映画コラム

REGULAR

2019年11月15日

『ジョーカー』を先取りしていた(!?)名匠・小林正樹監督の『切腹』

『ジョーカー』を先取りしていた(!?)名匠・小林正樹監督の『切腹』



 © 2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved” “TM & © DC Comics”



なぜ『ジョーカー』は
世界的大ヒットとなった?


10月4日より全米・日本を含む世界66か国で公開された『ジョーカー』が32日間で世界興収1000億円に達しました。

日本だけでも11月4日までに41億5418万5950円、動員284万1616人を計上しており、今後もさらに記録を伸ばしていくのは必至です。

リピーターも続々現れ、SNSでも連日感動や興奮のコメントで賑わせているこの作品、ご存じ『バットマン』シリーズでおなじみの人気悪役誕生の秘密を描いたものではありますが、いわゆる社会的弱者が世の理不尽によって悪の世界へ落ちていくという、ある意味救いようのない内容であるにもかかわらず、こうした大ヒットは異例といえるものかもしれません。

もっとも現代社会を鑑みながら考えていくと、世界中の人々が不安とストレスにさいなまれているのだなということは容易に想像できます。

日本でも最近は貧富の差が広がりつつ、差別や偏見の意識は増大し、それこそ政治&権力者およびそれらに接する者らは何をやっても罪に問われないといった実情が“上流国民”なる忌まわしき新語となって流行してしまうご時世、表面的には普通の生活を送っていても、いついかなる事情で転落してしまうのか、予測もつかない未来にみな心のどこかで怯えているのかもしれません。

すなわち、いつ自分がジョーカーになるかわからないという不安と恐怖。

しかし一方では、いざ落ちてみたらどうなるのか? といった闇のカタルシスも本作はもたらしてくれています。

ここでふと思い出すのは『スター・ウォーズ』サーガの大悪役ダースベイダーで、もともと正義のジェダイ騎士だった彼が暗黒面に落ちていく過程はエピソード1~3で描かれているものの、これらはファンタジーの中のドラマのひとつとしてみなされていた感もあったのに対して、『ジョーカー』はファンタジーとリアルの橋渡しをしてしまっているようにも思えます。

実際この作品「体調の良い時に見たほうがいい」だの「見終わるとトラウマになる」だのといった巷の感想もありますが、いざ接すると意外にエンタテインメントの韻を踏んでいて、さまざまな悪しき外圧に耐えかねて、主人公がついに怒りを爆発させるというカタルシスは古今東西のドラマツルギーと共通したものではあります。

また古くからの映画ファンであれば本作が『タクシー・ドライバー』『キング・オブ・コメディ』といったマーティン・スコセッシ監督作品の影響が大であることは一目瞭然で(だからこそ両作の主演ロバート・デ・ニーロが出演している!)、さらには『カッコーの巣の上で』(こちらの主演はティム・バートン監督版『バットマン』でジョーカーを演じたジャック・ニコルソンでした)などのアメリカン・ニューシネマから『キャリー』『シャイニング』などのスティーブン・キング原作作品、往年のチャップリン映画、ついには『カリガリ博士』といったサイレント映画まで引用しています。

その意味でも本作は全方向的に目配せの効いたしたたかな作品であり、「これなら『◯〇○〇』のほうが、もっと悪に落ちていく悲劇をリアルに描いていたぞ」みたいな一部マニアの意見もあったりもしますが、やはりマーベルと人気を二分するDCコミックの大悪役を主人公に据えつつ人間の闇を描くという試みゆえに、「日頃重い映画なんて見たくない」といったライトユーザーの心までもつかんだのでしょう。
(私が映画館で本作を観たときも、始まる前の場内はドでかいポップコーンを持った若いグループがワイワイ騒いでいたものの、上映中はシンと静まり返り、映画が終わってもみんな椅子から立ち上がろうとしないのが印象的ではありました)

やはり貧困や差別を背景にした強者のイジメに対し、みんないつ自分がジョーカーのように闇落ちしてしまうのかといった不安を抱えながら生きているのが、令和元年の日本であり、2019年現在の世界なのかもしれません……。

権力に翻弄される弱者
その運命を描いた『切腹』




(C)1962 松竹株式会社


さて、そうこう思いながらネット配信で古い映画でも見てみようかとラインナップをつらつら眺めていたら、ふと小林正樹監督の1962年度作品『切腹』にぶち当たり、そういえばこれだって権力の横暴によって貧困にあえぐ弱者が落ちていく映画ではあるよなあ、などと想いを馳せてしまいました。

映画『切腹』は滝口康彦の『異聞浪人記』を原作に、日本を代表する屈指の脚本家・橋本忍が時間軸を巧みに交錯させた秀逸なシナリオを執筆し、それを反骨・反権力の名匠として世界的に知られる小林正樹監督が演出したものです。

時は1630年(寛永7年)、井伊家の江戸屋敷を初老の浪人・津雲半四郎(仲代達矢)が訪れました。

彼は「生活に困窮するも、このまま生き恥をさらすよりは武士として潔く切腹したいので、屋敷の軒先を借りたい」と申し出たのです。

当時、江戸市中で生活に苦しむ食い詰め浪人たちは、こうした“ゆすり”を行い、武家屋敷から何某かの金をもらうのが常となっていました。

しかし井伊家の家老・斎藤勘解由(三國連太郎)はそういった悪循環を断ち切って武士の威厳を保つべく、半四郎の申し出を了承しますが、その前に彼は以前、半四郎と同じ用件でやってきた千々岩求女(石浜朗)という浪人の話をします。

ゆすりが目的で竹光しか持ってなかったにも関わらず、勘解由は切腹を強要。求女は斬れない刀で己の腹を刺すという、地獄のような苦痛を伴いながら息絶えたのでした。

その話を聞き終えた半四郎は、やがて庭先で勘解由らに幾ばくかの問答をした後、自らの素性を語り始めていくのですが……。

本作は徳川幕府が成立して政権が安定し始めた時期の影で
貧困に苦しんでいた浪人たちの実情を背景に、武士道の無理強いがもたらす非道を突くとともに、強者の采配ひとつで生死の運命すら決められてしまう弱者の悲劇を描いています。

確かにゆすりは罪ではありますが、果たして本当に命を奪うほどのものなのか?

求女にしても清貧を貫けないだけのやむなき事情があったことがやがて描かれていきますが、同時に彼と半四郎の関係性、そして半四郎もまた権力の横暴に対して自ら闇に落ちた者であったことが明らかになっていきます。

本作は公開当時、封建社会を痛烈に批判した傑作として高い評価を得、海外でもカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、小林監督を世界の巨匠へ一気に押し上げることになりましたが、それから半世紀以上経った今、改めてこの作品に接すると単に武士道批判だけでなく強者の権力に虐げられ、自ら夜叉になっていくしかない弱者の悲劇の物語として捉えることも大いに可能であり、また現代がそう思わされる時代になってしまったというのもあるでしょう。

ちなみに本作が公開されたのは1964年の東京オリンピックの2年前で、まさに日本が高度経済成長の真っただ中にあった時期でもありますが、光が濃ければ影もまた濃いのと同じ道理で、当時も繁栄の陰でさまざまな闇がはびこっていたことも大いに伝えられて久しいものがあります。

東京オリンピックを来年に控える今もさまざまな問題は山積ですが、そのどれもが強権の発動によって一般市民が振り回されているといった図式のものばかり。

様々な不祥事が見逃され、課税は上がり、憲法改正を含む論議で国内が二分し始めている昨今ですが、この先、半四郎のように権力への復讐を企てる者が現れるのか、それともジョーカーのように悪の愉悦に浸りながら巨悪を翻弄する者が現れるのか、いずれにしましても人はいつどこで闇に落ちるのか、そのことをどこかで覚悟して生きていかなければならない時代に突入してしまったのかもしれません。

それは非常に悲しく、つらいことでもありますけれど……。

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(文:増當竜也)

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