『エルネスト』に登場するチェ・ゲバラの歴史を辿る



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阪本順治監督とオダギリジョーが『この世の外へ クラブ進駐軍』(03)『人類資金』(13)に続いてタッグを組んだ『エルネスト もう一人のゲバラ』がいよいよ公開となります。
かつてチェ・ゲバラと一緒に戦ったボリビア系日系二世がいたという事実に基づき、日本とキューバの合作で描かれる主人公フレディ前村の青春の叙事詩ともいえるこの作品。

ただし今の若い世代には、ゲバラと言われてもピンとこない人も多いかもしれません……

《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街vol.261》

ならば、ちょっとばかりゲバラやキューバ革命について、一緒に予習復習してみましょう!

キューバ革命とキューバ危機
カストロ兄弟とチェ・ゲバラ


1898年に起きた米西戦争でスペインに勝利したアメリカ合衆国は、それまでスペインの属国であったキューバの独立を認めさせますが、1901年プラット条項で保護国として以降、長年にわたってキューバに内政干渉を続けていきました。

1952年、軍事クーデターでキューバを掌握したフルヘンシオ・バティスタは従来通りアメリカの援助を受けて独裁強化を図りますが、まもなくして共産主義の影響を受けた学生や左翼組織による反バティスタ運動が高揚し、52年7月26日、フィデル&ラウル・カストロ兄弟などをリーダーとする123人の若者が武装蜂起しますが、政府軍によって鎮圧され、その多くは虐殺されます。

55年5月、バティスタは恩赦で政治犯をすべて解放し、カストロ兄弟はメキシコに亡命し、再度バティスタ政権打倒のための準備を行います。

このときカストロが出会ったのが、アルゼンチン人の医師チェ・ゲバラ(正式な名前は、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)でした。

ゲバラはカストロらが組織した集団“M26”に加わります。

56年11月、プレジャーボート“グランマ号”に乗り込んでメキシコを出発したM26の面々は、祖国に上陸した途端、政府軍に捕らえられ、その多くを失います。

辛くも逃げのびることができたカストロ兄弟やゲバラたちは、キューバ東南部マエストラ山脈に隠れつつ、革命軍としてゲリラ戦を開始。

そして58年、革命軍は徐々に政府軍を追い込みながら首都ハバナへ進軍。同年12月31日、バティスタは辞任演説を行い、翌59年1月1日にドミニカ共和国へ亡命。

まもなくしてハバナは革命軍に占拠され、8日には名実ともにキューバ革命が成し遂げられました。

この後キューバ首相となった兄フィデル・カストロはアメリカ政府に友好的態度を示そうとしますが、アメリカ側があからさまに冷遇したことに憤慨し、当時アメリカが7割以上所有していたキューバの農地を接収。これによってアメリカとの関係は一気に悪化し、同時に兄カストロ首相は弟のラウル・カストロ国防大臣を通じてソ連と接近していきました。

1961年1月3日、アメリカ政府はキューバとの国交を断絶(この措置は米オバマ政権まで、およそ50年にわたって続くことになります)。

米ジョン・F・ケネディ大統領はアイゼンハウアー大統領の後を受け継ぎ、61年4月15日、亡命キューバ人部隊によるキューバ侵攻を図りますが(ピッグス号事件)、ソ連の支援を受けたキューバ軍によって逆に制圧。

以後キューバ政府は、先のキューバ革命を“社会主義革命”と説き、62年にはソ連と秘密裏に軍事協定を結び、核ミサイルを国内に持ち込んだことから、同年10月、米ソ全面核戦争寸前に至る“キューバ危機”が勃発。それはまさに世界崩壊の危機でもありました。



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ゲバラのその後
ゲバラの映画


64年12月、チェ・ゲバラは国連総会に出席してアメリカを非難し、ソ連への支援を求める演説を行っていますが、そこで彼はかつて革命運動の際に使われていた合言葉「祖国か、死か!」を紹介し、その後の革命運動に身を投じる世界中の若者たちに多大な影響を与えることとなりました。

このあとゲバラは国際的革命闘争に参加するため、キューバを離れ、アフリカのコンゴ動乱に参加。66年にはチェコ情報機関に匿われ同国に滞在し、その後ボリビアに潜入。しかし、67年10月8日、ボリビアのバジェグランデ近郊イゲラ村の近くで捕らえられ、9日に処刑されました。

ゲバラを描いた映画としては、『ミクロの決死圏』などの名匠リチャード・フライシャー監督による『ゲバラ!』(69)があります。当時キューバと敵対していたアメリカの資本でキューバの英雄をヒロイックに描いたという点で興味深いものがあります。ゲバラには『ドクトル・ジバゴ』の名優オマー・シャリフが扮し、革命の始まりから最期までを熱演しました。

『トラフィック』のスティーヴン・ソダーバーグ監督とベニチオ・デル・トロが再びタッグを組んだ『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』(08)の2部作は、ゲバラが死の二日前まで記していた日記を基に構成されたもので、今のところゲバラの生涯を描いた映画としてもっとも有名なものでしょう。ベニチオはこれでカンヌ国際映画祭男優賞を受賞しています。

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ドキュメンタリー映画としては『チェ・ゲバラ―人々のために―』(99)『モーターサイクル旅行記』(00)『チェ・ゲバラ 英雄の素顔&最期の時』(04/未)『チェ★ゲバラ 世界一有名なポートレート』(05/未)などがあります。

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またロバート・レッドフォードはゲバラの著作『モーターサイクル南米旅行日記』などを基に、革命運動に投じる前のゲバラと親友アルベルト・グラナードの南米大陸をめぐる旅を描いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(03)を製作していますが、そのメイキング・ドキュメンタリー『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(04)は、アルベルト・グラナード本人(当時82歳)がおよそ6か月にわたる撮影に同行しながら、ゲバラの素顔を語っていく構成にもなっています。

ゲバラからその名を授けられた
日系人“エルネスト”の青春


さて、思わず長くなってしまいましたが、こういったゲバラの革命人生に魅せられた若者がフレディ前村ウルタードで、映画『エルネスト』は彼を描いた青春映画です。

1962年、20歳のボリビアの日系二世でもある彼は、1962年、20歳のときにキューバのハバナ大学医学部に留学し、医者を志しますが、キューバ危機の際に民兵として応召され、そこでゲバラと出会い、彼の人間的魅力に感化されていきます。

そして再び学生に戻っていた彼でしたが、祖国ボリビアで軍事クーデターが起きたことを知り、革命兵士として戦場へ向かう決意を固めるのです……。

本作は戦闘スペクタクルを主眼としたものではなく、あくまでもフレディの青春に焦点を当てたもので、その意味では大学生活の中での諸描写が実に味わい深く、いわば今から半世紀ほど前の革命の理想を夢見た若者の実像を、オダギリジョーが淡々とした味わいで見事に好演しています。

フレディはやがてゲバラから、彼の名前の一部“エルネスト”を戦士名として授けられます(それが本作のタイトルへ結びついています)。

また映画の冒頭、何とキューバ革命を成し遂げた後の1959年、ゲバラがキューバ使節団団長として日本を訪れ、広島の原爆ドームや資料館などを見学していたという事実が描かれていますが、そのとき彼は日本の記者に「どうして君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされたのに怒らないんだ?」と問いかけています。
そんな彼の疑問が、やがてアメリカとキューバとの対立にも繋がっていくかのようです。

正直、映画を見たときに、これは時代背景などを把握しておいた方が幾重にも楽しめるだろうと思い、今回は何だか歴史の授業みたいなことを書きなぐってしまいましたが、映画とはこういったエンタテインメントを通して知識を継承することのできる啓蒙的メディアであると確信している身としては、この作品こそはそれに見合ったものではないかとも思えてなりません。

なお本作は、黒木和雄監督『キューバの恋人』(69)以来の日本とキューバの合作映画ともなっております。

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(文:増當竜也)

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