『アウトレイジ 最終章』祭りの後は、ただ寂しさが残るのみ
(C)2017『アウトレイジ 最終章』製作委員会
ヤクザも警察も、とにかく皆疲弊している。まるで『アウトレイジ ビヨンド』で祭りは終わっていたかのように。この染み渡るような物哀しさは一体何なのだろうか。これほどまでに終わるのが寂しいと思ってしまった映画は、ちょっと久しぶりだ。
海に向かう坂道をゆっくりと走る軽トラック、右手にある古ぼけた看板にはハングル文字が書かれている。前作で片岡(小日向文世)を弾いた後に張会長(金田時男)の手引により韓国の済州島に渡った大友(ビートたけし)は、彼を「兄貴」と呼ぶ舎弟の市川(大森南朋)と桟橋で親しげに会話をしている。
抜けるような青空でもない、かと言って重苦しい曇天でもない、ただただ乾いた空と海の色は白昼夢のようでもあり、味気ない壁紙のように画面に貼り付く。
しかし、その夢から醒めるように、お約束の暗転がカマされ、済州島の歓楽街をヤクザが闊歩するような速度で走る黒塗りの高級車が映し出された瞬間、私たちは「アウトレイジ」の世界に放り込まれていることを否が応でも認識させられることとなる。
磨きがかった車のボディは盛り場のネオン看板を美しく反射させ、シリーズで最も「黒」を艶かしく描き出す。毎度の赤文字で出されるクレジットに続き、走行中の車体を真上から捉えたショットで、『アウトレイジ 最終章』のタイトルが映し出される。
ここでも私たちは再び認識させられることとなる。一作目『アウトレイジ』の冒頭で贅沢な車列のショットから動き出した物語が、どのような形であれ、結末に向かって走っているということを。
ひとしきり感動していると、大友のシマで揉め事を起こした花菱会の花田(ピエール瀧)が半裸でボールギャグを首にかけ、見事な刺青を見せつけ凄んでみせるのだから油断ならない。この「間」こそ北野武監督作品であるということを、これまた認識させられる。
静かに進行していく物語と、漂う物哀しさ
(C)2017『アウトレイジ 最終章』製作委員会
巷間言われているが、前二作に比べれば物語は静かに進行していく。しかし、『アウトレイジ ビヨンド』よろしく突如言葉の喧嘩がはじまったり、歯医者での口中ドリル掻き回しの刑や、ピッチングマシン撲殺刑のような残酷ギャグ的ヴァイオレンスがはじまったり、挙句の果てには今回の暴力シーンの目玉と言ってよいであろう、シャバ帰還記念パーティーでの大虐殺がはじまったりと、意外と気が抜けない。
だが、その盛り上がりとは裏腹に本作は物哀しさで満ちており、何より疲弊している。これは俳優の加齢やシリーズ物ゆえのマンネリ化である、などと言うつもりは無い。西田敏行と塩見三省がそれぞれ別の病気を患い、リハビリを経て、明らかに病み上がりであることが伺えながらも、それでも圧倒的な存在感で花菱会の西野(西田敏行)、中田(塩見三省)として存在している。その生き様に思わず落涙してしまいそうになったからである、などと言うつもりも無い。
花菱会は新体制になり、証券マン上がりの新組長の野村(大杉漣)が跡目を継いでいるが、古参幹部の西野や中田などからは見透かされ、舐められている。組織内はガタつき、かつての代紋の威光は鈍り、総じて落ち目であることが伺える。
(C)2017『アウトレイジ 最終章』製作委員会
さらに落ち目なのが山王会であることは言うまでもない。燻る野心はあるものの、基本的にはすっかり牙を抜かれ、裏では悪態をついてはみるが、表立っては花菱会に対して文字通り頭が上がらない。
警察も同じく、片岡のような人物が居なくなり、誰一人として画が描けず、圧力には簡単に屈してしまう。唯一、繁田(松重豊)だけは侠気があるが、組織の論理について行けなくなった人間は、枠からはみ出して生きていくしかない。ヤクザだろうが警察だろうが、組織に居る以上、そこに大した差異はない。
ヤクザという組織自体が疲弊し斜陽となっている本作においては、指詰めなどは今やオールドスクールであり、とにかく金、金、金である。警察も積極的に組織を潰そうとは考えない。仁義だケジメだ落とし前だの時代とは、随分と変わってしまった。変化に適応できない者に残された道は、現状維持のまま緩やかに逃げ切りを画策するか、群れからはぐれるか、派手に散るしかない。
そんな中、威厳を保っているのは誰か、仁義を通すのは誰か
(C)2017『アウトレイジ 最終章』製作委員会
その中で、唯一威厳と、とてつもない権力を保っているのが「仁は義なり、義は仁なり」とハングルで書かれた掛け軸の前に、どっしりと座る張会長であるのは興味深い。詫びに来た花田と中田に対して、張は韓国語で側近の李(白竜)を通してのみ話をし、花菱会の若頭である西野に対してすらも完全に無視を決め込み、面子を完全に打ち砕く。
演者として「プロ」のなかに混じった金田時男、日本という国にいる韓国系のフィクサー張という強大な異物感は、もはやかつての極道は日本には存在しないと言わんばかりの描かれぶりであり、花菱会、山王会、警察機構と対照を成し、落ち目の組織たちに漂う疲弊感を加速させる。
そして、張が目をかけているのが西野曰く「古くせえ極道」の大友である。大友と張、二人の背景に何があったのかは詳しく明かされぬままであったが、張は大友を決して売らず、並々ならぬ便宜を図っている。
大友が匿われた済州島はかつて、四・三事件というヤクザの抗争などとは比べ物にならないほど「アウトレイジ」な大虐殺があった地である。犯罪率も高く、中国系の犯罪者たちも多く潜り込んでいる。大友が日本以上に切った張ったの世界で、現役で居続けたであろうことは想像に難くない。
大きさはどうあれ、張がその「ややこしい」地域のシマを任せているくらいなのだから、直情型で義理堅い大友が恩に報うべく「俺が行くしかねえだろ」と再び日本の土を踏むのも無理はない。
まるで疲れ切って半端な画しか描くことしかできず、自ら転げ落ちていくような浮足立ったヤクザたちに活を入れに来たかのように、大友は暴れまくる。しかし、刻まれた皺には暗い影が落とされる。「若い衆、撃っちまった」とポツリと呟いた瞬間の、彼の表情と語勢を一体誰が想像できただろうか。
「アウトレイジ」に止めを刺す、たった一発の銃弾
(C)2017『アウトレイジ 最終章』製作委員会
それぞれの組織や登場人物は、何らかの物哀しさと疲弊を抱えたまま、言葉での殴り合いや銃声、そして鈴木慶一の手による、素晴らしいとしか言えない劇伴を囃子として、コーダ(終結部)に向けて進んでいく。
思えば、最初は小さな偶然とも言える出来事だった。『アウトレイジ』で大友が池本(國村隼)に命じられた村瀬組との些細な揉め事から転がりはじめた物語は、大友組はもちろん、村瀬組、池本組、山王会、花菱会、警視庁組織犯罪対策部をも巻き込み大きなうねりとなって、密約や裏切り、騙し合いが「全員悪人」という惹句のもとに繰り広げられた。
しかし、偶然にはじまった物語は、偶然によって解決されてはいけない。始めてしまったものは、いつか終わらせなければいけない。極道にも掟があるように、物語にも掟がある。大友は極道の、そして物語の掟に従い落とし前をつける。
あれだけの銃弾とヴァイオレンスをばら撒きながらも、まるでこの映画に必要な弾は、本当は一発だけだったと表明するかのように。乾いた発砲音を立てながら弾丸が止めを刺すのは、他でもない『アウトレイジ三部作』である。
かくして祭りは終わりを告げる。そこには囃子の残響と、祭りのあとの寂しさが、ただ残るのみ。
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