『平成狸合戦ぽんぽこ』がもっと面白くなる「8つ」のこと!絵柄が変わる理由は?

© 1994 畑事務所・Studio Ghibli・NH

高畑勲監督の命日でもある本日4月5日、『平成狸合戦ぽんぽこ』が金曜ロードSHOW!で放送となります。

そのタイトルには“合戦”とあり、“ぽんぽこ”という可愛らしい響きの言葉も添えられていて、これだけだと痛快無比な活劇になっているような印象もあるのですが……実際の本編ではかなり辛く苦しいシーンも多く、良くも悪くも期待とは違った内容であったと感じた方も少なくはないでしょう。

ここでは、『平成狸合戦ぽんぽこ』の面白さや奥深さを高畑監督の作家性などから読み解き、どのようなことが劇中で訴えられていたのかを探って行きます。

※以下からは『平成狸合戦ぽんぽこ』本編のネタバレに大いに触れています。観たことがないという方はご注意ください。

1:アニメでありながら実はドキュメンタリー? 
高畑監督はファンタジーで解決しない作家だ!

まず、高畑監督は“現実を忘れて没入できるファンタジー”に懐疑的、もしくはほぼ否定的と言ってもいいスタンスで作品を作り続けているということが重要です。それは「たとえファンタジーによって愛や勇気や感動を与えられ励まされたり、あるいは首尾よく問題を解決できたとしても、それは作中世界においての感情や対処法であって、現実世界とは懸隔している。私たちはファンタジーの世界の事象が現実には通用しないことを痛感するのみで、それはすなわち“現実で生きるイメージトレーニング”にならない」という考えによるものだったそうです。

『平成狸合戦ぽんぽこ』において、たぬきが2足歩行で歩いたり、人間やお化けに化けるということはファンタジーなのですが、描かれている問題そのものは言うまでもなく非常に現実的です。

たぬきたちは多摩ニュータウンの開発で生きていく場所を失いつつあり、様々な方法で人間に対抗しようとしても思うような成果が得られず、あれだけ総力を結集して行った妖怪大作戦でさえもテーマパークの宣伝であったと勝手に公言されてしまう……端的に言って、「人間やお化けに変身できる程度の力だったら、そりゃあそうなるだろうなあ」という物語になっているのです。事実、高畑監督は「あくまでも現実にたぬきがやったことは、いくら想像を巡らせても、せいぜいこのくらいではないかというものを描きたかったのです。たぬきが置かれている現状を抜きにして勝手な夢やまやかしの希望を語る気にはなれません」とまで言っているのですから……。

加えて、高畑監督は本作をある種の“記録映画(ドキュメンタリー)”であるとも語っています。それも「たぬきには大きな力がないから、こういう状態になってしまっている」という現実を見据えたからこそであり、「たぬきにファンタジーらしい大きな力を持たせて、人間たちと上手く対抗していくようなことにはしなかった。そんなものを作ってもしょうがないんです」と、これまたバッサリと言い切ったことまでもあるのです。

絵として描かれたアニメ作品、ましてやたぬきが人間やお化けに変身したりする内容を記録映画と呼ぶなんて矛盾しているようにも聞こえますが、“現実的な問題を極めて現実に即した条件で描く”ことは確かにドキュメンタリーの特徴ですし、それを現実の細やかな動きを再現したアニメでやってのけることにこそ、高畑監督の“らしさ”が表れているのです。

総じて、『平成狸合戦ぽんぽこ』が「たぬきたちが力を合わせて自然を破壊する人間たちをやっつける」などといった単純な物語構造にならなかった、努力や挑戦が報われるようなカタルシスもほぼほぼなく、スカッとするような内容にならなかった……その理由は、アニメでありながら現実をそのまま投影したドキュメンタリーのように“なるよう”意図的に作られていることと、「ファンタジーで物事を解決しても現実で生きる力にはならない」と考えている高畑監督の作家性が強く働いていることが理由と言っていいでしょう。

なお、高畑監督は本作の制作にあたって、たぬきの動態や習性を映像などで調べることはもちろん、多摩のたぬきの保護運動や事故死が頻発するたぬきの現状も取材し、さらにはたぬきの様々な伝説も収集、たぬきの妖怪を描いた日本画をも参考にするなど……できる限りのことを調べ抜いています(この徹底した取材ぶりは高畑監督作およびジブリ作品の多くに通じています)。これもまた、高畑監督が本作を(現実に根ざした)記録映画と呼んだゆえんなのかもしれません。

2:人死にが出てしまう理由とは?

本作で極めて“現実的”に描かれていることの1つに、明確に“人死に”が出ているということもあります。開発現場で働いている人間のところにたぬきたちが奇襲攻撃を仕掛けたせいで、テレビでは「運転手3人が死亡、3人が重軽傷を負い、新築中の住宅1棟が全壊するという大惨事が起こりました」と報道され、初めは鶴亀和尚の提案で1分間の黙祷が人間たちに捧げられそうになるものの、すぐにたぬきたちはこらえきれずに笑い出し、「わーい!勝った勝った!」と喜んでしまいます。ここに後味の悪さを覚える方も多いことでしょう。

実は高畑監督は、この人死にの描写について驚いたとかショックを受けたといった反応を意外に感じていた、それどころかこの描写を“簡単に考えていた”そうです。「スリップ事故なんかで実際に人は死にますよね。解釈としてはそれがたぬきの仕業であったというのは充分にありうるわけだし、そういう時にテレビの報道で人はいちいち運転手に同情していないですよね」などと……。

このどこか達観したような高畑監督の言葉には恐ろしさも感じると同時に、本質をついていると言えます。そうした“無関心さ”が人間たちにはあり、それはたぬきがどれだけ化け学を通じて人間たちを脅かそうとしても(それこそ人死にが出ても)、結局はほとんど効果がなく開発が続けられてしまう、問題が顕在化していかないという劇中の描写につながっているのではないでしょうか。それは事故を起こして人間を殺した加害者であるはずのたぬきが、黙祷を捧げようとしたのに笑い出してしまうという不謹慎にもほどがあるシーンも同様と言えます。この人死には、人間とたぬきのどちらかが悪で善と二元論で分けない、物事を単純化しない高畑監督が、いかに問題そのものを冷静に捉えているかという証明と言えるかもしれません。

また、言うまでもなく人間だけでなくたぬきも劇中で無残に死んでいきます。 “遠ざかりゆく宝船”に乗って“死出の旅”に出るといった抽象的な描かれ方もがされることもありましたが、ラスト付近では事故に遭ったたぬきが黒い袋に入れられるという、これまた現実的な死が描かれたりもします。死を“当然起こりうること”として描いているのも、高畑監督の作家性の1つなのでしょう。

3:映画から削らざるを得なくなった“問いかけ”があった?

「問題を単純化していない」と前述しましたが、本作で掲げられたメッセージを「自然はやっぱり大切だな」とシンプルに受け取ることは多いことでしょう。開発によって住む場所を奪われてしまうかわいそうなたぬきたちの奮闘をずっと描き、結局はたぬきが人間に負けてしまって一部が“どっこいなんとか生きている”状態にならざるを得ず、バッドエンドと言っても過言ではない、その結果として自然破壊をどうしても批判がちに見てしまいそうな物語になっているのですから……それも無理はありません。

実は、この「ありきたりな“自然が大事”というメッセージに受け取りかねない内容になってしまった」のは、高畑監督自身が悔やんでいたことでもありました。公開になんとか間に合わせるために映画の時間における10分間を削らざるを得なくなり、その条件を高畑監督自身も呑んだのですが、カット部分が決定した翌日から高畑監督は毎日2時間くらい「カットしたことで作品のテーマが剥き出しになってしまった……」と鈴木敏夫プロデューサーに愚痴をこぼしていたのだそうです。

その高畑監督の考えた元の物語では「自然を大事にしようと言っているほうにも問題があるんじゃないか?」という問いかけも含んでいたそうです。「世界というのはそんなに単純なものじゃない。人間は最も複雑なものを背負って生きている、そこまで考えた作りであった」と……。ひょっとすると、前述した「たぬきたちが初めは殺してしまった人間たちに黙祷を捧げようしたものの、たまらずに笑い出してしまう」というのも、その“自然を大事にしようと言っているほうにも問題がある”という提言の名残だったのかもしれませんね。

ともかく、作品へのこだわりが強烈であったはずの高畑監督が、今回は10分間も削らざるを得なくなったという、どうしようもない“妥協”が『平成狸合戦ぽんぽこ』にはあったこということです。残念ながら高畑監督の意図は劇中で全てが示されなくなってしまったわけですが、それを観客それぞれが劇中で描かれなかったことを想像したり、奥深いところまで考察を巡らせてみるのも良いでしょう。

余談ですが、高畑監督は本作に限らずスケジュール通りに作品を仕上げてくれない、完璧主義であるがゆえに制作が遅れに遅れていくことも有名です。『平成狸合戦ぽんぽこ』はもともと1994年の夏公開予定だったのを、配給の東宝の人たちとも口裏を合わせて“春公開”と入ったポスターを制作してそれを高畑監督に見せておいて(それを高畑監督は信じていた)、案の定スケジュールが遅れているとわかったら鈴木プロデューサーは「東宝さんへお願いしてなんとか夏公開にしてもらいます!」と言ったりもしたのだとか。

さらに、制作の遅れに限らず高畑監督は周りに迷惑をかけ続け、宮崎駿とも激烈なまでに対立をしたり、スタッフを心身ともにボロボロにしたりもする、超めんどくさい人であったというエピソードに事欠きません。そのように頑固であったからこそ、高畑監督は素晴らしい作品を世に送り出し、たくさんのアニメ作家を育て上げ、後年のアニメ作品にも多大な影響を与えていた、唯一無二の偉大な作家であったのでしょう。

4:たぬきたちがいろいろな絵柄へ変わる理由とは?

劇中では4種類の絵柄のたぬきが描かれています。

(1)4足歩行の現実そのままを写実的に描いたたぬき

(2)2足歩行で上着も着ていたりするたぬき(これがメイン)

(3)ワーッと喜んだ時のマンガチックになったたぬき

(4)終盤に「トホホ…人間にはかなわないよ…」と倒れ込みながら言った時の(死にゆくシビアさとは裏腹の)さらにマンガチックになったたぬき

こうして4種類の絵柄の違うたぬきが登場するのは、高畑監督によると「化けることができる生き物なんだから、機会や状況によって姿を変えることは当然ということで、そのほうが端的にたぬきというものを表現できると考えた」ということが理由なのだとか。

さらに、4種のたぬきを描くことで「“たぬきとは一体何であるか”を示したかった」ことに止まらず、「これだけのイメージがたぬきにはあるけれど、結局は(1)の4足歩行のたぬきが本当のたぬきであるとように収斂していく」という意図も高畑監督にはあったようです。それも(2足歩行であったりマンガチックなたぬきだけを描いたことによる)現実離れしたファンタジーにしない高畑監督の“らしさ”なのでしょう。

ちなみに、(4)の「トホホ…」な感じのたぬきは“杉浦だぬき”と呼ばれています。その見た目は宮崎駿監督や鈴木プロデューサーが大好きな杉浦茂によるマンガ「八百八狸」を参考に設定されており、このマンガは本作の企画の発端の1つにあったのだそうです。(3)の浮かれているたぬきも、杉浦だぬきのバリエーションの1つなのでしょう。

5:宮崎駿監督と高畑監督もたぬきのモデルになっていた?

本作におけるたぬきたちは“自然”そのものの象徴のようですが、次第に対立をしていたはずの“人間”そのもののメタファーにも思えてくる、ということも興味深いものがあります。

例えば、ラストで人間に化けることができるたぬきは人間に溶け込み働き出し、「多くは激しいストレスに耐えられず体を壊して山へ帰りたがっています。まったく、こんな暮らしによく人間は我慢できるなと感心してしまいます」などとナレーション(正吉)が語っていたりもするのです。これは“田舎から都会に出て働いている人間”そのものにも当てはまることですよね。宮崎駿もこのシーンについて「自分たちの一番住みやすい場所は無くなってしまった。でも、無理をしても生きていくしかない。化け学を使って、栄養ドリンクを飲みながら、化け続けるしかない。それは一見皮肉に見えるかもしれないが、実は私たちの今日をとてもよく表している」と分析していました。

その他、終盤で3年ぶりに戻ってきた文太が「こんなことができるのはたぬきしかいない!他にいるもんか!人間どもはたぬきだったんだ!ヤツら、たぬきの風上にも置けない、臭い臭い古だぬきなんだ!」と人間を侮蔑の意味での古だぬきと呼びます。故郷をまるで別の場所に変えるほどの破壊をした人間は、もはや化け学を使うたぬきとも変わらない(それ以上)のではないかと……。こうなると、劇中における人間は「うまく社会でやっていける反面、弱者に対しては無関心でいる人間」、たぬきたちは「社会にどうにかして溶け込まざるを得なくなったり、隠れてなんとか生きていくしかない弱者である人間」にも見えてくるのです。(しかも、その弱者であったはずのたぬきの中には不動産業で成功して平然と森林開発をしている者もいたりします)

さらに興味深いことに、鈴木プロデューサーによると、登場するたぬきたちは東映時代の宮崎駿と高畑監督、その仲間たちをモデルにしていたそうです。

人間たちに特攻を仕掛ける権太は宮崎駿、冷静に物事をみている正吉は高畑監督で、その他のキャラクターもそれぞれ誰を投影しているのか、当事者にはわかるように作られていたのだとか。宮崎駿は初号試写で本作を観たとき最初から最後までずっと泣いていて、その涙の理由を「映画の中に自分たちの青春を見たんでしょうね」と鈴木プロデューサーは思ったのだそう。劇中で権太と正吉が対立する姿は……仲が良いというよりも、愛憎入り混じった感情をお互いに持っている、宮崎駿と高畑監督の関係性そのままなのかもしれません。

さらにさらに、本作においてイメージビルディングと画面構成を担当した百瀬義行は、「絵を描いている僕たちもたぬきのようなものでした」と語っています。というのも、劇中の大きな見せ場である“妖怪大作戦”のネタを考えている時の自分たちがいかにバカバカしいことをやっているかと気づいて、その思いつきでやってしまう様が、劇中の“しょせんたぬきだから何かどうにもくだらない”(それこそ子どもに全く怖がられていない)妖怪大作成の内容とシンクロしていると考えたからなのだとか。

さらにさらにさらに、本作の企画の発端の1つは、宮崎駿からの「『紅の豚』で俺は自分をモデルにしたんだから、パクさん(高畑監督)はたぬきをやれ」という無茶振りにもほどがあるものだったりします(そこには、今まで日本ではたぬきを描いたアニメ作品がなく、それはアニメ業界の怠慢ではないかという考えもあったのですが)。高畑監督は『平成狸合戦ぽんぽこ』に登場するたぬきたちにそれぞれに、(宮崎駿が『紅の豚』でそうしたように)自身の姿を投影したのかもしれませんね。

※宮崎駿が『紅の豚』でどのように“自分自身”の姿を描いたのかは、以下の記事も参考にしてみてください↓
□『紅の豚』ポルコはなぜ豚になったのか?その疑問を解き明かす5つの事実

6:自然と共生する暮らしを“気晴らし”で見せた理由とは?

※以下からは『もののけ姫』本編のネタバレに触れています。ご注意ください。

本作のクライマックスは、たぬきたちが最後の力を振り絞り、多摩の昔の美しい風景を取り戻す……というよりも幻影を見せるというものでした。このことに文太は「 何の意味があるんだ?今さら そんなことをして…」と問いますが、おろく婆は「気晴らしじゃ」、六代目金長は「遊び心をなくせばたぬきもたぬきではないな」と答えています。そこには、正吉をはじめとしたたぬきたちの子どもの頃の姿もあったようです。

「たぬきたちの力で現実に自然が戻りました」という帰結ではなく、最後のたぬきたちの行動は“非現実”そのもの、あくまで“気晴らし”であり“たぬきとしてのアイデンティティのため”、幻影に過ぎないというのも、ファンタジーで物事を解決しない高畑監督らしいところです。

また、高畑監督はこのクライマックスを単に昔の日本の風景のノスタルジーとして描いていたわけではなく、「あの美しさが心に沁みるのは、古いものを人間が自然の力を借り、自然の力を生かしながら作り上げたからだと思います」とも語っています。いわば、美しい昔の風景を通じて、人間と自然の共存の仕方について1つの“お手本”を提示しているとも言えるでしょう。

さらに、たぬきたちはただ負けて全てを失ったわけではありません。新聞では“タヌキと共生できる暮らし”などどいう美辞麗句と共に取り上げられ、開発にあたり地形を活かし、元の山林を残す形で公園が作られるようにもなったのですから。幻影を見せるだけでなく「現実でほんの少し良くなるかも」という希望を持たせる一方で、やっぱり“美辞麗句”というネガティブにも思える言葉を使っている……というバランスになっている、やはり単純な解決にはならないということも示唆されているのです。

また、後年の宮崎駿監督による『もののけ姫』は、『平成狸合戦ぽんぽこ』と同様に人間と自然との戦いが描かれ、やはり善悪の二元論で分けない複雑な思惑が交錯する内容になっています。両者で違うのは……『もののけ姫』のラストでは、シシ神に首を返すと山々に実際に緑が戻っていくということでしょう(とは言え、このことについてサンは「蘇ってもここはもうシシ神の森じゃない」というネガティブな物言いをしています)。

題材もラストも似ている『もののけ姫』と『平成狸合戦ぽんぽこ』ですが……『もののけ姫』ではファンタジーとしてのシシ神の力が現実の問題に及んでくる一方で、『平成狸合戦ぽんぽこ』ではファンタジーが単純に現実の問題解決にはならないのです。このことに、宮崎駿と高畑監督の明確な作家性の違いを感じます。宮崎駿は「子どもには現実からの逃げ場が必要である」という理由でファンタジーを主体とした作品を多く手がけ、高畑監督は前述した通り「ファンタジーは現実を生きるイメージトレーニングにならない」と、まるで正反対の信念を持っているのですから。

※『もののけ姫』のラストはこちらでも解説しています↓
□『もののけ姫』を奥深く読み解く「5つ」のポイント!子供が登場しない理由とは?

『もののけ姫』 Ⓒ 1997 Studio Ghibli・ND

7:ラストは『火垂るの墓』にも似ていた?

※以下からは『火垂るの墓』本編のネタバレに触れています。ご注意ください。

最後に夜にたぬきたちが集まり、楽しく騒いでいた場所をよく見ると……そこは明らかにゴルフ場でした。さらに、エンドロールでは光輝く夜の都会の風景をずっと映し出すことになります。

実は、高畑監督は(前述した人間と自然の共存した昔の美しい風景と対比して)「ゴルフ場なんてのはいかに醜いかと思います。飛行機で空から見れば一目瞭然ですよ」と語っています。つまり、最後にたぬきたちが楽しそうに騒いでいたゴルフ場(しかも上空から俯瞰して見ている)は、人間が自然を都合の良いように勝手に作り変えた場所……都会のたぬきたちが遊べる場所はその醜い場所であったという、かなり痛烈な批判が込められているのでしょう。

さらに、“ビルが立ち並ぶ現代の街”がラストで映し出されるというのは、同じく高畑監督作品『火垂るの墓』でも同様です。こちらでは死しても同じ時間の“煉獄”に閉じ込められてしまう悲劇を描いていたとも考えられるラストでしたが、この『平成狸合戦ぽんぽこ』では光り輝く夜の街を映し出すことで、自然破壊をした人間がそこで暮らし続けているという“現実”を容赦なく突きつけているとも言えます。

エンドロールで聞こえる「いつでも誰かが」の楽しい曲調に反するように、ビルが立ち並ぶ現代の街を映し出し、その“辛い現実から目をそらさせない”というのも……観客に痛烈な形でメッセージを提示する、高畑監督らしさなのでしょう。その光り輝く夜の街そのものは美しく見えるというのも、実に皮肉的です。

※『火垂るの墓』のラストはこちらでも解説しています↓
□高畑勲『火垂るの墓』を読み解く3つのポイント

『火垂るの墓』 © 野坂昭如/新潮社,1988

8:最後のセリフの意図とは?

最後に、ぽん吉がカメラ目線で、明らかに“観客”の方を向いてこう言います。「あの、テレビや何かで言うでしょう。“開発が進んでキツネやタヌキが姿を消した”って、あれ やめてもらえません?そりゃ確かにキツネやタヌキは化けて姿を消せるのもいるけど…でもウサギやイタチはどうなんですか?自分で姿を消せます?」と……。これはどういった意図を持つでしょうか。

このセリフの本質は、開発により動物たちが“姿を消した”と不明瞭な表現で捉えるのは間違いであり、劇中のたぬきたちと同様に“死んだかもしれない”のだという、やはり現実に根ざしたメッセージなのではないでしょうか。同時に、その問題は(キツネやタヌキといった)限定的なものではなく、もっと広く根深いものなのだと……それもまた、死を“当然起こりうること”として描いている、問題を簡単には解決したりもしない、高畑監督らしさであると思うのです。

参考図書

ジブリの教科書8 平成狸合戦ぽんぽこ(文春ジブリ文庫)
ジブリの森へ—高畑勲・宮崎駿を読む (叢書・「知」の森)

(文:ヒナタカ)

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    ライタープロフィール

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    ヒナタカ

    ヒナタカ 「カゲヒナタの映画レビューブログ」運営中のフリーライター。All Aboutでも映画ガイドとして執筆中。なぜか中高生向けの恋愛映画もよく観ています。

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