映画コラム
『沈黙ーサイレンスー』が100年続く映画だと思った理由。
『沈黙ーサイレンスー』が100年続く映画だと思った理由。
どの登場人物からも「一考察」が得られる。
主役のロドリゴをはじめ、他の登場人物もロドリゴとの絡みの中で、ひとりひとりの特徴がしだいに浮き彫りになっていきます。全員のことを書いていったら何万字にもなってしまいますが、印象に残ったセリフからちょっとだけ考察してみたいと思います。
人間100%善人もいないし、100%悪人もいない。
100%強き者もいないし、100%弱き者もいない。
人間の根源的なところを描いていると思います。
どの登場人物も400年経っても、全く色あせていませんから、あと何年でも、その魅力は続くと思います。
ネタバレになりますが、この映画だけで「いいセリフ集」が一冊作れてしまうくらいありました。
ちなみに脚本は、スコセッシ監督と50年来の友人である脚本家のジェイ・コックスが15年かけて書いたそうです。すごいですね。
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キチジロー(窪塚洋介)
「弱き者はどこで生きればいいのか?」
キチジローは何度でも踏絵を踏んでは、ロドリゴに告悔をせがむ、弱き者の代表のように描かれています。遠藤周作もキチジローに自分を重ねているそうですし、観た人の多くが、自分の中にもキチジローがいると感じるのではないでしょうか?
家族を裏切り、ロドリゴを裏切り、神を裏切るキチジロー。一方、ロドリゴは、司祭でありトップリーダーとも言える立場です。
しかし、物語が進むにつれ、どちらが弱いのか強いのか、ちょっとわからない感じになってきます。
この二人は真逆のようでいて、似ている気もしてきます。ロドリゴが踏まないのも、キチジローが踏むのも、もしかして理由は同じでは?という気さえしてきます。私には、そう思えました。
弱き者が強き者を支える。
「弱い、狡い、きたない」キチジローが、終盤近くになり、結果として、司祭のロドリゴに希望を与え、本当の信仰へと導いたように思えます。
スコセッシ監督は公開直前の記者会見で、「今の世界で一番危険にさらされているのは若者だと思う。彼らは勝者が世界を制していくことしか見ていないから。それしか知らないのは危ない」と言っています。
これを日本の身近な若者の現実に当てはめて考えた時、受験戦争に勝ち抜いて、ホッとしたのもつかの間、就活戦争の倍率は、実は受験の比じゃなかった……。
勝ち組の基準は明確でないまでも、その少ない強き者だけで世の中引っ張る続けるのは無理があるのではないですか?
強き者は、ロドリゴのように、弱き者にそっくりだったりしませんか?
弱き者の人数の方が多いんですから、弱き者が強き者を支えることがあるのではないですか?
(以上、個人的考察です)
……いろいろな考えが頭をかけめぐり、結構頭がぱんぱんになりますね……。
通辞(浅野忠信)
「似ているのだから、どちらか一方に引き入れることはない」
この人は一体、ロドリゴの敵なのか味方なのか。もしかして友だちなのか?
そう思うほど、言うことが興味深いです。通辞は、イノウエと代わる代わるロドリゴを棄教するように説得します。上のセリフは「仏教もキリスト教も似ているところがあるのだから」という意味だと思いますが、この他にも、通辞のセリフを通して、宗教の違いや異文化について重要な内容を語っているように思います。人間の心というものが何故に、こんなにも葛藤ということを経験してしまうのか?人の心がもともと葛藤する性質を持っていることを、この人が一番表現しているように思えてなりませんでした。葛藤しているのは、ロドリゴのはずなのに!?
イノウエ(井上筑後守)(イッセー尾形)
「お前の栄光の代償は彼らの苦しみだ」
通辞と並んで、イノウエの説得コミュニケーションがすごいです。例え話など実に上手なのです。私だったら、もう説得されています。
しかし、ロドリゴは頑固一徹で考えはかわらない旨、言い返しますから問答は繰り返されます。上のセリフのように、説得側は、かなりはっきり言っています。
ここまで言われて棄教しないのは、本当に神のためなのでしょうか?誰のために踏絵を踏まないのでしょうか?
フィレイラ神父(リーアム・ニーソン)
「主の愛する人々を救え」
ロドリゴ(アンドリュー・ガー・フィールド)とカルベ(アダム・ドライバー)の恩師ですが、棄教して日本人として生きているため、ロドリゴとお寺で対面した時の、気まずいのなんのという表情が素晴らしいです。
ロドリゴも、もう先生とも思わない様子でしたが、終盤近くになり、フィレイラが力のある説得をします。穴吊りという拷問にさらされている農民を前にフェレイラが「主の愛する人々を救え」と言った時、気まずい表情は消えて、カッコ良かったです。
イノウエや通辞ともちょっとアプローチが違います。
ロドリゴが、神を愛しているから踏まないと言うならば、穴吊りにされているその人々は、神が愛している人なのです。
ロドリゴ神父(アンドリュー・ガー・フィールド)
「一緒にいてくれてアリガトウ」
物語が進むにつれ、ロドリゴは唯一の友カルベを失い、司祭の立場を失い、国を失い、最後には、自分の名前まで失います。信仰まで失ったかに見えるロドリゴに、希望のきっかけを与えたのは、キチジローです。
踏絵を踏んで棄教したロドリゴは、棄教してからの方が、なんだか本当のクリスチャンに見えるのです。
自分を裏切ったキチジローに「一緒にいてくれてアリガトウ」と言い、この期におよんでまだ告悔をせがむキチジローの頭に手をのせて祈るロドリゴ。
弱き者を許す、これが本当の司祭なのではないでしょうか?
ロドリゴが踏絵を踏んで棄教すると証文を書いたから、長崎の何百人もの隠れキリシタンが殺されずに済んだのですよね。ならば、踏絵を踏むことが、かえって神の教えを実践したことになるように思うのです。
踏絵を踏むことこそが、愛の行為だったという、そのパラドックスがもし本当なら、私たちが正しいと思い込んでいるものが必ずしも正しいとは限らないということです。
何が良いとか良くないとか、なにが正しいとか正しくないとか、その対立で、誰かを傷つけてしまうのなら、その対立が、別離や争いを生むのなら、その考えが、正しいのではなく、正しいと思い込んでいるだけだったとしたら。
私なら、こう考える。
「AとBでどっちを選んだら幸せになれるか」
私たちがどんなに悩んでも、神さまからのアドバイスは特にないかもしれません。それは、神さまでさえ私たちの心に干渉しないということだと、私なら、そう考えます。その代わり、私たちは、思う力を与えられています。自分の心で、自分の思う力で生きていくことが、生きるという意味なんだろうと思います。
神でさえ、私たちのこころに干渉しないとは!
人間の心には、尊厳が与えられているということでしょうか?
もし、誰かのために何かできることがあるとしたら。
この映画のクライマックスと思われる場面では、なぜ神が沈黙していたのか?そしてイエスが何のために生まれてきたのか?はっきりとセリフで聞くことができます。
私にとっては、結構意外な理由でした。イエスと私では、まるで違いますが、もし私が誰かのためにできることがあるとしたら、それは、ただひとつ、イエスが私にしてくれることと同じことだと思いました。レベルは違うかもしれませんが。
だったら、こんな私でも、大変生きている意味があると思いました。
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まとめ
『沈黙ーサイレンスー』のエンドロールには、音楽がありません。
江戸時代の話にしては、大変スタイリッシュなエンドロールをながめつつ、ほぼ茫然としながら考えます。
人間の弱さ、強さ、信じることとは?生きることの意味とは?
人間にとって大切なものは何か?
その答えは、人間と同じ数だけありそうですね。
背の高さや目鼻立ちが違うように、心もひとりひとり違うのかもしれませんから。
※参考:日本経済新聞2017年2月4日掲載記事
問うべきは「人はなぜ生かされるのか?」
マーティン・スコセッシ監督
※参考:シネマズ日本橋 1月31日「沈黙ーサイエンスー」
出演者舞台挨拶トークショー。
当記事のタイトル「巨匠スコセッシの「沈黙ーサイレンスー」が、
100年続く映画だと思った理由。」の
「100年続く映画」はトークショーよりイッセイ尾形さんの発案です。
(文:こいれきざかお)
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