戦後70年の今、戦争を改めて考える―半藤一利&原田眞人監督フォーラム全文
つまり、その若い人たちが「断固として日本は降伏しない、徹底抗戦、そして本土決戦へ」とにかく敵に大損害を与えて有利な形で、有利な条件で講話に入るべきであると、そうしないで講話に入ったら、無条件に日本は“占領政策”を押し付けられるということで、この連中は決起するわけなんです。
こういう若い人たちですから、戦歴といいますか、軍歴はありません。ほとんど、この人達は陸軍大学校出です。ですからみんな秀才です。秀才な人たちですから、前線に出ることはほぼなく、みんな陸軍省か参謀本部附のどちらかに属する人たちであったと言ってもいいと思います。
念の為に申すと、畑中さんという方はものすごく評判のいいといいますか、私が取材をしまして、いろんな人から話を聞いて、1人として悪口を言う人はいないんです。あのぐらい純粋にあのぐらい日本の国を思い、あのぐらい自分のことを構わずに、信念といいますか、自分が考えていることに一直線に進むことが出来た人間というのは、他に居なかったような気がするというぐらいに評判のいい方でございました。
その人が思いつめて断固として「降伏は許しがたい」といって立ち上がったわけでございます。8月15日の天皇が放送をする直前に、宮城前の松林の中で拳銃で自分の頭を撃って自殺をされたという。
この人達のことを書いていて誠に申し訳ないことで、行かなきゃいけないと思いながら行ってないんですが、どなたが建てたか存じないんですが、今は麻布の清正寺というところに碑があります。もし映画をご覧になった後で、この若い人たちの“命を捨てても”本気になって国のためにいろんな信念を通した、ということに感銘されて少しでも気の毒に思うなら、そこおwお参りをされるといいかと思います。
私が聞いた範囲では、畑中さんの1つ歳上の椎崎さんという方が、少し政治的な感覚の強い人で、うまく使ったという言い方ではおかしいんですが、2人で乗っかったという風な人が多かったという風に思います。
古賀さんと石原さんという人は、2人とも近衛師団の参謀です。宮城の中でクーデターを起こすためには、宮城の中に入らないといけません。宮城の中に入るということは近衛師団の兵隊しか入れないんです。畑中さんと椎崎さんがいかに自分たちが信念を通そうと思っても宮城の中にはいれてもらえないんですね。
そこでどうしても近衛師団の参謀を仲間に引き入れる必要があるということでいろんな工作があったんだと思います。この人達も畑中・椎崎さんに、乗っかりまして仲間に加わったということでございます。
これを上から見守っていて、本当は一緒に動いたという人たちの中に竹下正彦という中佐と、井田正孝という中佐がいるわけです。この方たちは全部、陸軍大学校、ほんと秀才です。
少し歳上っていうのは違うんですね。井田さんは33歳でほとんど彼らと仲間なんですけど、井田さんは最後までやるつもりだったと思うんですが、途中から諦めたというのは早かったと思います。竹下さんは37歳と、ほんと少しの歳の差がはたらいて、あっと後ろに回ったということになるかと思います。
竹下さんは、実際にお会いして、何でも話してくれたんですけれども、何でも話しながら肝心要のことは全て隠しておりました。そのことが分かりまして「竹下さんもなかなかの狸だな」と今は印象を持っております。でも、こういうのは、全部が全部いっぺんに出ることはないので、時間が経つことによっていろんなことが少しずつ出てくるもんだという風に私は思っております。
なにせこの『日本のいちばん長い日』の元の原本は50年前に書いたものです。ですから、わたしは分かった事実を訂正して今は“決定版”という名前で出ております。今はかなり正確になっておりますけれど、1番最初の時のご本をお持ちの方は決定版とだいぶ違っていると思いますので壇上から申し訳ないんですが、お詫びして訂正をさせていただきたと思います。
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