コロナ騒動の今こそ見るべきウイルス関連映画
新型コロナ・ウイルス(COVID-19)が蔓延し、世界中が非常事態に陥っています。
一体何がどうしてこのようなことが起きているのか、そしてこのようなときに人はどのように対処したらよいのか……。
一方で、映画には数々のウイルスを扱ったものが存在します。
それらはすべて映画という名の娯楽のために作られたものですが、しかしその中から何某かの今後生きていくための希望のヒントを与えてくれるものもあるかもしれません……
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街454》
真のエンタテインメントは人々を啓蒙し、明日の希望を導くものであると固く信じる身としては、今回あえてウイルス関連映画の数々を検証していきたいと思います。
(もっとも、今こういった内容のものに拒絶反応を起こしたり、不安心理を増大させてしまうような方々もいらっしゃることでしょうから、これ以上は無理に読むのを止めていただいても仕方がないとも認識しています)
現代社会の混乱を先取り
していた『コンテイジョン』
現在、映画ファンの間で徐々に話題を集めている旧作映画があります。
スティーヴン・ソダーバーグ監督の2011年度作品『コンテイジョン』です。
原題の”contagion”とは”伝染”“感染”といった意味。
これはウイルスそのものがもたらす病原菌としての恐怖はもとより、それによって社会はいかなる混乱をもたらすかをドキュメンタリー・タッチで淡々と描いたもので、今まさにその危機に直面している我々の目から見て、そのリアリティに恐怖すら覚えてしまうものがあります。
香港が感染源と思しきウイルスが、現地へ赴いていた世界中のビジネスマンたちの帰国によってまたたくまに蔓延していくさまや、それに伴う政府やWHOの対応(クラスターなる専門用語もここで既に普通に出てきます)、感染者を収容する場の確保など医療体制の対峙と崩壊、ついには遺体用のビニール袋まで底をついてしまうあたりはその膨大な感染者数を巧みに物語ってくれています。
まもなくして「私はレンギョウ(モクセイ科の植物)でウイルスを克服した!」といったSNS発信も、さらに世界を混乱させていきます。
発信したフリーライター(ジュード・ロウ)はあくまでも自分が正義と義憤の心に燃えての行為であることを訴えるあたり、こういう輩は現実にもいそうだなと嘆息させられます。
やがて暴徒化していく人々が薬局や町を襲うくだりなど、まさに人間が死なずしてゾンビ化しているかのような恐怖を覚えること必至。
そう、驚くのはこの作品、オールスター・キャストの布陣であるにも関わらず、それぞれのスター性が映画のリアリズムを一切阻害することなく進行していくことで、ソダーバーグ監督ならではのスタイリッシュかつ秀逸な映像センスも何ら薄まっていません。
華やかなストーリー設定も極力抑えられているものの、妻(グウィネス・パルトロウ)と息子を亡くした父(マット・デイモン)と娘の交流、頭の固いお役人に悩まされながらも真摯に治療にあたりつつ己も感染してしまう医師(ケイト・ブランシェット)、ワクチンを求める一味に誘拐される疫学者(マリオン・コティヤール)、都市封鎖の情報をひそかに恋人に漏らしてしまう博士(ローレンス・フィッシュバーン)など、いくつか展開されていくドラマ部分もヒューマニスティックな集団劇として、そこはかとなく映画に溶け込んでいます。
やがてワクチンは開発されますが、まだ世界中の人々全てに分け与えるほどの数を生産できないことから、ではどのような方法で配布していくか? も、なるほどさもありなんといったところでしょう。
そしてこの映画、なぜか全ての始まりの2日目から始まり、最後に1日目が描かれます。
ここにソダーバーグ監督の痛烈なメッセージが込められていることを、決して見逃さないようにしてください。
本作は公開当時さほどの評価を得ておらず、むしろ淡々と進む展開を地味とか退屈などと批判する声も少なからずありました。
(日本も3・11東日本大震災の勃発から半年後の11月12日に公開されていますが、さすがにウイルス・パニックにまで注目するほどの余裕はなかったともいえるでしょう)
しかし新型コロナ禍が世界中を席捲する今となっては「よくぞここまで!」と驚嘆されるほどのリアリズムと映画的醍醐味の融合に、配信やDVDなどのソフトで鑑賞した人々の間で口コミが広がり、ひそかなブームが巻き起こっているのです。
そして現在、本作のスタッフ&キャストの多くは、コロンビア大学メールマン公衆衛生大学院が立ち上げたエビデンスに基づく新型コロナの予防策などの情報を発信する公共広告キャンペーン”Contorol the Contagion”に参加しています。
https://www.publichealth.columbia.edu/controlthecontagion
『感染列島』と『FLU』
日韓のウイルス映画の相違
『コンテイジョン』の製作背景には、2009年の新型豚インフルエンザ世界的流行が企画背景として考えられますが、エボラ出血熱やSARS(サーズ)コロナウイルス、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザ、MERS(マーズ)コロナウイルスなどによるパンデミックおよびその危機は、20世紀後半から21世紀に入ってから幾度も猛威をふるってきました。
日本も2007年に鳥インフルエンザが流行したことを背景にしたと思しき映画『感染列島』が製作され、2009年1月17日に公開されましたが、その3か月後には新型豚インフルエンザの世界的流行が起きています。
『感染列島』は新型鳥インフルエンザの蔓延によって日本中が大パニックに陥っていく様を医療現場の目線から描いていきますが、こちらも公開当時は「リアリティがない」「医療も政府の対応もズサンすぎ」などといったバッシングを受けました。
しかし『コンテイジョン』同様、本作も現在のコロナ禍に対する日本の状況などを鑑みると「実は映画以上に今の現実のほうがズサンだった!」などとして大いに再評価がなされています。
確かにこの作品、医師同士の恋愛話など日本の大作映画にありがちなベタベタ・エピソードが興を削ぎ、その伝では余計なドラマを廃して成功した『シン・ゴジラ』(16)以前の映画であることを痛感されられる部分も少なからずあるのですが、それでもウイルス・パンデミックに対する諸所の設定がかなり核心をついていたことに、今更ながらに気づかされます。
はじめは鳥インフルエンザとみなされ、その感染源として激しく非難される養鶏場主人(光石研)のくだりなど、さりげなくも人間の醜さを思い知らされる瞬間もいくつかあり(しかもウイルスの正体は鳥インフルではなかった!)、異能の反骨映画作家・瀬々敬久監督の面目躍如といったところでしょう
またこの作品で目を見張らされるのは藤竜也扮する医学博士の存在で、主人公医師(妻夫木聡)とともにウイルスの発生源を探る調査の旅に出た彼は、ふと「人間、ウイルスと共に生きることはでけへんもんやろか?」と、飄々とした優しい笑顔で口にします。
実はがんに侵されているこの博士、それでもがん細胞を恨むことなく、彼らも生きるのに必死なのだと言わんばかりに、死ぬまで付き合っていこうとしているのでした。
現在のコロナ禍に際して、各国の政治家たちがやたらと「これは戦争だ」「コロナは敵だ」「撲滅せよ」「勝利しよう」などと勇ましい言動を発し続けています。
しかし実際のところ、未だに人類は風邪の特効薬すら開発出来ておらず、インフルエンザもSARSもMERSも一応の薬効あるものが見つかってはいるものの、それでも万能というわけではなく、限界はあります。所詮は対処療法なのです。
(何よりも撲滅できていれば、毎年風邪やインフルエンザが流行することもないでしょう)
過酷な現実に直面中の今、この「人間とウイルスの共存」はお花畑の理想論として一蹴されるかもしれませんし、不謹慎と怒られるかもしれません。
しかし「人間はウイルスにも打ち勝つことのできる偉大な存在である」とでもいった驕りの姿勢こそが、逆にこのパニックの源泉でもあることは『コンテイジョン』でも訴えられています。
少なくとも、私はこの映画の藤竜也の存在に未来の希望を感じるとともに、これこそが瀬々監督がもっとも訴えたいメッセージでもあったように思えてなりません。
一方、韓国でも2013年にウイルス・パニック映画『FLU 運命の36時間』が製作され、同年12月14日に日本公開されています。
こちらも鳥インフルエンザの変種が韓国都心に隣接する街に蔓延し、瞬く間に修羅場と化していく恐怖を描いたものですが、『コンテイジョン』『感染列島』とは真逆にドラマティックすぎるほどの熱血スリリング展開で(何せ市民の感染から都市崩壊の危機までが、たったの36時間に凝縮されている!)、単純にエンタメとして面白く見ていられるという点ではこれが随一でしょう。
とにもかくにも見る側へのサービス精神に怠りはなく、恐怖と不安を大いに盛り上げていく前半部から、後半はいつしか庶民の暴動パニックがメインとなっていき、ついにはアメリカ政府まで介入しての……と未曽有の危機のつるべうち! に圧倒されまくりなのでした。
さすがは生半可な描写を潔しとしない韓国映画ならではのテイストで、その後のゾンビ・パニック映画の傑作『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)とも共通するエネルギーを感じてなりません。
(そういえば『新感染』の立役者の一人でもあったタフガイ、マ・ドンソクがここでは悪役として登場して、大いに存在感を発揮しています)。
また幼い女の子をめぐるストーリー展開も「子どもと動物には、どんな名優も勝てない」の映画的通説に倣うものに成り得ています。
同じ鳥インフルエンザをモチーフとするウイルス・パニック映画でも、日韓でかくもテイストが異なるものかと、その映画的感性や資質の違いなども体感させられる(まあ、そもそも企画意図も双方異なるわけではありますが)2本の興味深い作品なのでした。
細菌兵器としての
20世紀型ウイルス映画
ここでウイルスを主題とする過去(20世紀)の映画をざっとふりかえってみたいと思います。
つたない知識で恐縮ではありますが、ウイルス映画の原点は『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)『魔人ドラキュラ』(31)『吸血鬼ドラキュラ』(58)などを代表とする吸血鬼ものではないか? そう勝手に解釈している自分がいます。
ドラキュラは人の生き血を吸い、吸われた者は吸血鬼=ヴァンパイアと化していきます。
『吸血鬼ドラキュラ』の原作小説『ドラキュラ』はブラム・ストーカーによって1897年に発表されていますが、ドラキュラ伯爵のモデルが15世紀のワラキア(現ルーマニア南部)公ヴラド3世であることはマニアなら先刻承知の事実で(しかも本来は恐怖の対象どころか、祖国の戦争の英雄であった!)、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ドラキュラ』(92)は戦争で愛する女性を奪われたヴラドが、人間に復讐するために悪魔と契約して吸血鬼ドラキュラと化したという設定でした。
一方、ヨーロッパには中世からペストやコレラなどさまざまな伝染病の歴史があり、それらと吸血鬼の伝承とが自然にシンクロしていき、やがては吸血鬼映画の誕生と相成ったのでは?
(怪奇文学や歴史などに詳しい方々へ、的外れであれば素直に謝ります)
また吸血鬼とは本来噛まれて一度死に、生きる屍として甦った存在でもあります(もっとも、今ではさまざまな解釈がなされていますが……)。
生きる死者の代名詞たるゾンビもまた人を噛み、肉まで喰らいますが、その犠牲者も感染してゾンビ化していきます。
元々は怪奇映画のジャンルであったゾンビ映画も、今では多くがウイルス・パニック型になっているのも、現代社会の情勢と無縁ではないでしょう。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68)や『ゾンビ』(78)などで今に至るゾンビ映画を世界的に浸透させたジョージ・A・ロメロ監督は『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』(73)および現代版吸血鬼映画『マーティン/呪われた少年』(77)を発表していますが、前者はアメリカ軍が極秘に開発していた細菌兵器が漏洩し、感染した人間が凶暴化していくというもので、いわば生きながらにしてゾンビ化していくかのような恐怖を描いた作品でした(2010年にはリメイク映画も作られています)。
日本で大ヒットしたジョルジュ・パン(ジョージ・P)・コスマトス監督の『カサンドラ・クロス』(76)は、細菌兵器を浴びて逃走するテロリストが乗った列車内でパンデミックが発生し、米軍は極秘裏に列車ごと“処理”しようとするもの。
ソフィア・ローレン、バート・ランカスター、リチャード・ハリスをはじめとするオールスター・キャスト超大作で、ジェリー・ゴールドスミスの音楽が素晴らしい効果を醸し出していました。
細菌兵器により人類は南極大陸の観測隊員863人を残して全て滅亡してしまう危機を描いた日本映画超大作『復活の日』(80)は、草刈正雄ら日本人だけでなくジョージ・ケネディ、オリヴィア・ハッセー、グレン・フォード、ロバート・ヴォーン、など時の海外スターを大挙起用し未曽有の南極ロケまで敢行しています(撮影中に座礁事故が起きて、ニュースになったりもしましたね)。
『感染列島』同様、前半部の日本の諸描写がメロドラマチックになってしまう欠点などもありますが、逆に海外スターが出演するシーンの数々は日本映画の枠を超えた厚みに満ちあふれており、当時の日本映画ファンを感嘆させてくれたものでした(また彼らと対峙する草刈正雄の健闘も大いに讃えたいものです)。
なお、世界中がウイルスで滅んでいく諸描写の数々は、深作欣二監督が戦中戦後の少年時代に体験した様々な惨禍が基になっているということです。つまり深作監督にとって、本作には戦争映画としての狙いもあったという事でしょう。
さて、このように当時は細菌兵器としてのウイルス、つまりは人工的なものがもたらす脅威を主眼としたものが多く、その伝では自然発生の産物としてのウイルスに対しての認識はまだ薄かったのかもしれません。
(そもそもウイルスは目に見えない分、映画にしづらいという難点もあり、それゆえに細菌兵器といったスリリングな設定も映画的に必要としていたのかも)
なお、この時期の変わり種としては、狂犬病に侵された悪魔崇拝カルト教団が凶暴化するカルト・ホラー映画『処刑軍団ザップ』(70)や、実験段階の手術を受けた女性が人々を吸血感染していくデヴィッド・クローネンバーグ監督の『ラビッド』(77)などがあります。
『ジュラシック・パーク』などで知られるマイケル・クライトン原作の『アンドロメダ…』(71)は地球に帰還した人工衛星の中にいた宇宙病原体“アンドロメダ・ストレイン”をめぐる謎を『サウンド・オブ・ミュージック』などの名匠ロバート・ワイズ監督が描いたSF映画で、後にTVミニ・シリーズ『アンドロメダ・ストレイン』(08)も発表されていますが、こちらも米軍が病原体を細菌兵器に利用しようとしている設定がなされていました。
自然発生型ウイルスが細菌兵器を
越える猛威を奮う『アウトブレイク』
こういった細菌兵器としてのウイルスから、本来の自然発生型ウイルスへの映画的移行を主眼として大成功を収めたのが、1995年のウォルフガング・ペーターゼン監督の『アウトブレイク』かもしれません。
原題の“outbreak”とは限られた範囲における感染の流行を意味する言葉です(これに対して世界的規模の感染を“pandemic”と呼びますが、その区分けはさほど明確ではないとのことです)。また爆発的速度で大流行していく様子を表すこともあります。
ここでは米軍が未知のウイルスを細菌兵器として利用すべく密かに保存していた折、その原種となるウイルスが猿を宿主としてアフリカからアメリカに持ち込まれ、国内でさらに変種化して人々を感染していく恐怖(つまりは細菌兵器用に開発されていたワクチンが利かない!)と、細菌兵器の存在を世に知られることを恐れる軍部の陰謀に対峙していく軍医の活躍を描いていきます。
こちらもダスティン・ホフマン、レネ・ルッソ、モーガン・フリーマン、ドナルド・サザーランドなどオールスター・キャストで、ハリウッド娯楽映画の伝統を汲んだスペクタクル超大作ではありますが、この作品を機に自然発生するウイルスそのものの脅威がリアルに、そして本格的に描かれるようになっていった感もあります。
とはいえ、ここまで紹介してきた作品はあくまでもフィクションであり、現実の新型コロナ・パニックとは異なる要素があって当然。所詮、映画は映画でしかありません。
しかし、たかが映画ではあれ、その中には何某かの未来を明るく示唆するヒントも隠されているかもしれません。
少なくとも今、国民を牽引すべき立場にある政治家などには、こういった作品を見ていただいた上でまともな政策を実践していただきたいものと願ってやまない次第です。
そしてまた再び、これらの作品群を純粋にエンタテインメントとして接することができる日が来ますように……!
(文:増當竜也)
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