映画コラム

REGULAR

2016年03月29日

正解のない映画たち〜実験映画についての瞑想〜

正解のない映画たち〜実験映画についての瞑想〜

あまり小難しい話を書いても仕方がないとは判っているのだけれど、せっかくクラシック映画を扱った連載をするのであれば、順序的にここに触れないとおかしなことになるだろうと、改めてリュミエールの『工場の出口』辺りを観直してみると、映画の方法論が変わっただけで、そのものの構造については大きな変化がないようにも思える。建物の中から出てくる群衆が、左や右に流れていくという人間の行動をフィックスされたキャメラで捕えるという行為は、結局120年以上経っても同じである。これだけでコラムにしようとすると、やたらと面倒な話になるので、もう少し最近の時代に時計を進めて、2本の短い映画を紹介しようと思う。


まずは〝呪われた映画作家〟と異名を持つルイス・ブニュエルが初めて作った映画で、あのシュールレアリズム作家サルバトーレ・ダリが共同監督を務めた『アンダルシアの犬』だ。

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剃刀を研いでいる男が煙草を吸いながらバルコニーに出ると、満月の真ん中を細い雲が通り過ぎようとしている。そこに、剃刀で女性の眼球を切り開くという衝撃的なイメージが登場する1928年の実験映画だ。

実験映画、というフレーズは、現代ではあまり聞き慣れないものである。場合によってはこういったものをアバンギャルド映画と呼称し、ある種の純粋芸術として取つきづらいジャンルのようなレッテルを貼られることも多々あるが、もっと単純に言えばアバンギャルド(=前衛)なので、何かの少し先端を行く表現であると考えれば非常にわかりやすい。ここでいう「何か」とは「映画」に他ならない。

ちょうど1928年ごろといえば、トーキーが誕生した(『ジャズ・シンガー』は1927年製作)時期なので、映画の選択肢に「喋るか」or「喋らないか」が加わり、今のようにダイアローグが映画の成立要件に加わり、映像だけで物語ることが少なくなり始める。それを今にも阻もうと言わんばかりの、強烈なイメージのモンタージュは、当時のシュールレアリストたちには熱く受け入れられたようだが、一般大衆にはどうだったのだろうか。

少なくとも、現代で、筆者の周りで大学時代に授業で本作を観せられたり、課題のテーマから短いからというだけの理由で本作を選んだ人々からは、口を揃えて「グロテスク」「何が何だか判らない」というような声が飛んだ。だからと言って、それを言われた筆者自身も「判らないよね。だから面白いんだ」としか言いようがなかった。

映画は映像と音楽とが可視化された総合芸術なのだから、その内容を無理に判ろうとする必要はないのだと、筆者は考えている。「判る」or「判らない」の判断は、内容よりも「作家の意図」に向けられているものだと考えれば、『アンダルシアの犬』はブニュエルとダリが、映画というものにおける映像のイメージを重視し、それの重要性を後継の映画作家たちに忘れさせないために強烈なイメージの数々を焼き付けたコラージュに過ぎないと理解出来る。

とはいえ、自転車で倒れて頭を打った男の魂が蘇ったとか、そのような簡潔なプロットを頭の中で想起させておけば筋書きも何となく見える。作り手が、受けての解釈に委ねて作っている以上は、正解は存在しないのである。

同じように、1943年にマヤ・デレンが夫アレクサンダー・ハミッドと共に作り上げた『午後の網目』も、正解のない実験映画の代表格だ。

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花を拾い、家に入ろうとすると鍵が階段から落ちる。家に入るとリビングには不穏な空気が漂い、パンから零れ落ちるナイフ、受話器のとれた電話、レコード、窓の外には顔が鏡になった人物が歩き、それを追いかける自分が、再び家に入ろうとする。このループの中で、少しづつ見える状況が変わっていき、やがて何人かの自分が、ソファで眠る自分にナイフを向ける。

これも鍵やナイフなどのイメージを重ね続けているものであるが、こちらのほうが解釈はしやすい。夢を媒介させて積み重ねられたイメージを観客に与えているのだと理解しておけば、この作品の興味深い構造は難なく頭に入ってくるのである。もっとも、登場するイメージの対象物が、フロイトに言わせれば「リビドー」の一言で片付けられ得るものばかりというのもなかなか解釈が拡がるのだけれども。

これらのような実験映画が、最近ではめっぽう少なくなってしまったのは悲しい。というか、おそらく少なくなったのは作られている数よりも、世に出てくる数の方なのだろう。映画の方法論が一通り出尽くした今では、何か飛び抜けて目新しいものを作り出すことが難しくなっているのだ。最近のアバンギャルド映画作家として、オーストリアのピーター・チャカスキー辺りがいるが、過去の映画作品のフッテージにアレンジを加えただけのもので、正直なところ面白さは皆無である。とは言え、それによって新しい見方を提示することができれば、おそらくいずれ語り継がれるような作品が生まれるのではないかと淡い期待も寄せている。

(文:久保田和馬)

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