映画コラム

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2017年01月27日

『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く

『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く


© 1995 柊あおい/集英社・Studio Ghibli・NH


思春期の少年少女が恋や進路に悩み、繊細な心の変化を描いた『耳をすませば』に魅了された方は多いでしょう。

ここでは、そんな本作が目指した作品のテーマや、これから大人になる若者に向けてどのようなメッセージが込められているかを、書き出してみます。

※なお、以下からは本編のネタバレが多分に含まれていますので、これから映画をご覧になる方はご注意ください!

1:宮崎駿から若い人への“挑発”があった!


本作は、あまりのも甘酸っぱさから「中二病っぽくて恥ずかしい!」「こんなリア充な青春を送ってこなかったから鬱になる!」という良い意味で後ろ向きな感想もよく耳にします。それもそのはず、本作のプロデューサー・脚本・絵コンテを務めた宮崎駿は、本作についてこう語っているのですから。
「この作品は、自分の青春に痛恨の悔いを残すおじさん達の、若い人々への一種の挑発である」

「この作品は、ひとつの理想化した出会いに、ありったけのリアリティーを与えながら、生きることの素晴らしさを、ぬけぬけと唄いあげようという挑戦である」

つまり宮崎駿は、自身の青春時代の遺恨を作品に反映して、臆面もなく理想化された若い男女の出会いを描いて、若い人たちを「君たちもこんなふうにがんばってみようよ」と煽っているんですね(笑)。それはもう、居心地の悪くなる人がいるのも当然です。

しかし、本作がご都合主義的な“理想化されたファンタジー”で終わらず、宮崎駿が語っている通り“ありったけのリアリティー”が与えられていることこそが、本作の何よりの魅力なのではないでしょうか。そのことは、原作漫画と比較をしてみると、はっきりと見えてきます。




© 1995 柊あおい/集英社・Studio Ghibli・NH


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