたことを思い出して、そこで京本は「じゃあ私ももっと絵ウマくなるね!藤野ちゃんみたいに!」と返しているのだから。

それは京本にとって、藤野の漫画のファンであると同時に、(絵がウマくなっていく)ライバル同士であるという宣言なのかもしれない。

「IF」の世界でも美大に進学した京本

もうひとつ重要なのは、ドア1枚を隔てた藤野の妄想、もしくは「IF」の世界においても、京本は背景を描き続け、美術大学にも進学していたことだ。藤野と出会っていなくても、その意思と選択は変わらなかったのだ。

しかしそのIFの世界で、藤野は美大で殺人犯に「カラテキック」をかまして、京本の命を救った。小学校の時に藤野の漫画のファンだったと言う京本に対して、「最近また描き始めたよ!連載できたらアシスタントなってね!」とVサインをしながらも言った。

IFの世界では、藤野にとっての「こうだったら良かったのに」が全て表れていると言っていい。

彼女はその昔に「連載を手伝えない」と言った京本に「私についてくればさっ全部上手くいくんだよ?」「アンタがさっ一人で大学生活できるわけないじゃん!」などと言っており、京本の意思を尊重せず、自分と共に生きることを強要するような危うさを見せていたが、本心では京本が自分で思う通りに、1人で生きていけることを望んでいたのだ。

もっといえば、藤野が本当に望んでいたのは、京本が今も生きていること、ただそれだけだったのだろう。

「(また)アシスタントになってほしい」とも願っているが、もう「強要させない」言い方になっていたことからも、その意思が伺える。

アニメ映画独自のエンドロールが示したもの

その妄想のはずの世界からは、藤野自身が京本の命を救った物語と、ほぼ同じ内容の4コマ漫画が返ってくる。これは、本当はこの世にはいないはずの京本が描いたもの、京本からの贈り物とも言えるが、それも含めて藤野の妄想とも言える。

そして今回のアニメ映画では、もうひとつ藤野からの贈り物と言えるものがある。藤野が「1日中」原稿に向かう背中を映すエンドロールにて、背景が朝から夜へと変わっていくことだ。


雑誌「SWITCH」7月号のインタビューで、原作者の藤本タツキは「『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』でアシスタントに入ってくれた人たちが描いた背景が本当に上手かったから、皆へのリスペクトも込めたい」という、今回のアニメ映画化に向けての思いも語っている。それは、一時的でも藤野の漫画のアシスタントとして背景を描いていた京本にも重なるのだ。

何も変わっていない、だけど「意思」はあり続ける



原作者である藤本タツキは、短編集「17-21」のあとがきにて、東日本大震災直後に被災地のボランティアに行った時の「無力感」をずっと引きずっていること、自分のやっていること(漫画を描くこと)がなんの役にもたたない感覚が大きくなっていき、その気持ちを吐き出したいからこそ『ルックバック』を描いたこと、さらには短編集を見ると暗いことばかりではなく、楽しい思い出が出てきたことも語っている。

この藤本タツキの心情は、藤野の感情とかなり一致している。漫画を描いていても、誰かの命を救うことはできないし、死んだ人は生き返らない。だけど、一緒に漫画を描いた楽しかった気持ちはよみがえってくる。そして漫画に限らず、創作を続けることは、悲しい出来事が起こる現実での「鎮魂」にもなるかもしれない。


藤野が京本と漫画を一緒に描いていた時の楽しい思い出、そして(京本からの贈り物のような)背景の時間を移り変わりを描きつつもひたすらに藤野の背中を映し続けるエンドロールから、そう思えたのだ。

また、京本は自身の部屋で(おそらくは何も書かれていない)4コマ漫画の用紙を窓に貼っていった。それは京本が藤野と一緒に漫画を描いていた、あの頃を思いだすため「お守り」のようなものだったのかもしれない。最後に藤野もまた京本と同じく窓に用紙を貼り付けるのは、あの頃の京本との思い出、その時の漫画に向かい続ける気持ちを胸に生きていく、決意の表明だったとも取れる。

そして、『ルックバック』というタイトルについて藤本タツキは「背中を見る」「過去を振り返る」の他に「背景を見てほしい」という意味を込めたそうだ。

藤野が京本との過去を思い出してから、藤野がお守りのような4コマの用紙を窓に貼る……(ここまでは原作からあることだが、映画ではさらに)「背景が朝から夜と変わり」、藤野の「背中を見せ続ける」……それはまさに、タイトルの意味が全て集約されたような、アニメ映画独自のラストだったのだ。(また、藤野が京本と一緒に街で遊ぶ場面での、藤野が手を引いている京本へ振り返り、その藤野の背中を見ている京本が笑顔になるカットも、今回の映画独自のものだ)


そして、『ルックバック』は何よりも「意思」の物語だったとも振り返られる。

死んだ京本は生き返らない。藤野は漫画を描き続ける。起こった事実だけを取り上げれば、何も変わっていないのだ。だけど、そこには「誰かのため」、藤野にとっては特に「自身の作品のファンだった京本のために」という意思が生じる。その意思のそもそものきっかけは、学年新聞で一緒に4コマを、その後には自身の漫画の背景も描いてくれた、現実での京本との思い出があったためだ。

しかも、その京本の部屋には、前述したように「シャークキック」のたくさんの単行本とアンケート用紙という、京本が藤野の漫画を応援し続けていた「ファンの意思」が確かに見えた。


だからこそ『ルックバック』は漫画に限らない、物語や創作物を誰かに届けようとするクリエイターと、その作品を応援するファン、それぞれの意思と尊さを示している。

さらには「誰かのため」という意思そのものを、強く肯定する物語だったと思えたのだ。

押山清高監督の代表作「フリップフラッパーズ」との超シンクロ

最後に、アニメ映画版『ルックバック』と、ぜひ併せて見てほしい作品をさらに紹介しよう。それは押山清高が初めてテレビシリーズの監督を務めた「フリップフラッパーズ」だ。



進路に悩む中学生の女の子が異世界で冒険を始めるファンタジーであり、3話ではとんでもないカオスな出来事に目が釘付けになるほか、バトルシーンでの超絶作画に圧倒され、少年漫画的なアツい展開も待ち受ける、萌え的なビジュアルやサービスで敬遠するのはもったいなさすぎる傑作だった。

さらに、女の子同士の友情(もしくは“百合”)、誰かの人生を全てコントロールしようとする危うさ、それを持って自らの意思での選択と望みが描かれる様など、かなりの部分で『ルックバック』に通じており、押山監督が同作を手がけるのは「運命」と思うほどのシンクロ率だったのだ。

さらに、『ルックバック』の冒頭で、はるか上空から藤野の家にカメラが揺れ動きながら近づいていくのは、原作漫画にはない、映画独自の演出だ。これはおそらく1985年制作のアニメ映画『銀河鉄道の夜』のオマージュであり、同作は切なくも尊い友情を描いていることなどが一致している。ぜひ、併せてご覧いただきたい。

(文:ヒナタカ)

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