映画コラム
「ラピュタを見て楽器に憧れたり」映画に刺激されたこと、あれこれ
「ラピュタを見て楽器に憧れたり」映画に刺激されたこと、あれこれ
Photo via Visualhunt.com
「映画で人生が動いた瞬間」という切り口でコラムを書くことを考えてみた。よくよく考えてみたら、僕のこれまでの人生の選択や原動力はだいたいが映画によるところばかりじゃないか。
小さなところから思い返してみれば、子どもの頃は『グーニーズ』を見て、自転車はBMXにばかり乗るようになり、『天空の城ラピュタ』のパズーが吹くトランペットに憧れてギターやピアノなどの楽器を弾くようになった。
© 1986 二馬力・G
アメリカ映画で林檎のマークの入ったクールなコンピュータを見かけてからは、僕は一生Macしか使わないぞ、と決意したり、『あの夏、いちばん静かな海』を見て海辺の町に移住したり、『180°サウス』を見てアウトドアにフィールドを広げ、『イージーライダー』を見てオートバイに乗るようになった。
最近は『メルー』を見て登山を始めたり、というように、作品の本題とややかけ離れているケースはあるものの、僕が人生で選ぶチョイスは、大なり小なりいつだって映画によって導かれ、僕という人格のだいたいのところは映画によって構成されてるんじゃないか、なんて思うほどです。
僕は常々、___映画(物語)には力がある___と強く思っているんです。
死にたくなるほどつらいことがあったとき、身を縮めて耐えなければならない時間がつづくとき、気力が枯れて部屋から一歩も出たくないとき、そんなとき僕はいつも、映画の中に逃げ込み、そこで力を得て、またゆっくりと立ち上がり、今日まで生きのびてきたような気がします。
ウディ・アレンの映画に出てくる、夢のような恋に奔走しながらも最後にはボロボロのひとりぼっちになってしまうみじめな男、なんてのを笑いながら見ていると、「人生ってけっきょくそんなもんだよな」という諦念にちかい楽観を獲得します。自分より劣る人間を見て優越感に安堵する、のではなく、本当はそんなに好きでもない人と一緒になるより、彼のほうがしあわせなんじゃないかって思ったり。
『男はつらいよ』の寅さんを見ていると、いつも馬鹿だなあ、どうしようもないなあ、もっとうまく生きられないのかよ、と笑いながらも、次第に、でもこんなに自由でしあわせそうなおっさんもいないなあ、笑ったり泣いたり、傷ついたりしてるけど、生きるってこういうことだよなあ、と心が楽になってくる。気づいたら大まじめに捉えていた自分の人生を笑い飛ばせたりする。
映画っていうのは、他者の人生ドラマを眺めることで、己の人生を多角的、客観的に見させてくれるんですね。神の視点、とでも言うような、広く高い視野で、悩みや苦しみだらけの自分の人生を遠くから落ちついて眺めることができる。この前『シン・ゴジラ』を見ていたら、未曾有の有事なのに些細な取り決めに追われる「おいおい、今そんなことやってる場合じゃないだろう!」っていう政府の慌てっぷりがあらためて愉快で笑っちゃったんだけど、でも同時に、僕らが日常で悩んだり迷ったりしてるのって、彼らよりずっとちっぽけなことなんだよなってさらに笑えました。エヴァもそうだけど、庵野監督はいつも神の視点を与えてくれます。
そういう意味で言うと、世にすねて人にひねくれていた僕が、だんだんと自分に正直に、自由に人生を生きられるようになったのは、やっぱりどう考えても映画のおかげであり、昨今とくに思い出せるところで言えば、やはりウディ・アレンの数多の恋愛ドタバタ劇と、”茅ヶ崎の竜さん” というハンドルネームの元にもなった『男はつらいよ』の寅さん、『カンフーパンダ』といったところの影響が強いでしょうか。
ウディ・アレン作品で慌てふためく男たち(女たち)や寅さん、カンフーパンダって、みんな一見 “みっともない” んですよね。ハタから見たら失笑しちゃうようなみっともない人生かもしれないけど、当の本人たちは、なんだかんだ言って、自分は自分でいいんだ、という、前向きで揺るがない “居直り” を獲得している。だからいつまでもたくましく生きていける。
ちなみに『カンフーパンダ3』は、自分を完全に信じられなかったポーが、嫌いなところダメなところ全部ひっくるめて俺だ!という究極の悟りを得るアイデンティティの物語で、父の他界によりアイデンティティが揺らぎ、四十にして惑っていた僕には非常に助けになりました。劇場公開がなかったのは残念ですが。
ウディ・アレンや寅さんやカンフーパンダのおかげで、僕はみっともなくてもいいんだ、楽に力を抜いて生きよう、という達観を得たのですが、同時に僕の中には、ストイックに夢を追う『ラ・ラ・ランド』のセブのような人格も存在するし、『ゴッド・ファーザー』の冷酷なドン・コルレオーネもいるし、『岸和田少年愚連隊』みたいなケンカっぱやい性格もあるし、あるいは『駆込み女と駆出し男』の健気な女性じょごだって存在するんです。
平野啓一郎さんが分人主義の中で言っておられますが、僕らの中にはいろんな自分__分人__が存在して、それらの構成比率がその人の個性を決めるのです。僕らはこれ以上分けることのできない一人の個人である、と考えがちですが、本当はそうではなくて、たとえば僕の場合だったら、ウディ・アレンとか寅さんとか亡父とかセブとか、いろんな、影響を受けた人格、いろんな「自分」がいるんですね。
だとするならば、学校でいじめられている自分、親に愛されなかった自分、イヤな仕事をしている自分などの、嫌いな自分を抱えつつも、それよりは、映画を楽しんでいる自分、家族と笑っている自分などの、好きな自分を ”足場” にして、楽しいほうに目を向けて生きていけばいいんです。
僕が、映画(物語)には力がある__、というのは、そういういろんな自分(分人)を知ることができるからであり、さらに、映画の登場人物の考え方や価値観や強さや弱さが、僕らの中に宿っていくからです。
苦しいときには寅さんを思い出してそっと苦笑し、人を傷つけてしまったらゴッド・ファーザーのように孤独をいつくしみ、ストレスが溜まったらカンフーパンダのように食いまくる、というように、僕の中には、いろんな映画のキャラクターがいて、その時々に合わせて、僕という人格を生きてくれます。
マーティン・スコセッシが映画化した遠藤周作の『沈黙』では、「神はいつも一緒にいる」と提示されますが、亡くなった人は胸の中でいつまでも生きつづける、という言葉と同様に、これまで縁のあったたくさんの人たち、これまで見た映画のたくさんの登場人物もまた、あなたの中で生きつづけるのだ、と思ったら、ずいぶんにぎやかで素敵な毎日だと思いませんか。
中には、これまで愛してきた数多の映画キャラクターが自分のいるのだと思えれば、つらいことがあってもどうにかなる、という勇気にもなるし、孤独に打ちのめされそうなときには、心に寄りそうあたたかい灯になってくれるかもしれません。
映画を見れば見るほど、人は独りじゃなくなる。あなたの中には、どんな映画のどんなキャラクターが生きているでしょうか?
(文:茅ヶ崎の竜さん)
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