30年前の映画『ゴンドラ』は、今、なぜ奇跡のロングランヒットとなったのか?伊藤智生=TOHJIRO監督にその理由を訊く
写真提供:Teamゴンドラ
両親が離婚して母親に引き取られ、心を閉ざしながら日々を過ごす少女かがり。青森から上京して高層ビルの窓ふきの仕事に従事している青年・良。都会で孤独に生きる二人は、出会い、やがて良の故郷へと赴く……。
1986年に完成し、88年に公開されるも、その後30年近くも表に出ることがなかった幻の名作『ゴンドラ』が、今年ついにリバイバルされましたが、1月28日から東京ユーロスペースで1週間、35ミリ・フィルムでレイト上映が始まるや、右肩上がりに観客を動員し、最終日は何と満席!
続いて2月15日からポレポレ東中野にてデジタルリマスター上映された折も連日の盛況で、結果として2週間の興行予定を1週間延長する事態に!
そして急遽3月25日より2週間、キネカ大森にて35ミリ・フィルム上映での再続投が決定!
また同日から名古屋シネマスコーレにて2週間、4月22日から大阪シネ・ヌーヴォ、5月には京都みなみ会館、神戸元町映画館と、上映が続きます。
およそ30年前の小さな映画が、21世紀の今、なぜ奇跡的なロングラン・ヒットとなったのか……?
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街vol.215》
『ゴンドラ』の伊藤智生監督に、今回の盛況を受けてのお気持ちや、作品のこと、そしてこれからのことなど伺いたいと思います!
自主映画活動からAVまで伊藤智生監督のプロフィール
インタビューに入る前に、伊藤監督のこれまでのキャリアをざっと紹介していきましょう。
伊藤智生(ちしょう)監督は1956年生まれ。中学時代に映画監督を志すようになり、75年、横浜放送映画専門学校(現・日本映画大学)に第1期生として入学。
76年、森﨑東監督の傑作『黒木太郎の愛と冒険』(77)に脚本&映画監督志望の青年役で参加。79年には六本木にcreative space OMを設立して数多くの自主映画作家をサポートしつつ、自らも映画&演劇活動に勤しんでいきます。
84年、第1回長編映画監督作品『ゴンドラ』の製作に着手し、86年に完成。海外の各映画祭で絶賛された後、88年にテアトル新宿で公開されて大いに注目されるも、製作費の借金返済と生活のために89年よりAV業界に“TOHJIRO”名義で身を投じたところ、これが大成功。
2001年には自社メーカーDogmaを設立し、今も精力的に作品を作り続けています。
そして60歳の還暦を迎えた2016年、ついにTOHJIROは伊藤智生に戻って『ゴンドラ』に続く一般映画第2作を撮ることを決意し、その覚悟の証として『ゴンドラ』をデジタルリマスター化したところ、リバイバル上映の機会を得て、そして……。
写真提供:Teamゴンドラ
老若男女を問わず、今の観客のほうがこの映画に素直に反応してくれている
──このたびは『ゴンドラ』リバイバル上映のロングラン・ヒット、おめでとうございます!
伊藤 ありがとうございます!でも、自分でも不思議でならないんですよ。30年前に作った映画が今の時代にこうも受け入れられたということが……。
──主人公のかがりちゃんや良の孤独や哀しみといった繊細な面持ちは、製作当時の80年代後半よりも、むしろ今の時代のほうがフィットしたということではないでしょうか。バブル真っ盛りだった30年前も、本当はみんな哀しくつらい想いをそれぞれ抱きつつ、しかしそれを表に出すことにはどこかためらいがあった。でも虚飾が剥げた今の時代の若者たちのほうが、素直に哀しさや寂しさなどを露呈し、『ゴンドラ』のスピリッツにも共感してくれる。
伊藤 実は初公開当時、いろんな人が批評してくれたんですけど、正直トンチンカンなものが大半だったんです。でも今回、SNSなどに書き込んでくる人たちのコメントのひとつひとつが実にユニークで、こちらの意図を汲んでいる大当たりなものばかりなんですよ。また今回の観客層を見ると実は若者だけでなく、年配層も多いし、男女比も同じ。これにも驚いています。
──確かにSNSの書き込みを読みますと、みんな“今”の映画として捉えている節が大いにあります。
伊藤 もともと今回のリバイバル上映は、せっかくデジタルリマスターを作ったのだから、見たことがないけど一度見てみたいという周りの声に応えたくてやったものなんです。その上で「俺は第2作を撮るぞ!」という決意表明ができれば、というくらいの気持ちだったのが、いざユーロスペースの上映が始まるや、たくさんのお客さんが来てくれた。ポレポレ東中野さんは1週間追加上映してくれたし、その最終日の2日前、そろそろ東京も終わりだなと思っていたらテアトルさんから連絡があって、急遽キネカ大森での上映も決まった。つまり30年前の映画が今の時代に6週間も上映されているわけで、地方も名古屋、大阪、神戸と回りますから、これはもう奇跡というか前例がないことですよ。
──こういう結果になるとはご自身、想像もされてなかったですよね。
伊藤 ただ、この映画は理屈ではなく感覚で作られていますので、その皮膚感みたいなものは、Lineなど言葉よりも絵文字やスタンプで意思を伝えることに長けた今の世代のほうが素直に受け入れやすいのかなとは思います。また今回当たる根拠なんて全然ないのに、それぞれの劇場さんが上映を引き受けてくださった。その心意気にこちらも応えなければと思って、宣伝とかやれるだけのことはやろうと決めたんです。さすがに30年前の映画だし、大手マスコミが採り上げてくれることは期待できない。ならば信頼出来るのはネットと、あと今回はAVショップさんがいろいろ協力してくれて、関東地区だけでチラシ4000枚くらい置いてもらえたんですよ。もう四半世紀以上いるAV業界が味方になってくれたんです。また昨秋、有明でAVの祭典があったのですが、そこで『ゴンドラ』の予告を流したりチラシを配ったりね。もう場違いもいいとこだけど(笑)。ニコニコ動画の実況&配信者として人気の“うんこちゃん”こと加藤純一君と仲良くなれたことも大きかったですね。彼とDoguma絡みの番組を一緒にやったことで、ニコ生ファンが「何か変なオヤジがいる」って(笑)、かなり僕のことを知ってくれたみたい。その後『ゴンドラ』の特番もやらせてもらったし、それこそ引きこもりやニートみたいな連中からも注目してもらえて、劇場まで足を運んでくれたんです。
写真提供:Teamゴンドラ
まさに作品の成否を担った見事なキャスティングの妙
──そもそも映画『ゴンドラ』は、主人公かがり役の少女(上村佳子)との出会いから企画が始まったと、作品のホームページに監督じきじきに記されています。当時、心を閉ざしていた少女が映画の主演を引き受けたことが、正直不思議でもあるのですが、実際はどうだったのですか?
伊藤 もちろん最初は嫌がってましたよ。ただ、彼女と知り合って半年くらいだったか、ちょうど六本木WAVE館オープニングイベントのために僕が高橋幸宏さんのPV『ドアを開ければ』を演出することになって、そのとき彼女を主演の天使の役で起用したら、普段は不愛想で感情を表に出さない子なのに、キャメラの前ですごく活き活きしてたんですよ。明らかに彼女は楽しめていたという実感があった。それからですね。彼女で長編映画を撮りたいという想いがあふれてきた。
──やはり彼女ありきの企画だったわけですね。
伊藤 ええ。心を閉ざした少女の話。ただ、彼女と知り合う相手の設定とか未定のまま、フラフラ街を彷徨って、ふと見上げたら高層ビルのゴンドラを見えてこれだと、何もかも一気に構想が固まっていきました。そして彼女に対しては最終的に、やりたくない理由、やってもいい理由、それぞれ箇条書きにしてくれと頼みました。やりたくない理由はいっぱい書いてありましたよ。「ラクダのおっちゃん(伊藤監督のこと)がうるさいから」とかね(笑)。ただ、やってもいい理由が3つ書いてあった。「楽しいかもしれない」「自分のためになるかもしれない」、そして最後が「目立ちたい」と。つまり彼女はやりたかったんですよ。だからこの部分を強く押し、彼女の説得に成功しました。
──その相手役の青年・良役の界健太さんは?
伊藤 彼は僕の弟で、当時OMに集う役者集団“闘魂組”に参加してたんです。実は最初、もうひとりイケメンで男臭い奴がいて、彼か弟かどっちで行くかってことで彼女と一緒にカメラテストさせたら、イケメンのほうだと彼女がどこかしら「女」の顔になっちゃうんです。でも弟だとまったくそれが出なくてピュアなんです。この映画のキモは、少しでも犯罪色が出たら全部御破算というか、ただの変態誘拐映画になってしまう。実際、弟は不器用で時間が止まってるかのように地味でストイックな奴でしたから、これはもう弟で行こうと。
──二人とも今は引退して…。
伊藤 ええ、今は社会人やってます。もう30年経ってますし、映画のイメージのまま、そっとしておいてもらえたらありがたいですね。
──二人以外のキャスティングも素晴らしいですね。特に良の母親・佐々木すみ江さんと、かがりの母親役・木内みどりさんとの対比がお見事です。
伊藤 かつて今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』(63)を見たときから、佐々木さんにはいつか必ず僕の映画に出てもらいたいと願い続けていました。木内さんは和製ダイアン・キートンですね。当時はTVですごく多忙な中、都会を生きる女性の一つの象徴として、どうしても出ていただきたかった。
──実はこの映画、女性3人の裸があからさまに映されるのが驚きでもあるのですが、
実はそれがあるからこそ、映画に説得力がみなぎっていますね。
伊藤 お風呂のシーンのとき、佐々木さんから「全部脱ぎますか?」と聞かれたので、「お風呂では全部脱ぎますよね」と答えたら、「正面から撮りますか?」「撮ります」「わかりました。ただし私、三段腹ですけど」「それがいいんです」。かがりちゃんはごねてたけど、「おばちゃんも三段腹出すのに、何言ってんの」と、巧みに誘導してくださいました(笑)。
──実の母親がいる都会のシャワー・ルームではなく、田舎の古びたお風呂でかがりちゃんは良の母親と一緒に、普通に裸になる。ここも象徴的だなと。
伊藤 西洋では親子でお風呂に入るってことはないらしくて、東洋ならではらしいんです。添い寝するって文化も向こうはないみたいで、でも日本では母親と子供のスキンシップって大きな要素だし、風呂って肌を合わせて心を通わせる象徴になると思えたんですよ。つまり良のお母さんは「母親」だけど、かがりのお母さんは「母親」になりきれてない。逆にその部分ゆえに今の若い女性が木内さんに感情移入してくれている理由なのかもしれません。
──ただしこの映画は、都会=悪、田舎=善といった図式に陥ることを巧みにかわしていますね。また双方の父親たちの弱さが、必死で生きている母親たちの強さとの対比にも思えます。
伊藤 僕自身に都会だ田舎だといった考えは毛頭ないですし、どちらもリアルに存在している世界ですからね。ただ、出門英さん扮するかがりの父親は、いつまでも夢ばかり追いかけて現実を見ていないという点で、実は僕がモデルでもあるんです。また良の父親役の佐藤英夫さんは、病気で顔や腕など右半身が麻痺している設定でしたが、僕は生意気にも佐藤さんに「僕は日本の役者を信じてないし、麻痺している演技が嘘くさくなるのは嫌だから、歯医者で麻酔入れてもらって、舌がベローンとなる感じを出したい」なんて、とんでもなく失礼なことを言っちゃったんです。でも佐藤さんは怒りもせずに「わかりました。やれるだけのことはやってきますので、あとは監督の判断で注射でも薬でも何でも使ってください」と。いざ撮影で青森の空港にいらした佐藤さんは、その時点で入れ歯を外し、麻痺した父親そのものでした。海岸を歩くシーンの右腕の手袋も佐藤さんのアイデアです。こういった患者の人たちは往々にして麻痺している側に手袋をしているんですよ。また「監督がそうしたければ、アップじゃなくて背中だけ撮ってもいいから」って、すごく言ってくださいましたね。
──田舎のお風呂には蜘蛛も出てきますが、それ以前に蜘蛛はイメージショットで幾度か出てきますね。
伊藤 心理学的に言うと、あの年頃の女の子が蜘蛛の夢を見たりするのは、ファザーコン
プレックスの象徴なんですよ。でも田舎のお風呂にいるのは現実の蜘蛛。つまりそれまでの妄想からリアルへと、彼女の心の変化を意味しているんです。でも、そういったところも自由に解釈してもらえれば。こちらは説明もしてませんしね。
写真提供:Teamゴンドラ
若き日の森﨑東監督との交流そして次回作の構想
──さて、『ゴンドラ』初公開の後、伊藤監督はこの映画の借金返済のため、AV業界へ移られるわけですが……。
伊藤 この映画は製作費5000万円かかってるんですけど、初公開のときの興行収益と、あとはビデオ化権で半分くらいは返済できたんですね。で、残りの2500万円を返すのに15年くらいかかった(苦笑)。
──私も初公開時にテアトル新宿で見ていましたので、その後伊藤監督がどうなさっているのか全然知らなかったのですが、まさかAV界の巨匠TOHJIRO監督と同一人物だったとは!
伊藤 まあ、普通はなかなかイコールにならないですよね(笑)。実際、今回のリバイバルでそのことを初めて知った映画ファンはいっぱいいると思います。
──森﨑東監督との関わりも教えていただけますか。どのような経緯で『黒木太郎の愛と冒険』に携わることになったのでしょうか。
伊藤 横浜放送映画専門学校に森﨑さんが講師でいらした日の夜、飲み屋で酔っぱらってた勢いで僕が「てめえみたいなジジイがつまんねえ映画作ってるから、日本映画はだめなんだ!」みたいなことを言って、それこそつかみ合いの喧嘩になったんですよ。でもその2日後くらいに森﨑さんから「俺とホン書かないか」と連絡があって、それが『黒木太郎の愛と冒険』なんです。その中で映画監督志望の青年という自分を投影させた青年を登場させたら、森﨑さんから「お前がやれ」と。そして映画が完成した後、これからどうやっていったらいいのか森﨑さんに相談したら「お前は自分の世界があるから、助監督なんかやらずに、銀行強盗してでも自分の映画を撮れ」「もし1回だけ助監督をやるのなら、寺山修司さんにつけ。きっとお前に影響を与えてくれるから」と。ぼくにとって森﨑さんは本当に人生の師匠です。『ゴンドラ』が完成したときも、誰よりも先に見に来てくれて、すごく褒めてくださいました。その日の夜、電話で「お前は日本映画界に絶対嫌われるから、早く世界に行け」と言われました。まあ、AVという別の世界に行ってしまいましたが(笑)。
──最後に、次回作の展望などを教えていただけますか。
伊藤 昭和39年の東京オリンピック直前の東京・下町を舞台に、母親が心の病に侵されていくことで、とある家族が崩壊していく話を企画しています。まもなく二度目の東京オリンピックも開催されますけど、あのときも現実は今と同じように、決して明るいものではなかった。少なくとも『オールウェイズ 三丁目の夕日』みたいなものとは真逆の映画になりますね(笑)。外の世界はあまり撮らずに横丁だけというか、狭い世界の中での家族に絞って撮れたらと考えていますが、日本ではなく台湾にロケセットを組もうかとも思っています。スポンサーがつくとイコール口が出るので、あくまでも自分の金で撮る。ようやくAVという名の竜宮城から外へ出る決意ができましたので(笑)、これからは再び映画監督として邁進していきます!
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(取材・文:増當竜也)
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